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10.これはこれで悪くない牢屋生活

 
















 あれから一週間ほどが経った。




 俺が「いつまで続けるつもりなんだ?」と、そう問いかけたあの日から約一週間ほど。




 幸いなことにガートルードはいつもと全く同じで今日も可愛く甘えてくる。






「ルーカスさん、ルーカスさん? 次はルーカスさんが焼いてくれたクッキーが食べたいです!」

「またか? 昨日も、そのまた一昨日も食べただろう?」

「クッキーだけはルーカスさんが世界で一番美味しいの!」

「おいおい、待て待て。それじゃあ、俺がクッキーになっているからな?」






 俺の膝の上でぷふんと鼻を鳴らしたガートルードがこちらを振り返って笑う。






「本当だ! ふふふっ、私。ルーカスさんをクッキーにして食べちゃってた!」






 その可愛らしい笑顔に思わず口元が緩んでしまう、きっと締まりの無い顔をしている。






(可愛いなぁ、本当にもう・・・・・・)







 彼女は可愛い。


 間違いなくこの世で一番可愛い。



 その青く澄んだ瞳も、銀細工のように煌く銀髪も何もかも。





 一度彼女のことを可愛いと認めてしまえば楽だった。




 壊れたように可愛いと毎日言っているからか、彼女はよく笑うようになって笑いかけてくれる回数が増えた。





 魔生物の内臓を持って帰ってきたり、喉が渇いた時に蝙蝠アゲハのミルクを飲むのはやめなさいと、そうこんこんと言い聞かせてやったら不満げに鼻をぴすぴすと鳴らしていたものの。





 最終的に彼女はこくりと頷き「じゃあ、ちゃんと守ってみせるから私のことを嫌いにならないでくれる?」と、潤んだ青い瞳で言ってきたので表情筋が緩みまくった。とんでもなく可愛かった。





 どこの誰が何と言おうと、彼女がこの世で一番可愛い。







「ああ、何か。骨抜きにされてるって、こういうことを言うんだろうなぁ~・・・・・・・」

「ルーカスさん、私のこと好き? ねぇ、ねぇ?」

「ああ、好きだよ。ガートルード。何か、珍しいペットを飼ったみたいで」

「ペット・・・・・・ペットとしての好きなのね、それは?」

「ガートルードちゃん? 一体、どうしたんだ?」







 膝の上の彼女がむすっと不機嫌そうなオーラを漂わせて黙り込む。







(まさか。俺のことが好きだとか・・・・・・? いや、まぁ、それはないだろうなぁ~)







 この変わり者の彼女に、果たして恋愛感情は存在しているのか?






(いやぁ~、ないないないない。ないだろ、それは絶対に~・・・・・・・ははっ。俺の希望的観測、観測)







 俺もまたとんだ、馬鹿げたことを考えてしまったものだ。





 彼女のことだからきっともっと自分は女性としての魅力に乏しいのかどうかとか、何かもっとこう、奇天烈で変てこなことを考え込んでいるに違いない。







(勘違いをしても、良いことは無いに等しいからなぁ~)







 いい加減、ドレッシーなパジャマはうんざりだと伝えたところ。





 彼女はいかにも哀れみ深い表情で頷いた後、彼女いわく「普通の紺色パジャマ」を買ってきたらしいが、その「普通の紺色パジャマ」とは大変派手なピンク色で、真ん中にはドラッグをやっているとしか思えないようなフラミンゴの絵がでかでかと描かれていた。





 赤い舌をでろりと垂らして、目が血走ったフラミンゴ柄のパジャマを見つめて「普通の紺色パジャマとは何ぞや?」と哲学者のように深く考え込んでしまった。あれは辛かった。





 彼女に聞き取り調査を行ったところ「フラミンゴの羽の先が紺色だったからこれで良いと思って!」などと供述しており、やっとまともなパジャマを着て眠れると思っていた俺は。






 がっくりと落ち込んで膝から崩れ落ちてしまった。





 そんな訳で俺はショッキングピンク色のフラミンゴ柄パジャマを着て寝そべって、この胸に固く誓ったのだ。





 彼女の言うことは何も信用しないと。




 自分が傷付かない為にも、彼女の言葉はこれから一切何も信用しないと。





 たとえ今ここで彼女が俺のことを好きだと言っても信じない。




 むしろ死にかけの子猫を拾ってきたのか?




