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絆創膏

作者: 緑青

「あの時ああだったら何とかなのにな、のように過去のことを仮定するとき、この文章のように副詞節がhadプラス過去分詞の大過去になり、主節は助動詞プラス完了形の形をとる。仮定法の文法はテストだけじゃなくて入試にも必ず出されるから、しっかり覚えておくように」


 黒板には日本語にすると「もしあの時あなたの電話番号を知っていたら、あなたに電話したでしょう」という意味の例文が書かれている。


 長尾は文法の重要箇所に赤いチョークで線を引くと生徒の方へ振り返った。テストが近いこともあり生徒たちは皆熱心に板書された内容をノートに書き写している。だから、その中に一人だけ奇妙な動きをしている人物がいるとやけに目につくのだ。


 長尾が見渡した教室のなかで、うつむいた高橋浩太の頭が不規則なリズムで上下している。机で居眠りしている人間の動きである。長尾はしばらく、がくっがくっと頭を揺らしている高橋の様子を見守った。長尾の目線に気づいた生徒がその先を追って、くすくすと忍び笑いを漏らす。


「こら、高橋。起きろ」

 

長尾が呼びかけると高橋ははっと顔をあげて、眠そうな声で「あ、すいません」と謝り、クラスから大きな笑いが起こった。


「ここテスト出るからな」


「はい」

 

 長尾は次の文法の例文を黒板に書いた。


「もし生まれ変わったら、など、現実的に起こる可能性が低い未来のことを仮定する場合」


 長尾が黒板を指しながら説明を始めると、また高橋が頭をかくかくさせているのが視界の隅にちらついた。


 高橋浩太は明るく礼儀正しく誰からも好感を持たれる生徒だった。成績も優秀で、テストでは毎回学年で三十番以内に入る。授業態度もまじめで学習意欲も高く、疑問に思ったことは自分から質問してくる。以前長尾は、比較構文のno more than(たった〜だけ)とnot more than(せいぜい)の訳をうっかり逆に教えてしまい、その間違いを指摘してきたのも高橋である。多少プライドが傷つきはしたが、それよりも指摘してくれて助かったという感謝の気持ちの方が大きかった。


 その次のテストでちょうどその問題が出題されたので、長尾の間違った説明通りに生徒が解答した場合テストではもちろん不正解となり、生徒からクレームがいって教科主任に叱責される恐れがあったからだ。

 

その真面目で意欲も高い高橋が、ここ数週間授業中に居眠りをするようになった。長尾は生徒が授業中に寝るのは教師の責任だと考えている。生徒が眠くなるような退屈な授業をする方が悪いのだ。冗談や雑談を交えて授業を楽しくする努力はしている。


 だから生徒に居眠りをされると、自信が失われていくような気がして落ち込んだ気分になる。そして寝ている生徒が普段は意欲的な高橋だとなると、長尾の心には黒いもやが濃くかかった。あなたの授業は聞く価値がありませんと言われているようなものだ。作成したテスト問題の内容に教科主任から激しくダメ出しを食らった苛立ちもあった。

 

 長尾は船をこぐ高橋を怒鳴りつけた。高橋はびくりとして目を覚まし、もう一度「すいません」といった。今度は誰も笑わなかった。クラス中の空気が張り詰めていた。



 

その日の放課後、長尾は自分の担当したテスト問題の手直しを行い、英語の教務主任に目を通してもらった。

「細かい修正は僕がしておくから、今日はもう帰っていいよ。ご苦労さん」

 

 長尾はここのところ連日九時過ぎまで学校に残り、テスト問題の作成を行っていた。顧問を担当しているテニス部にも顔を出さねばならず、疲れが目の下のくまとなって顔に表れている。教務主任も気を遣ってくれたようで、長尾はいつもよりも少し早い時間に帰宅をうながされ、ありがたくその申し出に甘えた。

 

 学校を出たのは六時を少し過ぎた頃で、あたりに夕暮れの気配が満ちていた。オレンジ色の空にうっすらとした半円の月が浮かんでいる。テストの一週間前なので放課後の部活動は停止期間になっているが、下校途中の生徒がちらほらと見受けられた。教室に残ってテスト勉強をするという名目で雑談でもしていたのだろうと長尾は思った。

 

