1-2.消え去ったもの
着替えを終えたマコは、まず洗面所に行った。歳頃の女の子としては、身嗜みはしっかりしておかないと。
洗面所で、マコは絶句した。
「な……に……こ……れ……」
惨状が広がっていた。いや、正確には、惨状が片付けられた後、とでも言うべき状況か。
洗面台の棚は消え、割れた鏡が床の片隅に纏められている。棚と一緒に中身も消えたか……と思われたが、そうでもないらしい。歯ブラシやプラスチック製のコップは無くなっているが、残った洗面台を汚している、白いねっちょりした得体の知れないもの、どうも歯磨き粉らしい。チューブが消えて中身だけ取り残された、ように見える。
洗濯物が床に散乱しているのは、それを入れておいた籠が消えたからだろう。バスタオルやフェイスタオルも床に転がっている。
床に纏められたガラス片には、鏡ではない、色のついたガラスも混じっているが、化粧水の瓶だろう。よくよく見れば瓶の形状を維持しているものもある。洗面所の中に頭の痛くなるような芳香が満ちていることからも、それは判る。
ここで顔を洗うのは諦めて、マコは母がいるだろう居間へと行った。いわゆるLDKだ。マコを呼んだと言うことは、自分の部屋でなくここにいるだろう。
居間も同じようなものだった。カーテンが床に落ちている以外は一見昨日と変わらないが、よく見ると、色々な物が消えている。
目立つのはエアコンだ。カバーが無くなり、中身が剥き出しになっている。それにリモコンケースがない。リモコンも、基盤だけになっている。
「マコ、こっち来て」
レイコの声に、マコは居間から食堂の先の台所へと行った。居間と違って、ここは洗面所並に荒れていた。砂糖や塩が棚の上に撒き散らされ、タオル掛けが無くなっている。鍋の持ち手部分が消失し、金属が剥き出しになっている。食器を入れている籠もないし、言われないと気付かないような細かいものも、色々と無くなっているだろう。
食堂の床に、金属製の洗面器に入れられたキャットフードを食べるタマの姿があった。いつの間にかいなくなったと思ったら、先にこっちに来ていたようだ。いつも使っていた猫皿は、なくなっていたのだろう。
「これ、マコのわけがないわよね」
レイコは部屋の中を示すように手を軽く振って言った。
「はふぃ?」
頭に疑問符が増えたマコは、すぐに母の言わんとすることを理解し、ぶんぶんと首を振る。
「そうよねぇ。かと言って泥棒にしては変だし、そもそもこんなこと、人間にできるのかしら」
レイコの言う通りだ。マンションの八階にあるこの部屋から、色々なものの一部のみを一夜にして消し去るなど、人間業ではない。時間を掛ければ可能かも知れないが。しかし、二人が昨夜、床に着く前には何事もなかった。ならば、何やら超常的な現象が起きたとでも考えるしかない。
「それに、電話は電源が入らないし、ガスも来ていないみたいだし、電気も点かないし、テレビも点かないし、何が起きたのかしら」
「電気点かないの?」
マコはそれに気付いていなかった。スマートフォンの電源コードのことを思えば予想して然るべきではあったが。
「ええ。単なる停電ならいいけど、どうもそうじゃないわよね」
母娘は揃って頭をひねった。しかし、そうしていても答えは出ようはずもない。
「こうしていても仕方ないわね。取り敢えずご飯にしましょう」
「ご飯って……」
マコの視線の先には、電気炊飯器の残骸があった。外殻は消失し、外釜やら細々した配線やらが剥き出しになっている。マコの部屋の時計と同じ状態だ。
「仕方ないからこれだけ。スープも欲しいところだけれど、我慢して」
そう言ってレイコが出したのは、焼いていない食パンと蜂蜜の瓶、それに牛乳。
「焼かずに食べるの?」
「仕方ないでしょう。すぐに食べられるものがないんだから。冷蔵庫も止まっちゃってるから、牛乳も傷む前に飲んじゃわないと」
「はぁ、それもそうね」
食パン二枚を載せた皿を受け取ったマコは、何かを感じた。
「レイコちゃん、ちょっと、手、出して」
「何よいきなり」
「いいから」
不審な表情を浮かべつつも、レイコは掌を上にしてマコに差し出した。マコはその上にゆっくりと自分の手を重ねる。
「レイコちゃん、何か感じない?」
二人の掌が二センチメートルほどに近付いた時、マコは確かにレイコの手を覆う薄い膜のようなものを感じた。その先にあるレイコの皮膚も。
「何かって?」
「えっと、なんて言うかな、自分の肌の上にもう一枚透明の肌があるみたいな」
「……そんなことないけど」
「そう……じゃ、いいや」
マコの感じたレイコの見えない“膜”の厚みは一ミリメートルほど。確かに感じるのだが、それを感じられない相手に力説したところで意味はない。そもそも現時点では、この“膜”による影響も判らないのだから、騒ぐだけ無駄だ。
同時に、自分を覆っている“膜”は母よりも厚いらしい、とマコは考えた。それがマコとレイコの感じ方の違いとして現れているのだろう、と。
しかし、考えるのは後にして、ひとまず侘しい朝食を片付ける。