 それともどこかの家の窓硝子でもうっかり割ってしまったのか、スーパーの未清算品をうっかり家まで持って帰ってしまったのか、それとも服屋の服を魔生物の血で汚してしまったのかと、非常に心許無い気持ちとなって彼女を問い詰めることだろう。







「もう、いいです。ルーカスさんの考えはよく分かりました」

「ガートルード? お前は一体何を言って、」

「詐欺師のくせに、何かと鈍いです! 役立たずです!!」

「えっ? ちょっと待って、ガートルードちゃん? 何で俺、君にいきなり罵られてんの!?」







 おもむろに立ち上がった彼女がぷいっと、その背中を向けて立ち去ってしまう。



 そして慌てて引き止めようと腕を伸ばしたのだが。






「今日はもう、用事もあるので帰ります。ルーカスさん。おやすみなさい、さようなら」

「へっ? あっ、ああ。そうだったのか? おやすみ、ガートルード。気をつけて帰れよー?」






 彼女を見送った後でふと、これで良かったのだろうかと不安に思う。





(やっぱり、引き止めるべきだったのか? いやな~、でもなぁ~)





 彼女がどうしてあんなにも怒っているのか。






 その理由もよく分からないままに俺は、ピンク色の派手なドフラミンゴ柄のパジャマを着ると淡いピンク色のカーテンを引いて、お姫様が眠るような寝台で眠ったのだ。






 その日はガートルードに追いかけられたり、原始人の格好をした彼女の父親に追いかけられた末にサソリに噛まれるという、散々な悪夢を見て飛び起きてしまった。








「っはー! 随分とまた、我ながら、悪趣味な夢を見たもんだなぁ~・・・・・・はーあ」








 汗だくになって寝台から起き上がって、忌々しいパジャマを脱ぎ捨てて囚人服に着替える。




 歩いて洗面所へと行ってそこで顔を洗って、ヒゲも丁寧にそって、歯ブラシで歯を磨く。







(に、しても。まぁ、これはこれで、悪くはない牢屋生活だなぁ)






 がらがらと、自分の口の中をゆすいでぺっと水を吐き出す。






「・・・・・・朝飯でも食うか。さーてっと。今日のガートルードちゃんは一体、何時に来ることやら」









 ガードルードは「私の身に万が一のことがあって! ルーカスさんのぽんぽこが空いちゃったら可哀想だから!」などとよく分からないことを言って、あのピクニックバスケットにおよそ三食分の食事を入れてくれたのだ。







 もし万が一などと、そう考えたくは無いが。




 有難いことだと考えて今日は一人で食べることにする。







(昨日は。一緒に朝ご飯が食べたいと言って、朝五時に叩き起こしにきたもんだがなぁ~)








 淋しいと、そう思っている自分に驚く。彼女がいなければこの牢屋はあまりにも静かで。





 自分の気持ちもどこまでも沈み込んでゆくような気がする。







(やめよう、考えるの。どーせ後であいつが来て、またうるさく、騒がしくしてくれることだろうさ、この牢屋を・・・・・・・)







 朝飯ぐらい何だ自分一人でも食えるだろうがと、悪態を吐いてマフィンを頬張った。





 これはコーンミールマフィンに半熟のとろりとした目玉焼きと瑞々しいレタス、それに新鮮な玉葱と豚肉のハンバーグに濃厚なチーズを挟んだものである。





 一口齧るとじゅわっと豚肉の脂が溢れ出てきて、しゃきしゃきとした玉葱とレタスの食感が瑞々しく、そこへ柔らかな白身から黄身が溢れ出てきて、素朴なマフィンとチーズの香りが口いっぱいに広がってゆく。





 彼女が作ったのだと言う最高に美味しいマフィンと、保温魔術のお陰で温かいバジルスコーンとフォカッチャに皮付きのポテトフライを平らげて、食後のデザートにはほんのりと甘いジンジャークッキーを食べて楽しんだ。






