1-4.観察
「石油製品が消えている?」
マコの“発見”にレイコは頭に疑問符を浮かべ、それから納得した。
「確かに、プラスチックにビニール、石油製品ね。それなら発電所も停まるだろうし。あら? ということは、この現象は物凄く広範囲で起きている?」
この近所には発電所は無い。発電所が停止しているとしたら、かなりの広範囲で“石油製品消滅現象”が発生していることになる。
しかしマコは首を横に振った。
「それは判らないよ。例えばコードの被覆が無くなったらショートするから、変電所とか、もっと近いとこだと変圧器とか、そういうのが壊れたら送電も止まっちゃうだろうし」
「そうか。そうよね。じゃ、ガスは?」
「もしかするとそれも無くなってるかもしれないけど、それ以前に、ガスホースが無くなってた。あれ、ゴムだから」
「ホースは確認しなかったわね。でもゴムってゴムの木の樹液から作るんじゃない?」
「それは天然ゴムね。今一般的に使われてる合成ゴムの原料は石油だよ」
知らないの?という視線で母を見るマコ。
「そう言えば、そうね」
レイコは、うっかり忘れていた、という返事を返した。疑ぐり深そうなマコの視線がレイコに向けられたが、それはすぐに逸らされた。今はどうでもいいことだ。
「それより、ガスホースが無くなって大丈夫かしら? ガス漏れは」
「一応ガス栓は閉めたけど。でも異常を検知して止まってるんじゃないかな。ガス自体が無くなってる可能性もあるし」
「そうね。少なくとも、見える範囲で爆発が起きた様子もないし、大丈夫でしょう」
ガスホースの消失でガスが漏れていたら、近くで一件や二件は引火していておかしくない。そんな様子が見られないと言うことは、少なくとも近所でガス漏れは起きていないと推測できる。
「少し休んだらまた出て来るわね」
レイコが言った。
「また? 帰って来たばかりじゃない」
「何が起きているのか少しでも情報を仕入れておかないと。家にいても何もできることはないし。マコは家にいなさい。どんな危険があるかも判らないから」
それを言ったらレイコも危険なのに、と思ったものの、一度無事に帰って来たのだから大丈夫だろう、とマコは軽く考えた。
「またタマを連れてってね」
それでも、護衛役はいた方がいいだろうと、引き続きタマを連れて行くよう提案した。レイコも、現在のタマに慣れたようで、異を唱えることは無かった。
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再び留守番をすることになったマコは、自分の部屋に戻ると折り畳み式の双眼鏡を机から出した。幸いにして石油製品を部品には使っていないらしく、使用に問題はなかった。
家の中は粗方調べ終わり、石油製品が消えていることと、タマの変化以外には異常はないとマコは考えていた。見落とした可能性はあるが、あるか判らない変化を求めて一度見た場所を探すより、新しい場所を観察した方が効率がいい。
母から外出を禁じられたのも、元々引き籠もり気質のマコにとっては返って都合がいい。
ベランダに出て、手摺がぐらついていないか確認する。何しろ、石油製品だけが消えたのかどうかは判らない。手摺を留めるボルトが無くなっていたら落下の危険がある。幸い、手摺は今まで通りしっかりと固定されていた。
マコは、手摺に肘を乗せて身を委ね、双眼鏡を覗いた。レイコのもたらした『動物や植物が変化している』ことを、自分でも確認しようと考えたからだ。
「ううん、確かに知らない植物が生えてるね……」
マコもそれほど植物に詳しいわけではないが、登下校などで外に出た時に見ている木々かどうかは、大体判る。さすがに草花までは自信がないが。
「あ、あれは猫だね。元猫、かな」
それほど多くはないものの、この辺りには野良猫がいた。双眼鏡の視界にも、タマと同じような長い毛並みの獣が何頭か確認できた。
「あれは……犬、かな?」
ほかに目立つ動物と言えば、狼を巨大化したような、二メートル前後の獣の歩く姿だ。概ね、人と一緒なので元々飼い犬なのだろうと思われた。
「あの子たちも首輪取れたのかな……」
部屋の中を調べている時、床にタマの首輪が落ちているのを見つけていた。引き千切られた様子もなく、首に掛けられていたそのままの形で。どうも、タマは単に急成長したわけではないらしい。もしもそうなっていたら、タマは首を絞められて窒息死していたろう。そうならなかったことに、マコは心から胸を撫で下ろした。
「あれは……鳩、かな?」
