1-5.考察
しばらく外を観察したマコは部屋の中に引っ込むと、これまでに判ったことを纏めておこうと考えて、椅子に座り机に向かった。引き出しからまだ使っていないノートを取り出して最初のページを開き、机の隅に置いておいた鉛筆の一本を手に取る。筆立に入れてあったシャーペンやボールペンは、プラスチック部分が消失した結果、ボールペンのインクが筆立の底に溜まってしまい、金属製のシャーペンもペン先が詰まって使えなくなっていた。そうでなくても、先のゴムが無くなって使用に耐えたかは微妙だが。
鉛筆もボールペンの被害に遭っていたものの、これは先を削れば使用可能だ。マコは引き出しからしばらく使っていなかったナイフを探し出し、床のゴミ箱を膝に挟んで鉛筆の先を尖らせ始めた。
「んー、小六の時以来だけど、身体が覚えてるもんね」
鉛筆削りは小さな歯とそれを止める螺子が残っているだけだったので、小さな頃にナイフを使って鉛筆を削ることを教え込んでくれた母に感謝しつつ、筆立にあった三本の鉛筆をすべて削った。
「さってと」
スチール製のゴミ箱を床に置き、ノートに向かった。そこに、気付いたことを箇条書きに書き留めてゆく。
・九月七日、朝からいろいろ変わった。
・前日(九月六日)は夜十一時頃寝た。朝起きたのは六時過ぎ。
・変化は、九月六日午後十一時から九月七日午前六時の間に起きたと思われる。
・母はあたしより遅く寝て早く起きているから、聞けばもう少し時間を絞れるはず。
・プラスチックやビニールが消えた。ゴムも消えた。
・多分、あらゆる石油製品が消えている。
・スマホ電源入らない。中のプラスチックが無くなってショートしたのだと思う。
・母の機械式腕時計は動いている。絶縁部分が石油由来ではない樹脂か何かでできている?
・タマ(猫)が巨大化した。巨大化と言うより別の生き物に変わった感じ。
・窓から観察した感じ、あらゆる動植物が別の生き物に変わっている。
・雀は茶色の兎っぽい生き物になったみたい。
・それぞれの生き物がどう変わったかは、行動から判断するしかなさそう。雀が鳥でなく四足動物になったように、必ずしも似た動物になっているとは限らないらしい。
・ワイバーンが飛んで行った。元の動物は想像もつかない。
「今のところ、こんなもんかなぁ。……あ、そうだ」
一度鉛筆を置いて自分の書き出した内容を眺めていたマコは、改めて鉛筆を持った。
・朝食べたパンの味が変化していた気がする(母は気のせいだと言っていた)。小麦が別の植物に変わったことが原因と思う。
・パンに塗った蜂蜜も変化していたかもしれない(気付かなかったけど)。
生えている植物が変わったからといって、すでに生産されている商品まで変わるとは常識では有り得ないが、それなら石油製品が消失したりはしないだろう。小麦が別の植物に変わったから、小麦を原料としたパンも、得体の知れない植物を原料にした食品に変わったから、味も変わったのではなかろうか。
(あれ? 待って)
ふと、マコの脳裏に何かが引っかかった。
(小麦が変化したから、その製品のパンも変化した。なら、石油製品が消えたと言うことは、その原料である石油が消えた……んじゃなくて、石油に変わるべき“何か”が無かった?)
マコの脳内でいくつかの疑問符が絡み合ってゆく。
(石油に対応する物が無かったと言っても、例えば炭素や水素が消えたわけじゃないよね。鉛筆はあるし、水もあるし。なら、窒素とか硫黄とかもあるはず。それなのに石油製品が消えたと言うことは……)
鉛筆を置いて、頭の後ろで手を組んで思いを巡らせていたマコは、もう一度それを手に持った。
・油田が無くなっているかも知れない。
自分で書いておいて、首を捻るマコ。
(油田が無くなった? それっておかしくない? それなら、この現象は世界規模ってこと?)
