6-6.魔法使いの過去
マコが物心ついた時、周りにはレイコと祖父母がいた。それに、犬と猫。
マコが覚えている最初の母は、自分を抱いて優しい笑顔を浮かべている姿だった。それと同じくらいに記憶にあるのは、机に向かっているレイコの背中。
高校を、僅か数ヶ月で退学させられることになったレイコは、大学入学資格検定と大学入試のために猛勉強していた。物心ついたばかりのマコは母に構ってもらいたかったものの、子供心に母が大変なことを察して、祖父母に相手をしてもらっていた。
それでも時には、勉強に勤しむレイコの膝に乗って、母の邪魔をしないように静かに参考書やノートの文字を眺めていることもあった。
祖父母に抱かれることも好きだったが、母に抱かれると心の底から安心できた。それで、レイコの膝に乗って忙しなく動く母の指を見ている内に寝入ってしまうことも良くあった。
そんな時レイコは、寝入ってしまったマコを毛布で包み、膝の上に抱いたまま勉学に勤しんだ。すくすくと育っているマコの体重は一般的な女子高生には重荷になるだろうが、レイコはそれを苦にしなかった。腹を痛めた我が子を抱いているだけで心が落ち着き、頭が冴えて来るようだった。
レイコは大学入学資格検定に難なく合格し、地元の大学にストレートで入学した。大学に入って最初の一年の間、レイコは、まだ保育園に通っていなかったマコを、大学に連れて行くこともあった。そんな時、マコはレイコの隣の席に座って大人しく絵を描いたり、解りもしない講義の内容に耳を傾けたり、それに飽きてうつらうつらしていた。レイコの受験勉強中から、大人しくしていることにマコは慣れていた。
レイコが大学に連れて行けない時は、家で内職をしている祖母がマコの面倒を見てくれた。しかし、長い時間レイコに会えないでいると、マコの機嫌は目に見えて解るほどに悪くなった。泣いたり騒いだりはしないものの、面倒を見ている祖母が心配になるほどだった。
レイコが大学二年になるのと同時に、マコも保育園に通うようになった。朝はレイコが送ってくれ、帰りはレイコか祖母のどちらかが迎えに来てくれる。仕事が早く終わった日には祖父が迎えに来ることもあった。
迎えが祖父母だった時、マコは表情に出さないように落胆し、家に帰るとレイコが帰宅するまで大人しく待っていた。
大学での四年を過ごしたレイコは、卒業を前に、大学でできた友人たちと卒業旅行を計画した。
「レイコちゃん、きをつけてね」
「うん。お土産楽しみにしててね」
「レイコちゃんがはやくかえってくるのがいちばんいい」
「もう、欲がないんだから。お父さん、お母さん、マコのことお願いね」
「心配しないで。それよりレイコこそ気をつけるのよ」
「解ってます。じゃ、行ってきます」
「いってらっしゃ~い」
レイコのいない四日間を思うとマコの小さな胸は痛んだが、レイコが帰って来れば自分も小学生なのだから、とマコは精一杯の笑顔でレイコを送り出した。
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レイコが帰って来る予定の日曜日の朝、祖父母との朝食を終えて食後のお茶を飲んでいる時に、それは起きた。
「ん? 地震か?」
祖父が言うのと同時に、食器がかたかたと揺れ出す。
「それほど大きくはないな」
「でも長いわね。テレビ点けてみましょう」
祖母が自分のお茶を一口飲んで居間に行く。マコも、ふうふうと冷ましていた茶碗を両手で持って、祖母の後ろについて行った。祖父も悠然とついてきた。
テレビには、どこかのテレビ局内の映像が映っていた。画面は大きく揺れ、ロッカーや机の上のディスプレイは倒れている。
画面が変わると、外の映像だ。どこかのビルの上の定点カメラだろう、街の景色が映っている。その画面は、小刻みに激しく揺れている。
日本地図の一部がスーパーインポーズされた。震源に、各地の震度と津波予想。
