『笹ヶ峰善人』
笹ヶ峰 善人にとって、錫蒔 祈という人物は年の離れた弟のようなものだ。
ある事件を切っ掛けに知り合い、あの規格外の存在である悪食探偵にずぶずぶと引き込まれてしまった、気の毒な人物――そんな風に僅かな同情心を抱きつつも当初は深入りしないようにと距離を置いて見ていたが……。
錫蒔 祈は、思っていたよりもずっと危なっかしい人間だった。
向こうの大学は休学したのか、中退したのかは聞いていない。だが、わざわざ獏間についてきたのだから、もう戻る気はないのかもしれない。祈の状況を考えれば、それも無理のないことだなとは思った。
一家揃って入院した噂はあの町では容易く広まるだろう。前の事故も掘り返され、痛くもない腹を探られ、尾ひれがついた話も降ってわくに違いない――。そうなれば、居心地悪いだろう祈が町を離れるのも当然だと思ったが……頼る相手に獏間を選んだのが、なんというか心配だった。
獏間 綴喜という存在は、とにかく人に興味がない。
自分の腹を満たすため、警察組織に協力しているに過ぎないのだ。
一番手軽に、奴の《飯の種》を入手できる方法だから。
上層部は獏間を頼る。けれど、笹ヶ峰の所属するチームは獏間を信用していない。鏑なんかは、相当に嫌っている。
かつては、笹ヶ峰もそちら側だった。
理解の範疇から外れたモノとして扱い、必要最低限の中でしか関わる気などなかったのに――。
「ほらスズ君、たくさん食べるんだよ」
がやがやしたファミレスで、慈愛に満ちた笑みを浮かべる男を斜め向かいから見てしまった笹ヶ峰は、ぐっと目元を抑える。
――変な物を見てしまった。見間違いではなく、バッチリと。
(なんなんだ、こりゃあ)
笹ヶ峰 善人が知っている獏間 綴喜は、いつだって笑みを浮かべていた。
他者が嘆く時も憤る時も……物言わぬ時も、いつだって微笑んでそれらを見下ろしていた。
それは、獏間 綴喜の異常さを浮き彫りにし、自分たちとは違うモノなのだと笹ヶ峰は幾度となく心に刻んだはず。
だが、錫蒔 祈に出会ってから、獏間は変わった。
意外に偏食の気があるらしい祈を自分の手元におき、世話を焼く。我が道を行く男の中に、そんな面倒見のよさがあるなんて、笹ヶ峰は知らなかった。
しかし現実、獏間はこれまで笹ヶ峰が見たこともない表情で面倒見のよさを発揮している。
それこそ、普通の人間のように。
こうして世話を焼く獏間と世話を焼かれる祈は、兄弟のようにも見える。
ともすれば――親子だ。
(ああ、疲れてんのか……)
運ばれてきたハンバーグプレートを受け取りつつ、馬鹿な事を考えたと笹ヶ峰は自分の思いつきを一蹴した。似ていないものの外見的な年齢差からは兄弟に例えることはあるかもしれないが、親子はない。
(それとも、坊主が原因か)
親子なんて馬鹿なことを一瞬でも考えるのは、祈のせいだ。
彼が悪いということではない。ただ笹ヶ峰には、錫蒔 祈という十九歳の青年が、時々どうにも幼く見える時があったのだ。
――だから、他人の面倒なんて見られそうにない獏間の元に身を寄せると聞いたとき、大丈夫なのかと本気で心配したが、このふたりは上手くやっている。
だからこそ、危ういと笹ヶ峰は思う。
獏間の元にいるからか、あるいは元からなのか、祈は自身の危険に鈍い。
呪いで死ぬなんてなれば、もう少し取り乱してもいいのに、落ち着いている。獏間の言うがままに、こんなところに寄って、普通に食事をしている。
(泣きわめいたっておかしくねぇのに……坊主は、普段通り過ぎるんだ。だから……)
――危うい。
獏間は探偵だ。だが、真実は違う。
変わり種専門の探偵という名義を掲げた、悪いモノを食らう存在。
ソレに傾倒してはいけない。
人は所詮、どれほど異能を持とうと、人の枠からはみ出すことはない。引かれた線は存在し、そちら側にはみ出してしまえば――もはや人ではいられなく。
獏間はそちら側にいるモノで、祈はこちら側の存在。
そうであるなら、信頼しすぎてはいけない、傾倒してはいけない、依存してはいけない……慣れてはいけない。
