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ドアノブをゆっくりとまわす。
幸い、鍵はかかっておらずゆっくりと扉が開いた。
のそりと部屋から一歩踏み出すと白い床。
(ここ……会社かなにか……?)
廊下に出た祈が最初に思ったのは、そんなことだった。
しん、と静まりかえった白い廊下。
壁には今開けたものと同じタイプの扉がいくつかはめ込まれている。
きっと、中も似たような作りの部屋ばかりに違いない。
対面は窓で、全てブラインドがおりている。
節電のためなのか、廊下も消灯されていたため、向こうに見える自販機がやけに明るく見えた。
(…………)
暗いところで灯りに誘われるのは、どうやら虫だけではないらしい。
祈の足も、明るい自販機の方へ向かう。
――そういえば、喉が渇いた。
だが、財布も取り上げられている。
自販機が目の前にあっても、無一文ではなにも買えないな、と思った時だ。
「誰だ。ここは部外者立ち入り禁止だぞ」
感情が分からない固い声――硬質ともいえばいいのか、人を緊張させる声が背中にかけられる。
同時に、ぐっと肩を掴まれ振り向くように強制された。
「――っ」
「……っ」
驚いたのは、祈だけではなかった。
相手も、振り返った祈を見て僅かに目を見張った。
眼鏡をかけた、スーツ姿の男だ。
背は祈より高いが、明るい色のくせっ毛とたれ目のせいで柔らかい印象を与える。
とても、あんな固い声を出したような人間には見えない。
声質と外見のギャップが凄まじいと驚いている祈。
対する男も、なぜかマジマジと祈を見下ろしている。
なにに、そんなに驚いているのか――無防備なその顔に、ある文字が浮き上がった。
〝美琴?〟
「美琴って……」
(母さんの名前?)
そんな、祈の驚きの言葉は形にならなかった。
パッと文字が霧散し、男の顔が険しくなった。
肩を掴む手に力がこもる。
「……なんだお前。読心系の力があるのか?」
「っ」
「どうした? 心が読めないのが不思議なのか? ふん、制御もなってない三下のようだな。生憎だが、お前のような馬鹿を取り締まるのも、我々の役目だ。どうやって逃げたのかも、キリキリ吐いてもらうぞ」
「は? ちょっ、痛って!」
今度は腕をねじり上げられ、どんを押される。
コレは完全に、捕まった。
だが、色々と勘違いされている気がする。
「逃げてない! 色々吐いてもらいたいのは、こっちなんっすけどね!」
「活きのいい三下だ」
ふん、と男が馬鹿にしたように鼻で笑う。
――嫌味なうえに話が通じないし、言っている意味もよく分からない。
つまりは、得体が知れなくて気味が悪い。
(そもそも、誰だよ!)
なんだか正義の味方面しているが、こちらを悪者扱いは心外だと祈は腹を立てる。
(いや、待てよ? ここに連れてきたのが笹ヶ峰刑事って仮定すれば――コイツも刑事ってことか?)
祈が持っている全ての情報をつぎ込んで浮かぶ答えは、ここは笹ヶ峰というオカルト刑事の拠点……つまり警察関係の施設。
そんなところを堂々うろついているのだ、このタレ目の眼鏡男は、恐らく笹ヶ峰の同僚だろう。
だが、どう考えても巻き込まれた感じの自分が、なにやら逃げ出した悪人扱いされているのは勘違いも甚だしいと祈はぐっと体に力を込める。
(冗談じゃねーよ……!)
振り払ってでも逃げる。
そう思った瞬間、ぐいっとさらいに腕をねじり上げられた。
「いてててっ!」
「変な気は起こすな」
命令することと、こういう状況に慣れた声だ。
(このタレ眼鏡!)
容赦ない男は、そのまま祈をどこかへ引きずっていこうとする。
(待て待て待て!)
どうしようもない状況で祈が出来たのは、心の中で悪態をつくことくらいだったが、このまま流され続けても事態が好転するとは限らない。
誰が、事情を知る人に説明してもらわなければ。
(笹ヶ峰刑事……いや、それよりも)
こういう時に頼りになるのはと祈は考えて、口を開いた。
「俺は、わけのわかんないまま、ここに連れてこられた、ある種の被害者っす。説明してほしいのは俺のほう。ウソだと思うなら、働き先の所長が心配してると思うんで、そこに連絡とって下さい……!」
「へぇ? 所長ねぇ」
「獏間探偵事務所の獏間さんに、連絡して下さい!」
ぴたりと男の足が止まった。
(おお、これは話が通じたか?)
一縷の希望が見えたと思いきや、腕はねじり上げられはしないかわりに、今度は掴む腕にギリギリと力が込められる。
「獏間ぁ?」
「だから痛いっ、マジで痛いって! 腕力ゴリラかよ!」
手加減無しに掴まれれば当然痛いので、大人げない相手に対して、祈の口調も荒くなる。
「三下、お前、その名前を悪戯に出してタダですむと――」
急に凄んできた眼鏡男。
先ほどの柔らかそうな雰囲気など、きっと目の錯覚だったに違いない。そんな風に思い直さなければならないほどに、凶悪な雰囲気の相手に返事をしたのは祈ではなかった。
「ああ、もちろん。タダでは済ませないさ」
少し離れたところに、スーツ姿の見慣れた男が立っている。
「獏間さん!」
「やあ、スズ君。心配したよ」
救世主を目にしたように、祈は明るい声を上げた。それに答えるかのように片手をあげて、笑う獏間。いつも通りの彼に、今ほど頼もしさを覚え、安堵を感じたことはない。
「ことが済んだと思ったら、きみが忽然と消えているんだから」
そうだった。
獏間からしてみれば、無断でどこかへ行った従業員なのだ。
「あ、それは……」
「話は後々」
獏間は笑いながら近づいてきた。
そして、弁明しようとした祈を留め、眼鏡の男に視線を向けると――。
「で? お前はいつまでこの子の腕を掴んでいるんだ? ――離せよ」
「なに……っ」
獏間が笑顔を消した。
真顔で、それこそ因縁でも付けるかのように相手の顔をのぞき込み、冷えた声で吐き捨てる。
怒ったときなどは、ぞんざいな対応をする獏間だが、こんなに冷淡な様は今まで見たことがない。
驚くより、祈はもぞっとした。
――怖い。
粗暴だとか暴力的だとか、そういうものではない。
綺麗すぎて、怖いのだ。
常日頃浮かべているあの微笑が、どれだけ獏間の印象を和らげていたか、こうなると痛感する。
そんな獏間に対し、果敢にも反論しようとしたであろう眼鏡の男だが、結局言葉に詰まり……力が緩む。祈はさっさと緩んだ拘束から逃げ出した。
「大丈夫かい?」
「……いや、ひでー目に遭いました」
「それは、かわいそうに。チョコあげようか?」
「いらねーっす」
冗談めかして笑えば、獏間もいつもの笑みを浮かべる。
そのことに、祈はホッとした。やはり獏間は、こんな風にちょっとうさんくさい感じでちょうどいい。
「じゃあ、帰ろうか」
「はい」
獏間の意見には全面的に大賛成。正直さっさと帰りたい。
だが、頷きつつも、祈はちらりと眼鏡を見る。
(素直にお見送り~……とかしてくれるタイプではないよな……)
この眼鏡……どう考えても、素直に行かせてくれる相手とは思えなかった。




