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 なぜ、獏間が怒っているのか。

 その理由は笹ヶ峰が知っていた。


「当たり前だろ。お前さん、屋上から飛び降りそうになってたんだぞ」


 病室に連れ戻された祈は、疲れた様子の笹ヶ峰からそう言われて驚いた。

 だが、笹ヶ峰からは「驚いたのはこっちだ」とにらまれる。


 笹ヶ峰曰く、苛々している鏑と彼をおちょくって遊んでいる獏間の所へ皆瀬と向かい、医者としてあの患者を動かすのは認めないと告げたという。

 おかげで、鏑を本日は帰らせることに成功した。それから、獏間を連れて祈の病室に戻ってきたというのだが――。


 彼らが見たのは、病室前の廊下に出来た血だまり。慌てて笹ヶ峰が病室にかけこめば、そこに祈の姿はなく「もしや」と思い点々と続く赤い滴を辿ると、屋上でふらふら歩いている祈を見つけた。


 声をかけても聞こえた様子もなく、祈はそのまま柵を乗り越え――あわやというところで、いちはやく駆け寄っていた獏間が祈の体を押さえ、祈は夢から覚めたかのような表情で振り返った……という。


「全然、記憶にないっす」

「ああ、みたいだな」

「……俺、夢遊病の気はないはずなんすけどね」


 そもそも、寝てないし……と、祈は呟く。


(あれ、でも……笹ヶ峰さんたちが出て行ったあと、俺……)


 なにかしようとしていた気がする。

 なんだっただろうと祈は首を傾げた。


「スズ君、おまたせ~。退院の許可を取ってきたよ~」


 がらりと病室のドアが開き、獏間が顔を出す。

 脳天気な男の声に、顔をしかめたのは笹ヶ峰だった。


「はぁ? 獏間、お前、なにを馬鹿なこと……」

「快く許可してくれたよ、なぁセンセイ?」


 獏間が後ろを振り返れば、彼の後ろに隠れていた小柄な人影が顔を出す。

 白衣の両ポケットに手を突っ込み、ふてくされたように口をへの字に曲げて眉間にしわを寄せている、皆瀬だ。


「なにがセンセイよ、嫌味っぽいったら。――仕方ないでしょう、だって錫蒔君、ここにいても連れて行かれそうになってたんだもの」

「連れて行かれる?」


 祈がオウム返しにたずねると、皆瀬はきらりとその目を光らせた。


「あら、自覚ない? ここって、その手の専門病院だから、結界とか割りとしっかりしてるのよ。だから、進行や症状は抑えられるはずなの。そのはずなんだけど……キミ、どうやってアレを連れ込んだの?」


 それは、患者を診る医者の目ではない。

 自分のテリトリーを脅かす危険生物を見る――排他的な眼差しだ。


「アレって、なんのことっすか?」

「今なら、鏑君が警戒していたのも分かるわ。――笹ヶ峰君、悪いけど私も今回は鏑君に一票よ。キミが面倒見がいいことは知っているけれど……これ以上、錫蒔君はうちの病院にはおけない。患者が危険にさらされるなら看過できない」


 ちりちりと、肌に突き刺さるのは敵意だ。

 そういえば、皆瀬も顔に文字が出ないなと思っていると、彼女は「さっき、鏑君が言ってたけど」と警戒するような態度で言った。


「キミ、読心術が使えるんだって? だけど、制御できない未熟なものだから、見えないと慌てるって。今も、使ったの? でも、分からなかったでしょ? ……閉心術っていってね、自分の感情をある程度制御して対抗する術があるの。こういう手合いのことに従事する人間は、大抵使えるわ。……そこにいる笹ヶ峰君は、例外だけど」


 例外と言われた笹ヶ峰の顔は見ない。

 いま、祈が笹ヶ峰を見れば、皆瀬に「やっぱり、盗みみていたのか」と嘲笑されるような気がした。


 ――いまの皆瀬は、最初に会った彼女とは違うのだ。


 ここにいるのは、患者の状況を見にきた医者ではない。今ここにいる皆瀬という人間は、祈を異物と見なしている。だから、続く言葉は予想出来た。


「ねぇ、錫蒔君。キミには悪いけど、出て行ってくる?」

「皆瀬さん、待って下さい! 貴方も、あの血を見たでしょう! ――獏間! お前、ちゃんと屋上での状況を説明したのか! 坊主がここから出されたら……」


 笹ヶ峰は必死だ。それなのに、獏間はのらりくらりという風に笑う。


「失礼だな、笹ヶ峰刑事。僕をなんだと思っているんだい。状況説明は探偵の十八番に決まっている。十二分に理解してもらえたさ。その上で、センセイはこう言った――これ以上病院に居座るなら殺すぞって。それなら、どこにいたって同じだろう?」


