15-5.猛獣の噂
マンションの敷地を出た自動車は、かつて無法者たちに襲撃されたコミュニティを抜けると、少し速度を上げた。もっとも、アスファルトの消えた道路は高速走行に向いていないので、自衛官たちの目測で時速四十キロメートル前後に抑えられている。
マモルが他の自衛官にも相談して選んだルートは、なるべく広い幹線道路を使っている。ただし、大きな橋はできるだけ避けている。
普通なら、一年程度放置したからといって崩れるほどには傷まないが、何しろアスファルトが消えている。石油由来以外の物質も消えていないとは言い切れないので、橋が本当に無事かどうかは判らない。そのため、広い川を渡る必要のある場所以外は、橋を避けることにした。
住宅街を通る時は、速度を落とした。自動車の存在を知らない人が突然飛び出して来るかも知れない。安全第一だ。
マコの計画している移動魔法教室を本格的に行うことになったら、一つ一つのコミュニティに立ち寄って魔法教室を開くことになるだろうが、今回はマコの帰郷も目的の一つなので、基本的に通過だ。休憩も、人に集まられても困るので、コミュニティから外れた場所でとる計画にしている。
「人が少ない、のかな」
コミュニティを一つ過ぎてから、半分幌に隠れている後席から身を乗り出して外を見ていたマコが言った。
「実際、今の日本の人口は結構減っているらしい。きちんと調べたわけじゃないが、都市部ほど減少が顕著なようだ」
「うん、レイコちゃんからも聞いた。やっぱり食料が少ないのかな」
なんでもないようにマコは言ったものの、その声は少し沈んでいた。マモルはマコを安心させるように肩を抱いた。
「そうだろうな。現地調達できないとなかなかね。マコのマンションは奇跡的だよ。周辺の小さいコミュニティも含めて、あれだけの人数が最初から秩序を保って生活しているんだから」
「うん。レイコちゃんが最初からみんなをまとめたからね」
人々が世界の変化を受け入れて、協力して新しい生活基盤を作っていけば、レイコがいなくともマンションはまとまっただろう。しかし、それを速やかに行えたのは偏にレイコの功績だ。魔法が広まることでさらに人々の生活は楽になったが、それだけではコミュニティの生活は成り立たない。
(そう考えると、急いで魔法を広める必要はないのかな。使えるに越したことはないけど、慌てて失敗したりしないように、気を付けた方がいいね)
大切なのは魔法よりも、人がまとまり協力して生活を続けることだよね、と、マンション以外の現状を改めて聞いたマコは思った。
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しばらくは、コミュニティを貫通する道を通る時に人目を集めた程度で、旅程は順調だった。しかし、陸橋を避けて通った道路で、道路を封鎖していた自衛隊によって足を止められた。高さ二メートルほどの柵が、左右にずっと続いている。自衛隊の備品だろうか、金属製だ。
「これは……動く自動車があるんですか。あ、いや、すみません、この先は危険ですので、引き返してください」
警備をしていた自衛官は最初、自動車に驚いたものの、すぐに職務に戻った。コミュニティで警護をしている時は隊服を着用しているマモルとシュリとスエノは、この小旅行の間は私服姿だ。面識のないマモルたちを同僚とは気付かないようで、民間人に対する態度で接した。
「危険って、何かあったんですか?」
途中で運転を代わっていたシュリが、警備の自衛官に聞いた。
「ご存知ありませんか? この先は猛獣が蔓延っているんです。民間人に犠牲者も出ていますし、自衛官にも怪我人が出ています。今は人の居住区域に入り込まないよう、こうして警備しています」
彼の答えを聞いたシュリは、スエノとマモルと目を見交わしてから、自衛官を振り返った。
「自分は澁皮一尉です。この二人は矢樹原二尉と四季嶋二尉。もう一人は民間人です」
シュリが敬礼しつつ名乗ると、自衛官も姿勢を正して敬礼した。
「失礼しました。自分はここの警備小隊を率いている伍関二尉であります」