「……あなた、これ」
祖母が不安そうな声を出した。
「……すぐ確認しろ」
「はい」
祖母があたふたと居間から出て行った。
「おじいちゃん、なにかわるいこと?」
祖父母の不安を感じ取ったマコは、祖父に聞いた。
「悪いことじゃないよ。ただの地震だ。ただ、テレビに映っている場所は大変だね。随分と被害が大きそうだ」
「……おうち、こわれる?」
マコが聞いたのは、外の定点カメラの隅で家が一軒倒壊したからだ。
「この家は大丈夫だよ。こんなに酷くないからね。さ、この辺は大丈夫そうだから、歯を磨いて遊んで来なさい」
「うん」
祖父の様子に釈然としないものを感じつつも、幼いマコはその理由が解らず、とりあえず言われた通りに洗面所へと行った。
入れ違いに、祖母が居間にやって来た。
「電話、繋がらないわ。大丈夫かしら」
「どうかな。いや、大丈夫だ。レイコなら。しっかりしているから」
「そうだといいけれど。マコには、どうしましょう? レイコが帰って来られないと解ったら悲しむわよ」
「しかし、言わないわけにはいかないだろう。今日帰ることは知っているんだし、何も知らずに帰って来ない方がもっと不安になる」
「そう、そうよね。じゃ……」
「待て。今はまだ早い。まだレイコが巻き込まれたと決まったわけじゃない。もしかすると、それほど酷くないかもしれないし。昼までには詳細が判るだろうから、それからにしよう」
「そうね。それじゃ、それまでは、なるべく普段通りに」
「そうだな」
テレビを見てもマコには解らなかったが、地震の震源地はレイコの旅行先の近くだった。時間的には、まだホテルを出る前のはずだ。電話は、レイコのスマートフォンにもホテルの代表にも繋がらなかった。回線がパンクしているのか、基地局が潰れたのかも判らない。夫婦は不安に苛まれたが、焦っても仕方がない。続報を待つしかなかった。
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「マコちゃん、落ち着いて、良く聞いて。今日はレイコ、帰って来られそうにないの」
昼過ぎには現地の状況がある程度報道され、相変わらずレイコと連絡がつかないことから、祖父母はマコに事実を告げることにした。今日の内に帰って来る予定をマコも知っているし、マコは妙に勘がいい所もあるから、変に誤魔化さない方がいい、と判断した。六歳になったばかりの子供を相手に過大評価かも知れないが。
「レイコちゃん、かえってこないの……?」
マコは、この世の終わりが来たかのような表情で祖父母を見た。
「なんで?」
「朝、テレビで地震のニュースをやっていたの、覚えてる?」
「うん」
「あの地震でね、レイコの泊まっているホテルも被災した、あ、この言葉は難しかったね、少しだけ壊れちゃったのよ」
「え……レイコちゃん、けがした……?」
「いいえ。ホテルが避難所にもなっているから、壊れたと言っても大したことはないはず。だからレイコも……マコちゃん?」
マコの視線は宙を泳いでいた。焦点がどこにも合っていない。
「レイコちゃん……レイコちゃん……」
唇は母の名前を繰り返すのみ。
「マコちゃん、しっかり、マコちゃん」
「マコ、おい、どうした、マコ」
祖父母が身体を揺するが、マコは正気に返らない。
「レイコ……ちゃん……いや……いや……いーーーーーーーやーーーーーーーっ」
少女の叫び声が響き渡った。
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マコが目覚めたのは、すっかり陽が落ちた後だった。ナツメ球の光を見て、いつの間に寝たのだろう、とマコは思う。布団を剥いでのろのろと身体を起こす。右に布団が敷いてあった。左にも。普段は母と二人で眠っているが、レイコの旅行中、マコは祖父母と寝ていた。
レイコの旅行中……
レイコの、旅行、中……
「やーーーーーーーーーーーーっ」