 笹ヶ峰がぐっと押し黙り、それから皆瀬に視線を向けた。

 彼女はひょいと肩をすくめる。


「そんな目で見られても困るわ、笹ヶ峰君。医者にも限界はある。結界を抜ける程の呪いにすっかり馴染んでいるこの少年は、普通ならもう助からない。それなら世の中のためにも、鏑の言うとおり、問題の呪いが少年に留まっているうち、外側ごと壊してしまえばいい」

「だ、そうだ。いやぁ、医者がさじを投げるという言葉があるけれど、見事に体現しているね!」


 場違いにはしゃぐ獏間は――ああ、通常運転だと祈は思った。

 この男、人の不幸が大好きだ。他人の不幸は蜜の味、不穏な気配は砂糖菓子。


(きっと、甘々フィーバーとか思ってんだ。あれは、そういう顔だ)


 笹ヶ峰がこれほど親身に他人の祈を心配し、皆瀬が真面目に生死に関する話をしているというのに……。獏間 綴喜という探偵は、祈と目が合うとにこ~っと笑って手を振ってきた。

 それを目にすると、祈も脱力してしまう。

 そういえば、事件発生からこっち、怒ったり驚いたりで感情が休まらなかった気がする。

 なんだか疲れた。


「……獏間さん」


 祈が呼べば、雇用主たる所長は待ってましたとばかりに頷いた。


「うん。帰ろうね、スズ君」


 言いたいことは分かっているとでもいうように、しっかり頷いて手にしていた紙袋を手渡してくれた。

  

「はい。着替えてね。着替えたら、なんか美味しい物食べて、帰ろうか」

「おい……」


 咎めるような困惑したような、あるいはない交ぜにしたような声をあげ笹ヶ峰が立ち上がる。

 だが、病院側に手に負えないと言われている以上、一介の刑事である笹ヶ峰がどうこうできる問題ではないのだろう。「くそっ」と呟くとタバコを吸ってくると出て行った。


「あ~、ちょうどいいや。帰りは送ってくれるかい、笹ヶ峰刑事。スズ君病み上がりだし、うっかり死んじゃったら困るから」


 病室を出かけていた笹ヶ峰が、振り向いた。


「おまっ、この……! 信じられない無神経だな!」

「あははは。気まぐれにひろったかと思えばポイとすてるモノより、マシだと思うけどなぁ」

「……それは、当て擦りかしら探偵さん」


 口調は明るい。だけれど、どこか棘のある獏間の言葉に、皆瀬が反応する。

 綺麗な顔を、にんまりとした人の悪い笑みで彩った獏間は、こてんと小首を傾げた。


「うん? なにか、耳に痛いことでもあったかい、センセイ?」

「っ……!」


 張り詰めた空気。

 そんな中、祈はがさがさと紙袋から着替えを出した。


(俺、なんかだいぶ図太くなった気がする)


 緊迫感をぶち壊す、紙袋をあさる音。

 それを鳴らす自分。当然、視線を独り占めだと祈はうれしくもないことを考える。


「あの、着替えたいんで出て行ってもらっていいっすか?」


 それでも気にした風も見せず、祈はさらっと声をかけ大人たちに退出を促した。


 なにごとにも、雰囲気というものがある。

 緊張感漂う場面を紙袋によって台無しにされた皆瀬は、ごほんと咳払いして出て行った。

 固まっていた笹ヶ峰を追い越して。


「じゃあ、僕は扉の前にいるよ。万が一ということもあるし」

「縁起でもねぇっす」

「あははは。ほら笹ヶ峰刑事、はやく一服してきなよ。スズ君が着替え終わったら、出るからね」


 笹ヶ峰に送ってもらうのは確定らしい。


「すんません」


 獏間がこうなら、自分が頭を下げなければならないと祈が謝れば、笹ヶ峰はなんとなく残念なものを見るように病室の探偵と助手を見た後、くっと笑った。


「ガキが遠慮すんな、ばーか」


 いつも通りの彼らしい、面倒見のよさがにじみ出た一言に、祈もまた笑った。

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