 車に乗り込みカバンを助手席にほおると、スーツのポケットから携帯を出して通知を確認した。少し前に妻からラインが入っていた。帰りにスーパーで買ってきてほしいものが羅列されている。長尾は携帯をポケットにしまい、エンジンをかけた。

 

 学校の近くに大手チェーンのスーパーがある。長尾がそこの駐車場に車を止めたのは六時半を少し過ぎた頃だった。長尾は店舗に入ってかごを手にすると、携帯を確認しながらリストの品を求めて売り場をうろつき始めた。


 古い洋楽の流れる店内は買い物客で賑わっている。若い女性からおばあさんまで、様々な年代の主婦らしい姿が多く目についた。妻は今夜のおかずに唐揚げでも作るつもりなのだろう、買い物リストには鳥のもも肉が含まれている。長尾が精肉コーナーでもも肉を選んでいると、長尾の高校の制服を着た男子生徒がカートを押しながら肉を選んでいるのに気がついた。高橋浩太である。高橋は豚肉のパックを手にとって、真剣な顔で賞味期限を確かめている。制服姿の男子生徒が生肉を選んでいる様子はどこか似つかわしくない感じがした。高橋は長尾が近くにいることに気がついていないようだ。


 声をかけようかとも思ったが、今日の授業で怒鳴ってしまったこともありなんとなく気まずく、少し離れたところで高橋の様子を見ながら躊躇していた。向こうがこちらに気がついたら話せばいいだろうくらいに考えて、長尾も高橋には気がつかないふりをすることにした。

「お兄ちゃん、これ買っていい?」

 

小学校低学年くらいの女の子が、コアラのマーチを持って高橋に話しかけた。


「いいよ。じゃあかごに入れて」


「今日は何作るの?」


「豚の生姜焼きかな」


「えー、またあ?」女の子が不平の声をあげる。「一昨日もそうだったじゃん。焼きすぎて焦げてたし」


「ははは、今日は気をつけるよ。生姜焼きは飽きた?」


「うん。でもいいよ、生姜焼きで」


「なにか食べたいものある?」


「ハンバーグが食べたいな」


「おれハンバーグは作れないなあ。お母さんが退院したら作ってもらおう」


「お母さんいつ帰ってくるの?」


「来週には退院できるって」


 高橋はかごに豚肉のパックを入れた。


「明日の朝はパンでいい?」


「うん、いいよ」


「じゃあお会計して早く帰ろうか。そろそろお父さんも帰ってくるだろうし」


「そうだね。ねえ、ご飯食べてお風呂はいったら宿題見てくれる?」


「いいよ」


「終わったらスマブラしようよ」


「どうしようかな。いつもおれが勝っちゃうからな」


 長尾が買い物を終えて駐車場をでると、買い物袋を下げた高橋と幼い妹が、穏やかな夕暮れに染まった歩道を歩いているのが見えた。妹が何かを指差しながら高橋に話しかけている。長尾もその指先を辿ってみたが、少女が何を指差しているのかはわからなかった。


 横を追い抜くときにちらりと高橋をみた。高橋は妹の指差す方向に顔を向けていて、長尾に見えたのは彼の後ろ姿だけだった。赤信号で止まり、バックミラーを覗くと、並んで歩く二人の姿が遠くに見えた。


「独立分詞構文っていうのは、主節中の動詞の主語と副詞句中の分詞の主語が違う場合に」


 長尾が板書した例文の解説を始めると、昨日と同じように、また視界のすみで黒い頭がゆらゆら揺れている。長尾はうつらうつらしている高橋へ目を向けた。高橋は左手で額を支え、必死に眠気に抗っている様子だったが、体をゆらゆらさせながら目は閉じてしまっている。高橋の左手の人差し指に絆創膏が巻かれているのに気づいた。気づかなかっただけで、昨日も一昨日も、その絆創膏は巻かれていたのかもしれない。隣の生徒が高橋を起こそうとして、肩を叩こうと手を伸ばした。


「いいよ。寝かせといてやれ」


 起こそうとした生徒はその指示に戸惑い、表情で「いいんですか?」と長尾に問いかけた。空中で止まった手が行き場をなくしている。


「それとさ、悪いんだけど、あとで高橋にノート写させてやって」


 長尾はそう言うと再び板書した例文の説明を始めた。〈了〉




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