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祈の記憶は、十年前から始まっている。
それ以前の記憶は無い。
祖父母の家には九歳以前の祈の写真はおろか、ふたりにとっては娘であるはずの祈の母の写真も残っていない。
珠緒はその理由を、まるで重大な秘密でも打ち明けるように、祈にこう伝えていた。
『――祈のお母さんはね、祈を捨てたの。だから、今は私が祈の家族だよ』
実母は、自分を捨てたらしい。
祖父母も知らない間にどこかで子どもを作っていた実母は、ある日突然実家に帰ってきて祈を置いていこうとしたらしい。だが、さすがに母親としてどうなのかと叱られるとへそを曲げ、今度は祈を連れて出て行った。
苛々していたのかスピードを出し、川にかかった大橋でハンドル操作を誤ったのか……事故を起こし川に転落したという。
『祈を捨てようとしたのよ。許せないわ。いらないからって、川に捨てて自分は助かろうとしたのよ』
でも結果は逆になったと、珠緒は笑った。
『神様は見ているの。だから、祈は神様に助けられたのよ。これからは、悪いモノが来ないように、私が守ってあげるからね』
そんなことを繰り返し語る珠緒は、優しかった。
近所の、いわゆる親切な人たちも、珠緒の行動を褒め称えた。
感謝しないといけないよと言われるたび、珠緒はそれを止めて「好きでしていることだ」と笑っていた。珠緒は絵に描いたような……綺麗な部分だけを抜き出した、理想の親代わりだったのだ。
いつだって、変わることなく。
でも、本当にそうだろうか。
『呪われているよ』
『不変なモノがいるとすれば、それはもう人ではなくて――外れたモノだ』
獏間の言葉が、いつになく鮮明に祈の頭の中で繰り返される。
(あ……)
ふと気がつくと、祈は事務所の前に来ていた。
階段を一段ずつ踏みしめ、二階を目指す。
ドアの前で深呼吸して、ノックをした。
それから、ドアノブを回す。
相変わらず物がなく、そして増えることもない事務所。
窓際に仕事用のデスクを置く獏間は、今日も当然とばかりにそこにいた。
「どうも、獏間さん」
「やぁスズ君。いいところに来たね、もらい物の羊羹を食べるところだったんだけど……一本食べるかい?」
ふらふら近づけば、デスクの上には祈でも知っている有名店の羊羹セットが置いてあった。
そして、獏間の手にはそのうちの一本が、そのまんま握られている。
「まさか、一本って……それまるごと?」
「そうだよ。羊羹はまるごと一本食べてこそだろ。ほしいなら、好きな味をあげるよ」
「いや、いいっす。あー……お茶入れますか?」
「ありがとう。じゃあ、スズ君には塩せんべいをあげようね」
デスクの引き出しから大袋を取り出すと、そこから個包装されているせんべいを取り出し、獏間はデスクの前に置いた。
「甘いものは食べなくても、せんべいくらいはいけるだろ?」
「はぁ……」
「じゃあ、ふたり分のお茶を頼むよ」
「ふたり分? ……また、依頼人が来るとか、ですか?」
「なに言ってるんだスズ君。きみの分だよ。だって――僕に、なにか相談事があるんだろう?」
いそいそと羊羹の包みを開けようとしていた獏間は、祈の言葉に手を止める。
そして、人を食ったような笑みを浮かべた。
「相談っていうか……あ、いや、相談なんですけど……」
「煮え切らないなぁ」
カップに注がれたほうじ茶を一口飲んだ獏間は、もそもそと呟く祈にそうコメントすると、がぶりと羊羹に噛みつく。
(今ので二分の一が消えた)
どうでもいい発見をして逃避していた祈だが、獏間から先を促すような視線を向けられ、ぐっと唇を噛んだ。
「……前に、アンタ言ったっすよね?」
「うん?」
「俺が、呪われてて、悪いモノとかを、引き寄せる体質みたいなこと」
「言ったね」
頷いて、獏間は半分になった羊羹をポイッと自分の口の中に放り、もぐもぐと咀嚼する。少しの間、祈にとっては居心地の悪い沈黙が流れた。
「……悪意は、人に移りますか」
「僕が言わなくても、スズ君は分かってるんじゃないかな」
パン泥棒、店長……それから――。
「俺は移るもんだと思います。だけど、そしたら波柴 理惠のアレも、誰かから移った悪意ってことっすか」
「そうだね。全部、ひとつ……というか、ひとりに繋がるね」
ゴクリと祈は喉をならした。
「それなら、呪いも人に移りますか?」
「まぁ、移す能力がある人間なら、他人に肩代わりさせることは可能だけど……きみが言っているのはそういうことじゃないよね? ――答えは否だ。悪意は風邪と似ているけれど、呪いは違う。少なくとも僕はそんな呪いを知らない」
「…………」
呪い、悪意。
そういうものは、総じて悪いモノだろう。
けれど、呪いは移らない。
対象だけに、悪いことが降りかかるはずのものだ。
だが――。
「変なこと言うかもしれないんすけど」
「うん」
「けーちゃんが引っ越しして、あんな目にあったのは――俺のせいじゃないかって思うんです」
「どうして?」
「俺が呪われてて、それでけーちゃんと関わったせいで悪いモノがけーちゃんにくっついちゃった……とか、考えたんすけど」
「言い得て妙だね」
笑って、獏間は再び湯気の立つカップを口に運ぶ。
「そうだね、スズ君。大路さんは、きみと深く関わったせいで、代償を払うことになった被害者だ」
「……っ」
「きみは呪われているよ。……悪いモノを識るきみは、そういうモノを引き寄せる。だから……他のヤツには渡すまいと、なにも知らないうちに呪われてしまったんだろうね」
羊羹を包んでいた包装をくしゃくしゃと丸めた獏間は、ぽいっとゴミ箱に放る。
ストンと難なくおさまる様を見届けると、彼は満足そうに笑った。
「きみには、きみと深く関わる人間は不幸になるという、独占欲の塊のような呪いがかかっているよ」
「な、ん……」
「これなら、大路さんがとばっちりをくらったのも道理だろう? きみ自身ではなく、きみが交流を持った相手に害が降りかかる呪いなんだから。きみがあまり人に関心を持たないのは、いや……関心がないフリをしているのは、薄々感じていたからじゃないのかい?」
「……それは……」
うまく説明できず、祈が言葉を詰まらせ俯くと、獏間は「まぁ、いいや」と引き下がった。いや、引き下がったように見えた。
「ところで、こんな相談をしてくるってことは――僕が前から目を付けていた飯の種を、いよいよ提供してくれる気になったのかい?」
気安い口調で続けられた言葉に顔を上げれば、ついさっきまで羊羹をのんきに堪能してたはずの男は、試すような眼差しで祈を見ていた。
「選ぶのは、今度こそきみだ。――さぁ、収穫するか、不幸のさらなる熟成を望むか、どっちにする?」
獏間は知っている。
そして、祈も分かっていた。
いや、ずっと目をつぶっていたことがある。
「俺は……」
綺麗で優しい珠緒の言葉。
そのさらに奥にあるモノを、暴こうとはしなかった。
そこかしこで、違和感を抱く機会はあったのに。
――不変なモノがいるとすれば、それはもう人ではなくて、外れたモノ。
つまりは、そういうことなのだ。