突然の叫び声に祖父母が寝室に飛び込むと、布団の上で身体を縮めたマコが頭を抱えて震えていた。
「マコちゃん、大丈夫、お祖母ちゃんがいるから、大丈夫、大丈夫だよ」
祖母は座ってマコを抱きかかえ、優しく声を掛ける。祖父は、孫娘と愛妻を守るように、二人の肩に優しく手を置いた。
「マコちゃん、お腹空いたでしょう? ご飯食べようか」
祖母は言った。
「……い、いらない……おなか、へってない……」
マコは小さく震えながら答えた。
「駄目よ」そこで一旦言葉を切った祖母は、躊躇いがちに続けた。「レイコが帰って来た時、マコちゃんが元気なかったら、悲しむよ。だからちゃんと食べないと」
「……レイコちゃん、かえって、くる……?」
「来るよ」
祖父が即座に言った。
「お祖父ちゃんとお祖母ちゃんの娘で、マコのお母さんなんだ、必ずここに、帰って来る」
大きくない声で、しかし力強く、そして優しく、祖父は言い切った。
マコは目を擦り、鼻を啜った。
「うん。レイコちゃん、かえってくる、よね」
「そうよ。だから、ご飯を食べましょう」
「……うん」
祖母が用意した夜食を、マコは二口三口食べただけで、箸を置いてしまった。祖父母も、無理に食べさせようとはしなかった。
それからマコは、起きている間は畳に座り膝を抱えて過ごし、夜は床につくものの、深夜に悲鳴を上げて祖父母を心配させた。
万々が一、レイコが帰って来ないようなことがあったら、それを納得させなければならない。けれど、今のマコにそれを受け入れることができるだろうか? あるいは、専門家の門を叩く必要があるかも知れない。
それを思うと、祖父母は二人とも胸が締め付けられる思いだった。二人は、娘が無事に帰って来てくれることを、色々な意味で願った。
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四日が経った。祖母は布団に入ったマコが寝付くまで、一緒に横になっていた。
電話が鳴った。
「マコちゃん、待っててね。お祖父ちゃんお風呂だから、電話とってくるから。寝ててもいいからね」
「うん」
祖母はマコの頭を撫でると、寝室から出て行った。
ナツメ球だけの暗い中、マコは布団の中で丸まって、震える自分の身体を抱き締めた。
電話の呼出音が止まった。少ししてから慌てたような祖母の声。
「マコちゃんっ、マコちゃんっ、ちょっと来てっ」
慌てながらもどこか喜びを滲ませた声。
マコは飛び起きると、祖母の元へ駆けた。
「マコちゃん、レイコよ、レイコから電話」
受話器を持つ祖母の目から、抑え切れない涙が溢れている。マコはその手から引っ手繰るように受話器を取った。
「レイコちゃんっ」
《マコ? 心配させてごめんなさい。今やっと、電話の通じる所まで来たのよ》
「レイコちゃん、レイコちゃん、レイコぢゃん、んあ゛あぁぁぁ」
《ほら、泣かないの。今夜は無理だけど、明日にはちゃんと帰るから》
「う゛ん、う゛ん、ううううああああんっ」
《解ったから、お祖母ちゃんに変わって》
マコは泣きながら、祖母に受話器を渡した。
浴室までその様子が伝わったのだろう、祖父も腰にタオルを巻いただけで出て来た。
祖母も祖父も涙を流していた。そんな二人に抱き着いて、マコはいつまでも泣き続けた。
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その後も、マコはレイコの無事を長時間確認できないと、精神的に不安定になった。突然落ち着かなくなったり、泣き出したり、叫んだり、意識を失ったり。
だからレイコは、常に通信手段を身に付け、出張などでマコから長く離れる時には、一日に一度以上、連絡を入れた。それで、困ることは無かった。人里離れた山奥にでも行かない限り、スマートフォンの電波が届かない場所などなかったのだから。……異変が起きるまでは。




