1-3.外の状況
玄関からマンションの廊下に出たレイコは、扉の鍵を掛けた。娘が残っているとは言え、いや、だからこそ、戸締りはしっかりとすべきだ。
足下に青味を帯びた白い毛に覆われている獣が懐いている。レイコには正直、この獣がタマだとは思えないが、しかしレイコやマコに甘えるような仕種はタマそのものだ。
「本当、どうなっちゃったのかしらね」
誰にとも無く呟いたレイコは、左隣のお宅を訪問する。まだ七時過ぎという、他人の家を訪ねるにはやや非常識な時間ではあるが、異常事態なのだから仕方がない。
インターホンのボタンを押そうと手を伸ばすが、カバーが無く、内部の回路が剥き出しになっていた。鍵を掛ける時に気付かなかったが、自分の家のインターホンも同じだろう、とレイコはインターホンで隣人を呼ぶことを諦める。
気持ちを改めて、扉を叩く。強く。
「帆原さん、隣の本条です。いらっしゃいますか?」
ノックだけでは聞こえないかもしれない。レイコは可能な限り大きな声で隣人を呼んだ。
しばらく待っていると、扉の奥に人の気配を感じた。鍵を外す音がして扉が開かれる。
「おはようございます」
「おはようございます。朝早くからすみません」
開いた扉から顔を見せたのは、帆原家の夫人だ。その後ろにしがみつくようにして男の子が顔を覗かせている。
「どんなご用……ひっ」
帆原夫人の視線が下がり、彼女は途中まで出し掛けた言葉を打ち切って悲鳴を上げて一歩後退った。後ろの男の子は今にも泣き出しそうな顔になり、声も出せないようだ。(何かあったかしら?)とレイコは足下を見て、猫(?)を連れて来ていることを思い出した。
「あ、驚かせてしまってすみません。大丈夫ですよ、この子、タマですから」
「タ、タマって、本条さんとこの、タマちゃん? こ、こんなに大きかった、かしら?」
震える声を振り絞るようにして、帆原夫人は初めて見る獣を注視する。
「ええ。なんだか、今朝起きたら大きくなっていて。わたしも最初は腰が抜けるほど驚きましたが、間違いなくタマですよ。ほら、わたしにも懐いていますし」
レイコはその場にしゃがむと、タマの頭を撫でた。実のところ、娘のマコほどにはタマのこの変化に慣れておらず、内心ではおっかなびっくりだったが、隣の母子を怯えさせては不味いので、内心の気持ちを表に出さないように抑えつけた。タマは、気持ち良さそうに目を細め、小さく「グワァゥ」と鳴いた。
「ほら、大きくはなりましたけれど、中身は昨日までの大人しいタマのままですよ」
「は、はぁ、そうです、か……」
そうは言ってくれたものの、細く開いた扉をそれ以上は広げてくれそうにない。それでも、閉じてしまわないだけマシな対応だろう。あまり怯えさせても仕方がないので、レイコは聞きたいことを手短に聞くことにした。
「それで、今朝から電気もガスも止まってしまっているようなのですが、帆原さんのお宅はどうですか?」
「あ、ええ、ウチも同じです。まだ来てないですね」
帆原夫人はちらちらとタマを気にしながら言った。レイコは、(仕方ないよね)と思いながらも質問を続けた。
「それに、家の中から色々なものが無くなっているんですが、帆原さんのところではそんなことはありませんか?」
「え? え、ええ、色々なケースが無くなって、中身が散らかってまだ片付けが終わらなくて」
「お宅も同じですか」
「と言うことは本条さんの家も?」
「ええ、炊飯器もガワが無くなっていましたし、細かいところでは冷蔵庫の扉の磁石を保護しているゴムも無くなっていましたね」
「お宅もですか。ウチも同じですね。主人は文句を言っていましたけど、どうしようもありませんし」
「そうですよね。ところで、旦那様は?」
「会社に行きました。テレビもラジオもケータイも使えないので、電車が動いているかも判らないんですが、今日は休めないとか言って……電車が止まっていたら帰ってくると思うのですが」
「そうですか……駅までは自転車で?」
「いいえ、歩きです」
レイコが駅まで自転車を使うと、およそ五分。徒歩なら十五分から二十分ほどだろうか。男性なら、もう少し早いかも知れない。帆原氏が帰って来れば、外の様子も判るかも知れない。それよりは、レイコが自分で確認に出るべきか。
その前にともかく、マンション内でもう少し情報を集めようと考えたレイコは、帆原夫人に礼を言って帆原家を辞した。次は、反対隣の丘辺家へと向かう。けれど自分の家の前を通る時に、エレベーターホールから出て来てレイコとは反対側へと歩く男性の姿を捉えた。その後姿から、エレベーターホールのすぐ向こうに住んでいる芙賀屋氏であることが、レイコには判った。
「芙賀屋さん」
丘辺家を訪れる前に彼から話を聞こうと、レイコは芙賀屋氏を呼び止めた。聞くことは帆原夫人から確認した内容に加え、マンションの外の状況だ。足を止めて振り返った彼も巨大化したタマに少し驚きはしたが、特に恐れる様子もなくレイコの質問に答えてくれた。
「ちょっと周りを見て来ただけですけど、車は一台も走っていませんし、バイクや自転車に乗っている人もいませんね。自転車のタイヤが無くなってたから、バイクや車も同じじゃないかと」
