1-1.いつもとどこか違う朝
「ん~、ふぁ~、はぅひぃ~」
変な声を出して、本条マコは身体を起こした。窓から射し込んだ光が部屋に影を落としている。朝だ。けれど、いつもとどこか違う。何が違うのだろう?
マコはベッドに女の子座りして、両手を脚の間につき、自分の部屋の中を見回した。中学生になった頃から暮らしている、見慣れたマンションの一室、自分の部屋。見慣れているのに、色々なものが寝る前と違っている、気がする。何が違うのだろう?
寝ぼけ眼のマコは両手を顔まで持ち上げて、目をくしくしした。それから頬をぱしんっと叩いて脚の間に戻す。少しは覚めた気分で改めて部屋を見回す。どこが変わったのか、一つずつ確認するように。
「あ」
窓から射し込んでいる眩しい朝の光。まずこれがおかしい。目覚まし時計が鳴るか、母に叩き起こされるまで目覚めることのないマコが、どちらにも起こされることなく目を覚ました理由、それは、普段は分厚いカーテンに遮られている朝陽だった。カーテンはどこ行った?
視線を下げると、窓の下に落ちているカーテンが目に映った。フックが壊れたのだろうか? 十何個か二十何個かくらいのフックが一夜の内に全部纏めて? そんなことは確率的に起こるだろうか?
疑問に思ったマコだったが、取り敢えず後回しにし、他の違和感を探して部屋をゆっくりと見回した。
クローゼット、勉強机、本棚、衣装箪笥、壁に掛けた高校の制服、どこも普段と変わらないのに、どこかが違う。何かが足りない?
もう一度部屋を見回し、視線が机の上を捉えた時に、マコは違和感の正体の一つに気が付いた。机の上に置いてあるはずの時計がない。しかし、時計の代わりに何かがあるような……
その前に他の違和感の正体も、と思ってさらに部屋をよく見ようとした時、部屋の扉が勢い良く開いた。
「マコ、起きてる? ちょっとこっち……」
部屋に入って来たのは、母のレイコだった。マコは、レイコと猫のタマの二人と一匹暮らしなので、入って来たのが別の人間ならば色々と問題だが。
レイコは、部屋に一歩入って口にした言葉を途中で区切り、口をぱくぱくさせている。
「レイコちゃん、おはよう。どしたの?」
母の挙動不審な態度に、マコは首を傾げた。レイコは部屋の入口にへたへたと座り込むと、辛うじて片手を持ち上げて、マコを、いや、それより少し下、ベッドの側面あたりを指差した。
「マ、マコ、そ、それ、な、なな、何?」
何って何だ?という表情を浮かべるマコ。ベッドの下に何かある、あるいはいるのだろうか。母からベッドの端に視線を移し、何も見えないので、下を見ようと身体を乗り出した。
「き、気を付けなさい」
気を付けるようなものあったかな?と思いながら、それでもレイコの普段と違う異常な様子に、ベッドの端に向けてそろそろと身を伸ばす。
ベッドの脇から、ふさふさしたものが飛び出た。
「ふぇあっ」
自分でも驚くほどの反射反応を見せて、マコはベッドの反対側に飛び退り、壁に背中をぶつけた。
「い、今の、何?」
動きからすると、毛の生えた生き物の尻尾のようだった。しかし、マコやレイコと同居しているタマは、白黒斑の日本猫だ。あんなに長い毛足ではない。なら、今の何? マコは混乱した。
ベッドの端から毛が持ち上がった。ベッドの下にいる“何か”が立ち上がろうとしている。震え上がったマコは後退ろうとしたが、すでに壁に当たっているのでこれ以上逃げられない。
胸の鼓動が早まっているのを意識しつつも、マコはあわあわとした。
「ま、マコ、に、逃げなさい……」
レイコが喉から搾り出すように声を出すが、掠れたような声にしか聞こえない。腰が抜けてしまったのか、震えるだけで動くこともできないその姿には、新進気鋭のファッションメーカーの社長としての面影など、微塵もない。
しかしマコは、母の様子には気付かない。目の前で立ち上がろうとしている何かにびびって、それどころではない。
そいつが、ゆっくりと立ち上がる。青味を帯びた白く長く艶やかな美しい毛並み。体長は一・五メートルほどあるだろうか。ゆっくりと頭が現れ、顔がマコを向く。目が合った。
「ひぅっ」
マコは身を縮めた。震えながら、頭のどこかで冷静にそいつを観察する。一見、ホワイトライオンのようだが、全身が長い毛に覆われている。その生き物は、前足──四足動物らしい──をベッドにかけると、口を開いた。
グワァゥ
「ぴぃっ」
獣の吠え声に、さらに身を縮こませるマコ。獣がベッドに上ってくる。
「マ、マママ、マコ、に、にに、逃げ……」
娘の危機にレイコは這いずって近寄ろうとするが、這うことすら満足にできない状態で娘を救うことは叶わないだろう。
獣はのっそりとベッドに乗り、マコへと近付いた。マコは震えるばかりで声も出せない。
獣の頭がマコに近付く。もう駄目、レイコちゃん、お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、マコは先に逝きます。親不孝な娘でごめんなさい。