 水筒に入っていた熱い珈琲を飲んで、部屋の時計を見てみると。







「八時、十五分か~・・・・・・昨日来たのが大体九時二十五分ぐらいだったから。今日もまた、そんな感じかなぁ~」









 ガートルードがやって来るのは大体九時から十時前後だ。




 どんなに遅くとも十時半までにはやって来る、それ以上遅れたことは今までに一度もない。








「・・・・・さて。それじゃあ、飯も食ったことだし。ぼちぼち、運動でもするかなぁ~」







 十五分ほどだらだらと休んだ後で、彼女が導入してくれたランニングマシーンへと向き直る。




 この本核的なランニングマシーンは「お外に出してあげれなくて可哀想だから」と言って彼女が導入してくれたもので、最近の俺はこの上で走るのが日課となっていた。





 この辺り彼女の方こそ、俺のことをペット扱いしていると思う。





 そんな訳で俺は暇潰しと健康を兼ねてひたすら走り、ウォーターサーバーから水を汲んで飲んでまた部屋の時計を確認してみる。






「ああ。もう、こんな時間か。早かったなぁ~・・・・・・・にしても今日は随分と遅いな? もう十一時を過ぎているんだけどな~」






 この紙コップ付きのウォーターサーバーはやはり彼女が真剣な表情で「水道水でも飲んで、ルーカスさんがぽんぽこでも壊したら大変だから!」などと言って導入してくれたものである。





 彼女はどうも俺のことを「胃の弱い詐欺師さん!」と思い込んでいるらしく、その勘違いに思わず笑ってしまう。







「俺の胃は。別にそんなに悪かぁ、ないんだけどな~・・・・・・ははっ。さてと」







 彼女はぐずぐずと二度寝をしているんだろう、きっとそうに違いないと考えて別の作業に取りかかる。








「うわっ! やっぱりまだ、拭き残しがあったのか~・・・・・・やれやれ。今度からもうちょっとちゃんと、言い聞かせてやらなきゃな~」







 先日もまた血塗れで帰ってきた(しかし全て返り血である)、ガートルードが大はしゃぎで弾むように歩いた床を、つまりは点々と赤い血がこびりついている無垢床を。





 買ってきて貰った木材用の漂白剤で綺麗にしようと、そう固く胸に誓う。





(この牢屋に住んでいるのは俺なんだから。あんまり汚して欲しくないんだけどなぁ~・・・・・・・まぁ。言っても無駄か)







 ゴム手袋を嵌めてマスクとゴーグルを着用して、まずは目立たない部屋の隅の無垢床へとその漂白剤を塗ってみる。







「よし。色が変わらないな・・・・・・良かった。別の方法を試さないといけない所だった」






 ルーカスは厳重なマスク姿で雑巾を片手に頷くと、次は洗面所へと向かう。





 そこで買ってきて貰ったアンモニア水を水で注意深く薄めて、スプレーボトルへと詰め替える。





(あいつのことだ。どーせ大量の鼻血でも何でも噴き出して、この辺り一面を血の海に変えてしまう危険性があるからなぁ~。まとめて作ってストックしておくか、あーあ)