「自転車のタイヤも無くなってたんですか?」
自転車を使って辺りを見て来ようと考えていたレイコは少し驚いた。自転車を使えないとなると、行動範囲が狭くなってしまう。
「ええ。俺も自転車で駅まで行こうと思ったんですが、今日は会社は諦めてマンションの周りを一周だけして帰って来ました。それだけでも、見たことのない動物がちらほら歩いていましたし、植生も変わってましたね」
「植生が変わっている?」
タマを見て恐れなかったのは、すでに他の動物を見ていたからのようだ。もう一つ、彼の発したレイコの知らない情報に、彼女は疑問の声を発した。
「ええ。俺も植物にはそんな詳しくないんですが、生えている木や草が、どうも見覚えのないものばっかりで」
レイコは廊下から外を見た。マンションの八階に届くような巨大な木はないので、手摺に手を掛け、下を見下ろす。しかし、距離が離れている上にレイコも植物に詳しいとは言えず、芙賀屋氏の言葉を確認するには至らなかった。ただ、昨日までよりも全体的に緑が多くなっているようには思える。マンションの裏にある山……というより丘も、昨日よりも緑が濃くなっているようだ。気のせいかもしれないが。
「この距離ではちょっと判りませんね」
レイコは手摺から離れて言った。
「ここ、高いですからね。それじゃ、他に無ければ失礼します。会社に休みの連絡しないと」
「連絡取れるんですか?」
彼の言葉にレイコは反射的に聞いた。何しろ今は、スマートフォンの電源も入らない状態だ。連絡手段があるなら、レイコも会社の従業員たちに連絡を取りたいと思っていた。
「いえ、今のところ方法は無いんですが、何とか探さないと。無断欠勤になっちゃいますからね」
どうやら、芙賀屋氏も連絡手段を持っているわけでは無いようだ。糠喜びしたレイコは彼と別れると、更なる情報を求めて、少し前に素通りした丘辺家を訪ねることにした。
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「ただいま」
八階の家一通りと七階の数軒、それに一階まで降りてマンションの管理人から情報を収集して来たレイコは、さらにマンションの周りを一周してから、娘の待つ家に帰って来た。出会う人の多くがタマを警戒するので、途中でタマを家に置いておこうかと思ったのだが、むしろ今のうちからタマに起きた変化を知っておいてもらった方がいい、と考え直してずっと連れていた。
「はぁ、疲れた」
レイコは居間のソファーに身を投げ出した。普段から何だかんだと歩いているレイコだが、八階の高さの階段での往復は脚にきた。これからはエレベーターの使用を減らそうと思うレイコだった。
「お帰りなさい。はい、お水。温いけど」
部屋から出てきたマコは、レイコの様子を一目見るとすぐに台所に行き、水を貯めておいたコップの一つを、蓋にしているアルミホイルを外してレイコに差し出した。レイコは半分ほどを一気に飲み干した。
「はあ、生き返る。これ、貯めておいたお水?」
「うん。ペットボトルも無くなってたから、コップに貯めといた。それと、お風呂にも半分くらい」
「そう。ありがとう。水道が出ている間は、常に同じくらい貯めておいた方が良さそうね」
「そうだね。余所はどうだった?」
「ああ、それね」
レイコは、見聞きしてきた情報を娘に話した。他の家も同じく電気もガスも止まっており様々なものが無くなっていること、タマだけでなく他の動植物にも変化が見られること、自転車は使えなくなっていること、電車も止まっていること、など。
鉄道の状況は、マンションの周辺を探索中に駅に行って帰って来た人から聞いた。電車だけでなく、駅までの街も、マンションと同じ状況らしい。
「そんなわけだから、今日は学校休みなさい。わたしも仕事休むから」
「それはいいけど……今日で終わるのかな?」
「さあ。明日にならないと判らないわね。はぁ、キヨミ、大丈夫かしら」
「キヨミさん?」
「ええ。他のスタッフも心配だけれど、あの子は特に、環境の変化に弱いから」
狛方キヨミはレイコの大学時代からの友人で、レイコの経営するファッションメーカーを一緒に立ち上げた人物で、デザインを担当している。と言うより、キヨミの非凡な才能に惚れ込んだレイコが彼女のために起業した、と言った方が正しい。デザインに全精力を注ぎ込み、やや浮世離れしたキヨミが成功するには、レイコのような信頼の置けるパートナーが必須だった。レイコにしても、経営のセンスと人を惹きつけるカリスマ性はあっても、モノを創り出す能力は劣っていたから、二人の利害は完全に一致していたと言える。
「キヨミさん、生活力低そうだもんね」
「実際低いのよ。こんなことなら無理にでも近くに住まわせるんだった」
「過去のことを言っても仕方ないよ。それより、あたしも気付いたことがあるんだけど」
「何?」
「多分、他にも気付いた人はいると思うけどね。えっと……」
マコは小さな発見をレイコに話した。