「ただいま」
さらに考えを進めようとしたところで、帰って来たレイコの声に、マコは思考を中断させた。何か新しい情報を仕入れて来たかも知れない。それに、また疲労を蓄積していることだろう。
「おかえりなさーい」
ノートを閉じて椅子から立ち上がったマコは、母を迎えるために自分の部屋を出て行った。
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二度目の外出では、レイコの仕入れて来た情報に目新しいものは一つ、この現象の発生時間がかなりピンポイントで絞れたことだ。
「何人か遅くまで起きている人もいてね、その人たちに聞いたら深夜零時を過ぎて何分も経たない内に停電したそうよ」
それらの話を総合すると、状況が変わったのは零時から零時五分の間のようだ。後でノートに書き足しておこうとマコは頭に刻みつける。
それ以外に判ったことは、この現象がかなりの広範囲に渡っている、ということくらいだ。
現象自体の他に、近所の住民の行動も色々と判った。小中学生は普通に登校したものの、教諭の大半が学校に来ておらず──と言うより来る手段を失ったのだろう──昼を待たずに下校したようだ。
社会人も、徒歩通勤者は普段通りに通勤し、その内の何人かは仕事にならないからと帰って来ているらしい。電力が無いでは仕事に必要な機器のほとんどは使えないだろうし、タイヤが消えていては自動車も動かせない。そもそも、ガソリンも軽油も消滅していてエンジンもかからないだろう。その上、社内外への連絡も取れないとなると、できることは本当に何も無いだろうことは、仕事に就いたことのないマコにも判る。
「それで、この後はどうするの?」
朝と同じ、蜂蜜を塗った焼いていないパンと牛乳という、質素な昼食を摂りながらマコはレイコに聞いた。
「管理人さんと話したんだけど、今日は様子を見て明日も同じだったら午後に集まって、今後どうして行くか、マンションのみんなで話し合うことにしたわ」
「そっか」
「話し合いにはマコも出てね」
マコは露骨に顔を顰めた。
「えー、嫌だよ。レイコちゃんが出るんでしょ? なら、あたしはいらないよ」
「わたしは管理者側として出るから、マコに住民の一人として出て欲しいのよ」
「立場関係ないって。話し合いって二階の会議室でしょ? 一世帯一人くらいじゃないとパンクするよ。ってか何でレイコちゃんが管理側?」
「管理人さんと話している時にお願いされちゃってね。人を纏められる人が少ないのよ。何人か捕まえて手伝っては貰うけれど」
まだ三十一歳という若さながら、一企業を立ち上げ社員を率いているレイコならば、纏め役もできるだろう。と言うよりもまさに適任と言える。管理人もそれを知っているから、レイコに管理者側としての参加を依頼するのは当然と言える。
「管理人さんは纏め役って感じじゃないもんね。どっちにしろ、あたしはいらないよ。人が一杯いるとこ、苦手だし」
人混みでなくても、単に人と接するのが苦手だ。だからマコは、高校に通う以外はほとんど部屋に引き籠っている。外に出ること自体は嫌いではないのだが。
「仕方ないわね。まあいいわ。でも、色々手伝って貰うわよ」
「何?」
「午後は家の片付けをお願い。わたしも朝、少しは片付けたけれど、片付け切ってないから」
「はぁい」
不承不承の気持ちを隠そうともしないで、マコは言った。
「それが終わったらこれのコピーお願いね」
レイコはテーブルの隅に置いておいた紙を持ってひらひらさせた。
「コピーって……動いているコピー機どっかにあるの?」
「違うわよ。手で書き写すの」
「ええええええええっ!!」
マコは今度は、表情だけでなく言葉でも拒否反応を示した。
「仕方ないでしょう? 明日の打ち合わせをマンション中に知らせなきゃいけないんだから」
「だって……ここ、百二十世帯くらい無かったっけ? 百枚以上もそれを手書きするのぉ?」
「部屋は百二十三あるけれど、入っているのは九十八世帯よ。他にも手伝いをお願いしたから、わたしとマコで合わせて二十枚だし、マコが片付けしている間に先にわたしが進めておくから」
それなら十枚もない、多くても精々六、七枚か、とマコは割り出した。確かに今から回覧板を回しても明日までに回り切れないだろうから、それが必要であることはマコにも解る。
「解ったよ。じゃ、すぐに掃除始めるね」
ささやかな昼食はもう終わっている。これが続くようなら、これから食事をどうしていくか考えないといけないな、などとマコは考えた。
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片付けると言っても普段の掃除とはやることがそもそも違う。容器が消失したために散らばった中身や、支えを失って割れた鏡を含む硝子などの片付けが主なものだが、砂糖や塩など、捨てるのは勿体ない。しかし、それらを入れておく容器がそもそも消えているから、その容器を用意することから始めなければならない。
マコは、適当な金属製の容器でもないかと探そうと思ったが、途中で考え直して、手っ取り早く使われずに丸められたままのカレンダーを折り紙にした箱を作って粉物を入れた。当然かなりの取りこぼしはあるが、それは仕方がない。掬いきれない粉物は、箒とカレンダーで作ったちり取りで集めて捨てた。
硝子も箒で纏めて散らからないようにして捨てるだけだ。
しかし、練物や液体はそうはいかない。棚や床をねっとりと汚している歯磨き粉や液体洗剤など、集めようがない。マコにできることは雑巾で汚れたところを拭い取ることだけだった。それも、水をあまり使わないようにしたから充分に綺麗になったとは言い切れない。(これくらいでいいや)と自分で無理矢理納得したことにして、マコは掃除を終わらせた。
その後はレイコが進めていたチラシの写しを約束通り手伝った。レイコが十枚を写し終えていたので、マコは五枚を写すだけで済んだ。
「レイコちゃん」書き写しながら、掃除中に気になったことを聞いた。「牛乳のパックがお皿に乗ってたの、何で?」
「ああ、あれね。なんだかパックから染み出していたから」
それを聞いてマコは納得する。牛乳パックの表面を覆うポリエチレンは原油から作られているから、それが消失してしまったのだろう、と。
「お祖父ちゃんとお祖母ちゃん、大丈夫かなぁ」
マコはふと、田舎の祖父母のことを頭に思い浮かべた。
「連絡の取りようがないから、ここと同じかどうかも判らないからね。同じことが起きていたとしても、わたしたちよりはマシだと思うわよ」
レイコは、自分の両親についてはあまり心配していないようだ。
「何で?」
「あっちの家は井戸水だし、ポンプが止まっても手押しポンプもあるし、畑で野菜も作っているし」
「そっか。でも、火を使えないんじゃ困るんじゃない?」
「それも練炭があるから」
「それもそうか」
文明の利器が使えなくなった時には、田舎暮らしの方が強いらしい。少し考えれば当然のことだが、非日常に陥って初めてマコはそれを実感した。