体長五十センチメートルほどの鳥が地面を歩いている。白を基調にして灰色や藍色の混ざった綺麗な羽を持っている。サイズと色味は鳩らしくないが、行動がどことなく鳩っぽい。マコに甘えるタマがタマであると判るような感覚だ。
「それであっちは多分、烏、と」
元烏らしき鳥。こちらは鳩や犬猫と違い、小型化している。体長二十センチメートルほどだろうか。生物たちは単純に大型化したわけではないようだ。
「あれ、何だろう?」
マコの目は、地面で飛び跳ねて移動する、茶色に黄色のラインの混じった身体を持つ耳の長い兎のような獣だ。どこかのアニメで見たような生き物だが、あれも昨日まではごく当たり前に見る動物だったはずだ。他の動物と同じと考えるなら。
しばらくその獣を集中して観察したマコは、その行動から、それが雀であろうと見当を付けた。鳥類が哺乳類──かどうかは判らないが──に変化しているとは思わなかったので、時間が掛かってしまった。
植物の方は、元が何なのか見当もつかない。確か、あの辺りに楪が植えてあって、向こうには松があって……とその程度で終わってしまう。そもそも元の動植物に当てはめることに意味があるかどうかは判らない。
(判れば心構えはできるかな? あたしだって、あの動物がタマだって解らなかったら、まだ震えていたろうし)
未知の動物と遭遇した時、冷静に対応できるかどうか、マコは自問した。
姿形は変わっても、その意識と言うか精神と言うか、それは元の獣と変わっていないことは、タマがマコやレイコに懐いていたことからも確かだと思われた。それに、外の獣たちにしても、しばらく行動を観察していれば元の姿を想像できる程度には昨日までの性質を受け継いでいる。
それでも、今まで良く知っていた動物に対するものと同じ反応ができるかどうか、自信はなかった。
尤も、この変化が永続的なものならば、動物たちの行動も変わっていかざるを得ないだろう。今まで空を飛んでいた翼を失った雀など、その最たるものになる筈だ。
「これってどこまで起こってるのかなぁ」
マコは双眼鏡を目から離して独り言ちた。折り畳み式の倍率の低い双眼鏡では、遠くの様子までは見えないから、この変化がどこまで続いているのか判らない。見えたところで、そんな遠い場所の元の植生を知らないマコに、変化の範囲を見極めることなどできよう筈もないが。
眼下のマンション前の広場には、ぼつぽつと人の塊が見える。この現象について話し合っているのだろうか。他の七棟のマンションの前でも同じ光景を見られるだろう。
ここの地価が安いためか、それともオーナーの趣味か、マコの住む棟を加えた八棟から成るマンションは、知らない人から見たらそれぞれが独立した別個のマンションに見えるだろう。それほどに棟と棟の間は広く空いているし、各棟の形も様々だ。距離が離れているので、他の棟の様子は性能の低いマコの双眼鏡では判らない。この棟と同じように、人の集まっていることが判るくらいだ。
そう言えば、小学生や中学生は学校に行ったのだろうか? 今、マンションの下を見下ろしても集団登校の様子は見えない。時間的にはすでに一時間目が始まっている……いや、もう終わる頃だ。普段通り登校していたとしてもこの辺りには今はいないだろう。授業が無くなって帰って来るなら、そろそろかも知れない。
目から離した双眼鏡を手に持って、下の様子を見るともなしに眺めていると、突然、地面を巨大な影が横切った。
「え!? え!? 何!?」
慌てて頭を上に向けると、巨大な鳥のような物体が高空を悠然と飛んで行く。マコは双眼鏡を目に当ててその飛行物体に向けた。
「ど、竜?」
いや、前肢のないその姿は竜と言うより飛竜と言った方が相応しいだろうか。
体長は二メートル、いや、高度を考えるともっと大きいだろう。五メートルはあるだろうか。翼長はその一・五倍ほど。
「あれも、何かの動物が変化した、の?」
呆然と、小さくなる影を見つめるマコ。それから改めて双眼鏡を目に当てて下の広場を見る。何人かは気付いたらしく、飛竜と思しき生物が飛び去った空を見上げたり、指差したりしている。
「あれだけ目撃者がいるんだから、あたしの幻覚や見間違いじゃないね」
双眼鏡から目を離して、巨大な空飛ぶ爬虫類──かどうかは定かではないが──の消えた空を、マコはしばらく見つめた。
──本当に、あたしの住む世界はどうなってしまったのだろう。これではまるで、あたしの好きなファンタジー小説の世界ではないか。
朝から見た一連の出来事を思い返しながら、マコはそんなことを思った。この状態が続くなら、これからの生活は昨日までとはがらりと変わるだろう。これまでの怠惰な生活を送れなくなる可能性にマコは不安を感じつつも、これからの未知の生活に期待を膨らませた。