8-8.誘拐
草木も眠る丑三つ時。街灯の光を避けるように、黒い四つの影がマンションの壁際を染みのように動いて行く。影は一番高いマンションの下で動きを止め、それから三つの影がヤモリのように壁を這い上る。影の一つはマンションの下に佇んでいる。
八階まで上った影たちはベランダに身を潜める。音も無く窓を開け、二つの影が部屋の中へと侵入する。
そう広くない部屋の中、左手には机や棚、そして右手にベッド。ベッドの傍には白っぽい毛並の獣が眠っている。
パッと光が灯った。ペンライトの小さな光。光は獣を照らさないように動いてベッドへと向き、そこに眠っている二人の少女の顔を暗闇に浮かび上がらせる。
影たちは無言で布団を捲ると、手前に眠っている歳上の少女の小柄な身体を、頭側と足側から二人掛かりで抱きかかえた。
「ん、んん」
少女が小さく呻いた。構わず身体を持ち上げ、頭の方からベランダへ向けて移動する。
「ん。んえ? な、何?」
少女が目を開いた。
「え。ちょっと、な……んぐ」
黒い手が少女の口を塞いだ。ベランダに待機していた影が部屋に入り、腕を捲り上げて持っていた注射器を少女の腕に突き刺す。
「んふ、ん、うーん」
強力な鎮静剤の効果で、少女の意識は待機状態へと強制的に落とされた。
影たちはどこからか取り出した袋に少女を入れ、口を縛った。
「グワァ?」
獣が頭を持ち上げ、開いた窓に顔を向けた。途端に部屋の中で光が迸る。
「グワァゥ」
スタンガンをまともに受けた獣は床に突っ伏して痙攣した。
影たちは少女の入った袋にロープを結んで下におろした。地上で待機していた影が袋を受け止めると、三つの影はベランダにフックを掛け、繋がれたロープを伝ってするすると降りていく。
最後の影が地上に降りると、ロープを大きく振ってフックを外し、二つが荷物を抱え、二つが周囲を警戒しつつ、マンションの裏手から裏山へと消えて行った。
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「寒っ」
ぶるっと震えてヨシエは目を覚ました。寝間着の内側に付けたポケットに魔力懐炉を入れてあるから、布団をかけておけばそうそう寒いことはないのだが。寝惚け眼で布団が捲れ上がっていることを確認したヨシエは、布団を引き寄せて再び夢の世界へと歩き出す。
次の瞬間、がばっと布団を剥いで身体を起こした。
「先生っ」
隣にマコの姿がない。お手洗いなら、ヨシエが寒くならないように布団を掛けて行くはずだ。
ヨシエは頭上に光を灯した。隣には誰もいない。風を感じて窓を見ると、窓が開いたままだ。
「先生っ」
もう一度言ってベッドから飛び降り、ベランダへと駆け出る。頭上の光を消して周りを見渡すが、月明かりと暗い街灯に照らされた広場には何の動きもない。
慌てて部屋に戻ると同時に光を灯す。
「きゃっ、ごめんっ」
眠っている──にしては少し変な気もしたが──タマを辛うじて踏み付けずに飛び越え、部屋から勢い良く飛び出して、ノックもせずに開いた隣の部屋の扉から飛び込み、ベッドに駆け寄った。
「おばさんっ、大変っ、起きてっ」
激しく揺り動かされて夢の淵から引き揚げられたレイコは、昼のような眩い光に目を細めた。
「え? ヨシエちゃん? どうしたの?」
手を翳して光を遮り、自分を起こす人物を見極めて声を掛ける。
「先生がいないのっ。窓が開いてるのっ」
泣き出しそうな表情で言うヨシエにただならぬものを感じたレイコは、隣で寝ているキヨミを起こさないようにベッドから抜け出し、その時にはヨシエの言葉を頭の中で反芻している。
マコがいない?
窓が開いている?
最悪の事態がすぐに思い浮かんだ。
「ヨシエちゃん、お母さんとお姉ちゃんを起こして来てっ」
「ぐすっ、うんっ」
ヨシエと一緒に部屋を出たレイコは、開いたままの扉からマコの部屋へと飛び込んだ。
「マコっ」
ヨシエの言った通り、ベッドの中は空だ。開いた窓から月の冷たい光が射し込み、床に窓枠の影を落としている。ベッドの横のタマが、なんだかいつもと違う気がした。
「タマっ?」
レイコはタマの横に膝をつき、頭に手を乗せる。
「グワァゥ」
力なく頭を上げたタマは、続けて立ち上がろうとしたが、へたり込んだ。悪い予感が当たった、とレイコは確信した。
すぐに立ち上がり、部屋を出たところに明坂家の三人がいた。
「マコが誘拐されましたっ。自衛隊に救援を求めて来ますっ。三人一緒に固まっていてくださいっ」
一方的に言い置いて、ヨシエの母が口を開くのにも耳を貸さずに玄関でサンダルをつっかけ、外に飛び出る。
八階から一気に一階まで階段を駆け下り、白い月明かりに照らされた広場を、自衛官が泊まっている簡易住宅に向かってを全力で駆ける。
裸足にサンダルでは大して速度を出せない。頭のどこか冷静な部分が『靴下を履いてスニーカーで来れば結果的に速かったな』などと考えているが、今から部屋に戻っていたらそれこそ貴重な時間を無駄に使ってしまう。レイコはマコの無事を祈りつつ、全力で駆けた。
「すみませんっ、起きてくださいっ、緊急事態ですっ」
マコは自衛官の宿泊する住宅の前で扉を叩いた。鍵はないし、閂は用意されているが恐らくは使われていない。それでも、いきなり扉を開けないくらいの理性はレイコに残っていた。
扉はすぐに開いた。
「どうされました?」
落ち着いた声が、レイコの心を少しだけ落ち着かせる。レイコは一呼吸置く間に言うべきことを整理して口を開いた。
「マコがいません。何者かが侵入した形跡があります。誘拐された可能性が高いです」
「全員、起床!」
自衛官は一瞬で事態を把握してくれた。
良く訓練された自衛官たちは、すぐに起きて来た。
「魔法使いのマコさんが行方不明。誘拐の可能性大。撞田は本隊に応援を要請。巌本は隣の隊員を起こしてマンション周囲の捜索、一人は交番へ支援要請。沼太は自分と共に実況検分」
自衛官たちはすぐに動き出した。
数秒で支度を終えた自衛官と共に、レイコはマンションへと走る。マコ、マコ、無事で居て。わたしたちが見つけるまで。
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「痛っ」
身体が転がって何かにぶつかり、マコは気が付いた。
(え? 何? これ、袋? なんだっけ。えっと、そうだ、口を押さえられて、注射打たれて……って、あたし誘拐されたっ!?)