 そう考えてスプレーボトルを持って、血が染み込んでしまった箇所へと向かう。





「よし。ここだけか? 後はないな? いや。念の為に、部屋の隅々までチェックしておくべきか・・・・・・」






 ルーカスは囚人服にマスクとゴーグル姿といったおかしな服装で、うろうろと歩き回り、頭上にはきらきらの可愛らしいシャンデリアが光り輝いていた。






「ちっ。あった。ここもか~・・・・・・・あの時、全部拭いて回ったと、そう思ってたんだけどな~。はーあ、何であの時見落としてたんだろう、こんな、大きい塊の染みを」






 あの時は疲れていたのだから仕方が無いと、落ち込む自分をそんな風にして励ます。




 俺が「魔術で何とか出来ないのか?」聞いてみると彼女は「えー? だってぇ、無駄な魔力は使いたくないもーん。お腹も減っちゃうし!」とのことだったので。




 淡々と床の染み抜きに勤しむ、綺麗好きな性格で良かった。あまり辛くはない。





「よし。まぁ、もう。こんなもんでいいだろ! あーっ、疲れた!」






 黒ずんだ血の染みがよーくよく確かめてみないと分からないレベルまで落ちたのでもういいだろう、若干腰も痛いし。





 汚れてしまった雑巾とバケツを洗って干して、マスクとゴーグルを外して床の最終チェックをしていても。







「まだ、来ないのか? ガートルードは・・・・・・・」






 うんざりとするような赤いハート型の時計を見て呆然としていた。




 もう十二時半を過ぎているというのに彼女はこない。







「どっかで。交通事故にでも遭っているのか? いや、まさか。そんな筈はないだろうに・・・・・・くそっ」







 彼女が来ないというだけで、こんなにも苛立ってしまうだなんて。




 それは苛立ちと言うよりも不安から来る恐怖感だったが、ルーカスは見てみぬ振りをして昼食を食べようと思いついてピクニックバスケットへと向かう。





 それなのに俺は。





「やめよう。彼女が、ガートルードが来てから食えばいいんだろ、こんなもん・・・・・・」







 彼女がいないと食欲が湧かない。



 彼女がいないというだけで俺は、こんなにも弱い人間となってしまう。






「本当に、何も無いよな? ガートルード・・・・・・・」







 ピクニックバスケットの蓋を閉じて不吉なことを考える。


 もし。






(もし、今こうしている瞬間にでも。彼女が、ガートルードが、息を引き取る直前だったら? 俺に会いたいと、そう、その腕を伸ばしてうわ言のように繰り返していたら?)







 怖くなってしまった、どうしようもなく怖くてそれが恐ろしくて。




 彼女が本当に血塗れで息を引き取る寸前だったら?



 嫌な想像が駆け巡る、それを即座に打ち消す。






「っ馬鹿馬鹿しい。どうせ、すぐにやって来るだろ、こんなの」






 苛立ったので別の作業に取り掛かることにした。





 彼女がつい先日、買ったばかりの白いクッションに歯を立ててがじがじと齧ってしまったので(どうも半分寝ぼけていたらしい)、裁縫道具を取り出してじっと見つめる。





「うーん。見事なまでにボロボロだなぁ、これ。あいつは犬かよ、まったく」






 針と糸でちくちくと穴を塞いで、そして彼女が「可愛いでしょ!? ほらほらっ」と言っていたカマキリのアップリケを縫い付けてやる。喜ぶといいが、これを見て。






「よし。後は他に、何か繕うもんはないか・・・・・・?」






 彼女がつい先日脱ぎ捨てていった靴下を確認すると、踵の辺りに大きく穴が開いていたので「何でこんなのを放置して、履き続けているんだよ!? あいつは」と思わず叫んでしまった。





 これもまた穴がどうにもならなかったので、今度は別のアップリケを縫い付けてみる。




 コアラの形のアップリケを取り出して、ひたすら無心で縫い付けてゆく。





「よし、出来た。・・・・・・でも、ガートルードは、あいつは、まだやって来ないんだなぁ~」






 もう時計の針は昼の十三時を示していて。






(いいや。まだ、まだ昼の十三時だろうに・・・・・・・きっと、その内、ひょっこりと、寝坊したとか魔生物を狩っていただとか、何かかんか言って、すーぐに現れるに決まっているさ)







 消しても消しても湧いてくる不安の雲を掻き消して、必死に何も考えないようにしていた。







(どうしよう? 俺に飽きたから、とかだったら)






 昨日の発言に対して怒っているのか、いいやそれとも。






(まさか、本当に事故にでも遭っているとか? ああ、どうしよう? もしかすると、今。俺がこうしている間にも────────・・・・・・・・・)







 彼女が息を引き取る瞬間だったらと、そう考えて背筋がぞっとしてしまう。






(どうせ、変わり者の彼女のことだ。どんなに体が痛くっても、よろよろと手を伸ばして、馬鹿みたいに俺の心配を、して・・・・・・・)







 怖い怖い、彼女に見捨てられていた方が何億倍もマシだ。






「どうしよう ?ガートルード・・・・・・大丈夫だよな? お前。別に本当に何もないよな? いつもみたいにまた、馬鹿みたいな顔して、魔生物を狩ってたりだとか、たったそれだけのことだよな?」







 このアホみたいに豪華な牢屋で一人ぼっちだった。




 泣き出しそうになってしまう、心臓と喉の辺りがどくどくと嫌な音を立てている。




 その孤独と苦しさに唾を飲み込んで、胸元をぎゅっと握り締める。






「大丈夫、大丈夫。どうせすぐにやって来るさ。どうせ、すぐに」






 怖い、怖い怖い。



 あまり考えないようにしよう、そうしよう。



 今まさにこの瞬間にも、彼女が病院で家族に見守られていて息を引き取っている瞬間かもしれないだなんて。






「っ落ち着けよ、俺・・・・・・いつからそんな、妄想をするようになったんだ?」







 分からないじゃないか、ようやく手に入れた途方も無い宝物なのに。




 その考えで体から力が抜けてゆく。





(何だよ? 宝物だなんて、馬鹿馬鹿しい・・・・・・・でも、怖い)






 彼女を失うかと思うと全身から汗が吹き出てしまう。



 鼓動がやけに早くなる、怖い怖い。






(俺は、いつからこんなに弱くなったんだ? まだ昼の十三時だろう? そうだろう? ガートルード・・・・・・・)








 きっと何もない、心配要らない。


 彼女はすぐにでもやって来るだろうから。






(それでも、怖い。ガートルード、お前、やっぱりあれなのか?)