それにしても、本当に侘しい。レイコは、自分で手の込んだ料理を作ることはほとんど無かったが、それでも冷凍食品を駆使して、毎食見た目も美味しい食事をマコに用意してくれた。それが、焼いていない食パンに蜂蜜を塗っただけとは。しかし、文句を言ってはいられない。今は、家にある調理器具をまったく使えない状態なのだから。
蜂蜜を塗った食パンにかぶりついた時、マコはまた違和感に捕らわれた。
「レイコちゃん、このパン、いつもと味違わない?」
「同じよ? わたし、これが一番好きなんだもの」
「うーん、何か違う気がする」
「いつもは焼いているからじゃない?」
「そうかなぁ」
釈然としないながらも、マコは少ない食事を済ませた。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
「歯はきちんと磨きなさいよ」
つましい朝食を終えたマコにレイコが言った。
「でも、歯ブラシ全滅じゃない?」
歯ブラシが消えたと言うことは、買い置きの分も無くなっているだろう。
「歯磨き粉だって、流れちゃってるし」
「塩を指に付けて磨きなさい」
「えーっ」
「文句言わないの。水は出るから」
仕方がない、と諦めたマコが差し出した指に、レイコは塩を乗せる。
「あ、そう言えば、水っていつまで出るかな?」
マコの言葉にレイコは首を傾げた。
「どう言うこと?」
「えっと、確かこのマンションの水って、屋上の貯水タンクにポンプで汲み上げたの使ってるでしょ? ポンプ動かないんじゃない?」
もしもポンプが動かなければ、貯水タンクが空になってしまえば水は出ない。今現在、どれだけの水が残っているだろう。
「そうね……仕方ないわね。まだ捨ててないペットボトルあったわよね。それに水を貯めておいてくれる?」
「え? あたしが?」
「他に誰がいるの?」
「レイコちゃんは?」
「わたしは外の様子を見てくるわ。起きた時はまだ早かったから遠慮したのだけれど、そろそろ大丈夫だろうから」
「早いって、今何時?」
「今は……もうすぐ七時ね」
レイコは左手首に巻いた時計を見て言った。
「腕時計は動いてるの?」
「え? ええ、これは動いているわよ。いつも使ってるデジタルのは電池が切れていたけれど。停電になったからって電池で動くものは動くでしょう?」
「うん、まあそうだけど。部屋の時計、ケースとか色々消えてたから」
「ああ、そう言えば。小さい物は平気なのかしら?」
「さぁ?」
母娘二人、頭を捻るが答えが出ようはずもない。
「考えても仕方がないわね。とにかく外を見てくるから」
「仕事は? あたしも学校あるんだけど」
「とりあえず辺りを確認してすぐ戻るから。お水よろしく。ウチで独占しちゃ不味いから、そうね、ペットボトル五本くらい」
「あ、ちょっと待った。タマ、レイコちゃんについてってあげて。何かあったら守ってね」
マコは、食堂の床で毛繕いをしているタマに言った。タマは頭を上げると、マコを見て、レイコを見て、もう一度マコを見て、グワァゥと鳴いて立ち上がった。
「……タマ、連れて行くの?」
レイコが恐ろしいものを見る目をタマに向けた。ついさっき、自分でタマの朝食も用意していたというのに。
「何が起きているか判らないなら、護衛は必要でしょ。昨日までのタマならともかく、今のタマなら頼りになると思うよ」
「グワァゥ」
マコの言葉に応えるように、タマは鳴いた。
「ほら、タマだってこう言ってるし」
「どう言ってるのよ……まぁ解ったわ。タマ、よろしくね」
「グワァゥ」
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歯を磨いて軽く身嗜みを整えたレイコが外に出た後、マコは言われた通りに水を貯めるためにペットボトルを探した。が、一つも見つからない。ゴミに出すために潰したものすら消えている。仕方がないので、ありったけのコップや茶碗に水を貯め、アルミホイルで蓋をした。ラップは消えていた。中身だけ。
ついでに、風呂にも半分ほど水を張った。一杯にしなかったのは、他の家に悪い気がしたためだ。いつ電力が回復するのか見当も付かない今、水を独占するのは気が引ける。
一息ついたマコは、自分の部屋に戻った。
母に時刻を聞いた時から逆算すると、目が覚めたのはだいたい六時過ぎか。今は午前七時過ぎというところだろう。普段ならそろそろ起きて顔を洗っている頃だ。
早く起きた割には、マコに眠気はない。起きた時から連続する謎現象で、疑問符が一杯のマコの頭には、『眠りたい』という感情の入り込む余地がなかった。
(まずカーテンをどうにかしたいな)
窓際に落ちたカーテンを手に取ると、起き抜けにフックが壊れたと思ったのは、案の定間違いであったことを知る。壊れたのではなく、フックは綺麗さっぱり消えていた。カーテンレールを調べると、ランナーがなくなっている。いや、残ってはいるが、一部の金属部品だけだ。両端のキャップもない。
マコは、机の上に引き出しからクリップを出し──クリップはあった。ケースはなくなっていたが──それをフックの代わりにしてカーテンをカーテンレールの穴に引っ掛けた。開くことはできないので、縛って左右に纏めておく。
「さってと、次は何をしよう」
今度は言葉に出して、マコは次の作業を考えた。