普段とあまりにも違う目覚めに、マコは即座に現状を想像した。あまり騒ぐとまた注射を打たれるかも、と口を引き結ぶ。今度意識を落とされたら、次はどこで目覚めるか判ったものではない。
幸いにも、マコの意識が戻ったことに、誰も気付いていないようだ。
マコはやるべきことを考えた。
(逃げる。こいつらの追跡手段を奪う)
そう決めると、まずは周囲に魔力を広げる。載せられているのはワンボックスタイプのバン、音からして電気自動車だ。乗っているのは、床に転がされたマコの左右に四人、運転席に一人。
(瞬間移動で逃げればいいけど、結構速く走ってるよね。地面で転がったら大怪我する……ならっ)
マコは、バン全体に広げた魔力をそのままに、後部上方へと魔力を伸ばす。五百メートルほど伸ばしたところで瞬間移動し、空中へと逃亡を図る。
「きゃひぃっ」
悲鳴を上げかけて慌てて口を噤み、身体の周りの魔力を力に変えて、落下速度を落とす。
自分と同時に瞬間移動させたもの──誘拐犯たちの衣服と装備やバンの車輪──がばらばらと自由落下して行く中、マコはゆっくりと地面に着地した。
バンを振り返ると、強制的に止めさせられた車内から全裸の男(かどうか判らないが)たちが出て来て周りを見回している、ようだ。
マコはすぐに周囲に魔力を張り巡らしてバンから奪ったものを把握し、さらに後方一キロメートルまで魔力を伸ばして瞬間移動する。その魔力を回収せずに使い捨てて、さらにもう一度。これでかなり距離を稼いだ筈だ。
暗がりを、魔力を放出して探ると、田圃を通る農道のようだ。中途半端に稲の刈られた田圃が広がっている。
マコは、左右に魔力を伸ばして田圃の向こう側を探った。右手百メートルほど離れた所を並行して走る農道がある。マコはその農道に向かって、もう一度瞬間移動を行なった。これでそれなりの時間が稼げるだろう。
月明かりの中、マコは一緒に瞬間移動させたものを確認する。四つのホイールとタイヤ、五人分の黒い服と装備一式。車輪がなければ自動車の走行は不能だし、全裸であれば誘拐犯たちもまともに動けないだろう。
誘拐犯たちは魔力を持っていなかったから、その気になれば五人まとめて瞬殺も可能だったが、人を手にかけることにはやはり忌避感があり、服と装備を奪うに留めた。
服を奪ったことにはもう一つ理由がある。
(うーん、一番小さいのはこれかなぁ)
マコは、五人の靴を並べて一番小さいものを選び、靴の中から靴下を出して履き始めた。下着にパジャマだけの軽装では、逃げることも覚束ない。靴と服は逃亡にどうしても必要だ。
(うー、生温かい。やだなー。でも仕方ない)
靴下を履いた後、足を身体浄化したが、あまり変わらない。気持ち悪いのをマコは我慢した。
パジャマの上からズボンを穿き、靴を履いて、上着を着る。小柄なマコにはだぶだぶなので、裾と袖口は折り返した。
(全部真っ黒。どう見てもどっかの軍隊だよね……)
その考察は後回しにし、残りをどうしよう、と少し考え、二着の上着を使って五本のナイフと五個のペンライトを包み込んだ。銃も持って行こうかと思ったが、重いし、先日の隣のコミュニティが襲われた事件が頭によぎったので、弾丸も含めて残すことにした。
(でも、放置してあいつらに見つかったら不味いよね……どうしよう……そうだっ)
残った銃や服などの装備と四つのタイヤを魔力で包む。さらに、地中に向けて魔力を伸ばす。
次の瞬間、装備とタイヤは土塊に変わった。
(これで良しっと。自動車はあっちに向かってたから、反対方向に進むのがいいよね。……ここ、どの辺りなんだろう……)
悩んでいても始まらない。マコは、バンが向かっていたのと逆方向に向けて歩き出した。