 俺に、彼女は飽きたのかもしれない。




 明日にでも彼女の父親がやって来て「お前はもう、用済みなんだ」と、あの白皙の美貌でそう告げてきて、俺は元の牢屋へと強制送還されて───────・・・・・・・。







「っくそ! 余計なことは考えるなよ、俺・・・・・・・!!」






 白い壁へと自分の拳を叩きつける。



 彼女が来ないというだけで情緒不安定になりすぎだ。






「こんなもの、大したことないだろう? そうだろう? ルーカス・マクラウド」






 自分の額を壁に押し付けると、茶色い髪が擦れてふと思い出す。





『ルーカスさんの髪って、とっても不思議ね! ミルクチョコみたいな、美味しそうなキャラメル色をしてる!!』

『何だよ、それは? ただの、明るいキャラメルブラウンだろうに・・・・・・・』






 彼女のはしゃいだ声が耳に蘇ってきて、胸が苦しく締め付けられる。







「っああ! くそが! うじうじ、うじうじうじと悩むのは、俺の性分じゃないっての! はーあ、全く。本当に、あのお嬢さんにも困ったもんだよ、本当に・・・・・・・くそっ」





 彼女が買ってきてくれた大人の塗り絵を広げて、色鉛筆でひたすら世界の宮殿と絶景を塗ってゆく。





(俺に飽きたとかじゃないといいんだけどなぁ、ガードルードちゃん。あー、自分でも嫌になる。情けない、馬鹿馬鹿しい)








 ガートルード、ガートルード。




 お前だけだった、今まで。




 大事にしてやりたいだとか可愛いだとか、そんなアホ臭いことを思ってその髪を撫でてやって、彼女が嬉しそうに青い瞳を細めて。






「ガートルード・・・・・・・ごめん。やっぱり俺、あの時にきちんと謝るべきだったよな?」






 大丈夫だろうか、自分は何か間違えてしまったのだろうか?





「このままもう、お前とは、一生会えやしないのか・・・・・・? なぁ?」






 ガートルード、ガートルード。





(ああ。こんなことなら、変な意地を張っていないで彼女にちゃんと、好きなんだって、そう伝えれば良かったかもしれない・・・・・・・)






 そのふと沸き起こった考えに吐き気が込み上げてきた、自分で自分のことが信じられなかった。






「好きだって? 俺が? 彼女のことを? はっ、なんて、なんて馬鹿馬鹿しいにも程があることを」








 これはただちょっと不安になっているだけだ、そうだ。






「だってそうだろう? 話相手だって何だって、ガートルードしかいないんだから」






 俺は今この状況に酔っているだけだ、あんな風変わりな十九歳の女の子をこの俺がまさか───────・・・・・・・・。








(そうだ。それに俺は、彼女の母親を、騙していたような人間じゃないか)






 そのことで一体どれだけ彼女は傷付いたんだろう?






『私ね、ルーカスさん』

『おう。何だ、ガートルード?』






 悲しげに微笑んだ彼女がこちらを見つめていた。




 宗教画のような美しい微笑みで、そっと青い瞳を伏せる。




 それを見て堪らない気持ちになった、彼女を小鳥の卵か何かのように大事にするべきだと思った。




 どこまで手を伸ばしても届きはしないような、そんな高嶺の花だけど。




 俺が大事にしなくてもどこかの誰かが、真面目で誠実な男が一生大事にするんだろうけど。







『私ね。以前に、ルーカスさんに会ったことがあるの。でも、その時のルーカスさんは気が付いてない様子だったけど』

『はぁ!? マジか、えっ? それじゃあ、お前、その時は何歳だった?』






 彼女がほんの少しだけ困った顔をする、それでもたどたどしく答えてくれる。






『分かんない、そんなの。よく覚えてないから。でも十五歳か、十六歳の時?』

『ああ、そっか。まぁ、お前、今、十九歳だもんなぁ~・・・・・・そっか。そっか』






 何て答えればいいのかよく分からなかった、その続きを何となく予想できたから。




 聞きたくなかっただけなのかもしれない。




 それでも彼女はどうしても話したかったようで続ける。






『それでね、私。一瞬でよく分かったの。ああ、この人がお母さんを騙しているんだって。お母さんの、浮気相手なんだって・・・・・・・・』






 何て言えばいい?