深みにはまればそれだけ、恐れに対する鈍化が進む。
祈は長らく、叔母の情念により呪われていた。狙われていた。身近すぎた悪意のない悪により、祈はそういったものに対して人が本能的に覚えるはずの恐怖心や危機感が麻痺してしまったのかもしれない。
獏間といれば、きっとそれは良くならないだろう。あの病院にいれば、祈の身を守ると同時にリハビリにもなると思ったのだが……。
ちらりと笹ヶ峰がテーブルの反対側にいる、綺麗な顔の男を見れば、驚いたことに相手もこちらを見ていた。チョコバナナのキャラメリゼパンケーキなるものを注文していた男は、笹ヶ峰と目が合うとふっと目を細める。
その目にキラリと鋭利な光が宿った時、笹ヶ峰は反射的に腰を浮かせていた。
防衛本能――もしも、隣に座っていた祈が不思議そうな声で「トイレっすか?」なんて気の抜けたことを言わなければ、本能のままに獏間を制圧しようと手を出していたかもしれない。
そして、手痛い反撃を食らっていただろう。
奴が手でもてあそんでいる、ナイフかフォークで。
「どういうつもりだ、獏間」
「やっぱり優秀だね、笹ヶ峰刑事。あの連中のなかでは、僕はきみが一番好きだな」
「ちっとも嬉しくねぇよ、悪食野郎」
わざと、だ。
人を足に使っておいて、用がなくなったらさっさと追っ払いたいのか――やはり性格が悪い。
「あ~……トイレは? いいんすか?」
不思議そうに、そしてどこか不安そうに、けれども場の空気を取りなすようにわざわざ軽い口調で言う祈は――敏いが、同時に鈍く危機感がない。
「お前は大丈夫か」
「は? トイレ? え、はい、別に」
つんつんとプレートに添えられていたサラダのにんじんを突いていた祈は、困惑した顔で頷いた。
「そうじゃなくて……気分は」
「あ、そっち? それも、なんともないっすよ」
「……坊主、やっぱり病院に――」
「いや、それは無理っす。お断りされたし、それに……なんか考えがあるから、あんなに急いで病院出たんすよね、獏間さん?」
「うん。医者がさじを投げたなら、これはもう、変わり種専門を自負する探偵の出番だからね」
そういって笑う獏間からは、親愛の情がにじみ出ている……ようにも、見えなくも……ない、ような気がする。
自分を助けてくれた恩人――だからなのか、疑いを挟まず頷いている祈。
(そういうところが、危なっかしいんだよ坊主!)
獏間は人ではない。
ならば自分たちとは相容れることはない。
それなのに、笹ヶ峰の目に映ったふたりの間には、信頼しきった空気があった。
自分の部署の連中には、どうしたって出せない空気。
(ああ、クソ、仕方がねぇな)
かぶりと笹ヶ峰は残りのハンバーグも腹の中に収める。
「おい、悪食探偵」
「なんだい?」
「その話、俺にも一枚噛ませろ」
ふっと獏間の笑みが消える。どうやら予想外だったらしい。
悪食探偵が、この取り澄ました得体の知れない男が、常日頃から貼り付けている仮面を一瞬とはいえ引き剥がせたことに「ざまぁ」と思いつつ、笹ヶ峰は言った。
「当然だろう。ここまで複雑化したのは、俺の責任だ。それに、警察官として市民を守る義務がある」
「……ふぅん」
つまらなそうに鼻を鳴らした獏間は「くっついてくるなら、好きにすればいいさ」と肩をすくめ、祈は申し訳なさそうな顔をする。
それが、なんだか言いたいことを我慢している子どものように見えて、笹ヶ峰は隣に座る祈の頭をぐしゃぐしゃと撫でてみた。
「ガキが、申し訳なさそうな面すんな」
「……っ」
驚いた顔をした祈は、それからぎこちなく笑った。
こういう時、どういう表情をしたらいいのか分からないのだろう。そんな不器用さが、ありありと伝わってくる表情。
「ガキはガキらしく、変な遠慮とかしないで、素直に礼言っとけばいいんだ」
「笹ヶ峰さんって……やっぱ、すげーいい人っすね。かっけー」
続いて、ド直球な褒め言葉。
――ちょうどお冷やを口にしていた笹ヶ峰は、思わずむせる。
そんな風に純粋な賞賛を向けられたのは、交番勤務時代に小学生を助けた時以来だった。