マコは、そしてレイコも、目を閉じる。覚悟を決めたマコだったが、しかしいつまで経っても痛みはやって来ない。代わりに、首筋や頬に擦り付けられるともふもふとした心地いい感触。モフラーの気持ちがちょっと解る。……じゃなくて。
マコは恐る恐る、ゆっくりと目を開いた。目の前には青味を帯びた白い毛並み。その美しい毛に覆われた獣は、目を閉じて頭をマコに擦り付けている。どうやら、マコを朝食にする気は無いようだ。
獣に害意がないと見て取ったマコは、おっかなびっくりしながら獣の頭を撫でた。獣はうっそりと細く目を開けてマコを見ると、また目を閉じて頭を擦り付ける。
「あふ。あん。やめてっ。擽ったいてば。あふん。もう。タマ、やめて。……ん?」
マコは自分に懐いているように見える見知らぬ獣をじっと見た。撫でる手を止めたのが不満なのか、獣は目を開けて上目遣いにマコを見る。
「……あなた、もしかして、タマ?」
「グワァゥ」
獣は吠えて、マコに甘えるように身体を擦り寄せる。首の下に手を潜らせて撫でると、ゴロゴロと喉を鳴らして喜んでいる。
「タマ、なのね。どうしたの? 一晩でこんなに育っちゃって」
少し前に感じていた恐怖心は、すっかり無くなっていた。タマがあたしに悪いことするなんてないもんね。
「マコ……大丈夫なの?」
床に這いつくばっているレイコがこわごわと聞いた。
「大丈夫だよ、レイコちゃん。この子、タマだから」
「タマって、そんなに大きかった?」
普通の日本猫はここまで大きくならないだろう。
「解らないけど、何かあったんだよ、昨夜。それでタマもおっきくなったんじゃないかな?」
「そんな簡単に……でも、そうね、そうかも。それよりマコ、ちょっとこっち来てくれる? 大変なのよ」
レイコは柱に掴まって何とか立ち上がろうとしながら言った。
「何かあったの? ううん、何があったの?」
「それが良く解らないから、マコにも見て欲しいの」
「? 判んないけど解った。すぐ行く」
大きくなったタマから何とか離れ、ベッドを下りるマコ。
「来る前に着替えなさい」
辛うじて立ち上がったレイコが言った。
「いいよ、後で」
「駄目よ。家の中でもそんな格好で歩き回っちゃ」
母の言葉に下を見ると、開いたパジャマの前から素肌が見えた。
「ほひぇ?」
ボタンが無い。一つも。違和感の正体の一つはこれか。
「慌てなくていいから、きちんと着替えてから来なさい」
レイコは壁を伝いながら、よたよたと歩いて行った。
マコは、レイコちゃん大丈夫かなぁ、と思いつつも服を着替え始めた。
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服も、いくつかなくなっていた。残っている服にしても、ボタンやファスナーが消えているものがある。あとで無くなっているもののリストを作る必要があるかもしれない。
服を着る前に時間を確認しようとスマートフォンを持ったマコは、眉を顰めた。ソフトビニール製のカバーが消えている。それくらいはいい。電源が入らない。いくらボタンを押しても画面は黒いまま。マコはスマートフォンを諦めた。
それに、スマートフォンに充電していた電源ケーブルも無くなっていた。いや、正確には無くなっていない。しかし、マコが見つけたそれは被覆材を失った剥き出しの銅線だった。
無くなったと思った時計も同じ状態だった。時計の形は無くなっているが、中の一部の部品だけ残り、机の上に転がっている。
服を着る時、また別の違和感に気付いた。服が身体に密着していないような、服を着る前にすでに何かを着ているような、不思議な感覚。まるで、目に見えない全身タイツを身に着けているかのようだ。夜に起きた“なにか”は、部屋の中の物質だけでなくマコの身体にも起きたらしい。
しかし考えてみれば、それは当然だろう。何しろ、日本猫が一夜で大きく成長した、と言うより、まったく別の生物に変わっていたのだから、自分の身に何かが起きていてもおかしくはない。
そもそも、タマは一体何になったのだろう? あんな綺麗な毛を持った四足動物など、マコは知らなかった。尤も、自分の動物に関する知識が乏しいことを自覚しているマコには、タマが既知の動物に変身したのか未知の動物に進化したのか、皆目見当もつかないが。
数々の『?』がマコの頭に浮かんだが、部屋にいるだけでは消えそうにない。このままでは、脳味噌が『?』で埋め尽くされてしまう。『?』を消去するには、今は行動すべきだろう。部屋で考えているだけで解決はしないだろうから。
考えることを横に置いたマコは、まず部屋を出るという行動を起こした。大きくなったタマがマコの足にまとわりつくようについて来た。
マコが母を「レイコちゃん」と呼ぶのは、レイコがそう呼ぶように躾けたためです。