 謝ればそれで済むという話でも何でもない、自己満足の謝罪になってしまうから。




 だから考えて考えてようやく、糞みたいな言葉を捻り出した。




 それ以外何も出てこなかった、あの時ほど自分を罵ったことはない。





『そっか。まぁ、それは、ショックだったろうな? ごめん、ガートルード。・・・・・・・ごめん。数年も前の話だけど』






 他に何を言えばいい、どう償えばいい?



 俺は未だに反省などしていないのに、罪の意識も湧かずに女どもの自業自得だろうと考えているのに。




 どこからどう考えても嘘くさい言葉に引っかかる女が悪い、俺は何も悪くない、金が無かったんだから仕方ない。





 そんな思考しかないのに他に何て言えばいい?




 今まで騙してきた女どもの面すら思い出せないというのに、ただひたすらに考えるのは自分の保身だけ。




 目の前で俯いた彼女の可愛い笑顔をもう一度見たいという、そんな考えしか湧いてこないのに。






『ううん、いいの。謝って欲しい訳じゃなかったから。ただ、知って欲しかっただけなの。分かる? ルーカスさん』






 分からない、分からなくて苛立った。





『それなら、それで。どうして、俺に言ったんだ? それはただの、お前の自己満足だろう? 謝れと言うのなら、まだしも・・・・・・どうして、急にそんなことを言い出したんだ? なぁ? お前は』







 ああ違う、俺が言いたいことはそういうことじゃない。



 それじゃあ、何を言いたいんだ俺は?




 それすらもよく分からない、思考が曖昧となって混乱してゆく。




 彼女にはただ、笑っていて欲しいだけなのに。



 他の女なんてどうでもいいから彼女だけがまた、いつものように笑っていてくれたらそれで。






『そう怖がらなくても大丈夫よ、ルーカスさん』






 彼女が俺の手を握り締めていた、その青い瞳を見つめ返していた。




 柔らかな手の温度が染み込んできてはっと息を荒げていた、ようやくそこで息を止めていたことに気が付く。






『ガート、ルード? お前は一体、何を言って』

『だって、怖かったんでしょう? 責められてしまうのが。私に』

『そうだ。・・・・・・怖かった、とても』






 言葉がほろりと崩れ落ちて彼女へと届く。




 そんな風にそんなことを話すつもりなど無かったのに、彼女の前で俺は何も取り繕えない。




 ガードルードが優しく微笑んで、その表情を見て俺は途方に暮れていた。





『大丈夫ですよ、ルーカスさん。ごめんなさい。突然、意味不明なことを言ってしまって』

『いや、いい。知って欲しいというだけの、時もあるだろうに、俺は。俺は、なんにも出来やしないけど・・・・・・』






 あやふやで意味も為していないような言葉を、ガードルードは微笑んで受け取ってくれた。



 あの時の感情がよく分からなかったがあれは。






(彼女に、嫌われたくなかっただって? そんな馬鹿馬鹿しいことを? この俺が?)





 ソファーに寝転がって考えて考えて、ガードルードのことばかりを考えていた。





(腹が、減ったな。喉も、渇いた・・・・・・・)






 何も食べる気も飲む気もしなかった、彼女がいないというだけで。






(まるで、中毒患者のようだなぁ・・・・・・彼女がいないとなんにも出来ないのか、俺は)






 馬鹿馬鹿しい、大袈裟だ。




 彼女が夜の十九時になっても来ないというだけで、俺は何て。



 そこでまたじんわりと熱い涙が浮かんできて、自分の弱さと脆さに顔を覆っていた。





(俺に飽きたのならそれでいい。いや、良くは無いけど。それでもいい)





 ガートルード、ガートルード。





「お前が無事なら、それでいいんだ、俺は・・・・・・・・!! くそっ」





 ソファーから飛び起きて、牢屋の黒い鉄格子を握り締めて俯いていると。



 かつかつと規則正しい靴音が響き渡った。















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