マモルとスエノも敬礼し、全員が手を下ろしてからシュリが降車し、自衛官と話を進めた。スエノが助手席から運転席に移動する。
「それで、猛獣とはどのようなものでしょう? 確かにその報告はありましたが、防衛線を引くほどとは聞いていませんでしたが」
マコは後席から身を乗り出して、会話を聞き漏らすまいとする。シュリの言葉から、猛獣がいること自体は知っていたんだな、と思う。
「以前から猛獣が徘徊はしていたのですが、この二ヶ月ほどでかなり増えました。小さな個体が多いので、それまで巣穴で育てていた仔が外に出るようになったのだと考えられています」
その言葉に、マコはごくりと息を呑む。思い浮かぶのはもちろん、マンションで発生したツノウサギの大量発生だ。あの時は小型の草食動物だったから住民たちが協力して凌げたし死者も出なかったが、大型の肉食動物が同じように増えていたら、被害が甚大になっていたことは想像に難くない。
護衛の三人も同じことを考えたのだろう、表情が一気に厳しくなる。
「それはどの程度の規模ですか? ここの部隊だけで対処可能な数ですか?」
「いくつかの群がありますが、十頭から二十頭ほど、確認できているだけで六つの群があります。あと二つあったのですが、それは駆除しました」
「と言うことは、基本的に群単位で行動しているわけですね」
「はい」
四人は少し胸を撫で下ろす。その程度の数であれば、集団毎ならここの自衛隊の数でも十分対応できるだろうし、そうでなくてもマコがいれば対処は可能だ。護衛対象が最大戦力というのも皮肉な話だが、自衛官の三人は対人の護衛なので、ある意味役割分担ができている、とも言える。
「猛獣とは、どのような種類ですか?」
「大型のライオンのような肉食獣が一番危険です。元のネコが変化した動物はご存知ですか?」
「ええ」
「それをふた回りほど大きくした動物です。元のネコは体毛が白系統ですが、ここの猛獣は黄色ないし赤系統の体毛です」
それならネコ科の動物かな? 動物園のライオンやトラかも知れないな、とマコはその姿を想像する。
「『一番』危険、と言うことは、他にも?」
「はい。元々、近くに動物園があったので、そこから逃げ出したようで、何種類かの動物が確認されています」
それを聞いて、マコはその様子を想像する。
異変が起きたのは深夜、朝になっても出勤できた職員は少ないだろう。そうなれば、動物たちに餌も与えられない。そもそも物流が止まって、餌を仕入れることもできない。飼い慣らされた動物たちは、しばらくは大人しくしていただろうが、飢えと渇きに耐え切れず、檻から出た肉食動物が草食動物を襲い、暴れ回る。
そう言う時は殺処分されることもあるのだろうが、少ない職員でその判断ができず、その間に園の柵も破られ、草食動物は逃走し、肉食動物は獲物を求めて近くの森や山で狩を始める。
想像通りのことが起きたのかは判らないものの、近いことは起きたのだろうとマコはぶるっと身を震わせる。マモルが安心させるように優しく肩を抱き、マコは夫を見て、大丈夫、と視線だけで答える。
「解りました。マコさん」
シュリはマコを振り返った。
「はい」
「お聞きいただいたと思いますが、この先は危険があるようです。自分としては、ルートの変更を提案します」
マコは少しだけ考えてから唇を開いた。
「いえ、二十頭程度の群ならどうとでもなりますし、別のルートが安全とは限りませんし、それなら危険の種類の判っているこのルートの方がマシですし、このまま進みましょう」
「何を言っているんですかっ」
「ひうっ」
マコの言葉に強い反応を示したのは伍関二尉だ。マコはびくっと身体を震わせた。
「犠牲者が出るほど危険なんですよっ。わずか四人、いえ、自衛官三人だけで通過するのは無謀ですっ。見たところ、武装もないじゃありませんかっ」
「あ、えっとですね、それくらいの数なら魔法でどうにでもなるというか……」
相手の剣幕にたじろぐマコをシュリが視線で宥め、返事を引き継いだ。
「彼女の言う通り、問題はありません。彼女は強力な魔法使いですから猛獣の三十頭や四十頭はものともしませんし、我々も、武装は拳銃が三丁のみですが、多少の魔法を使えますので対応は十分可能です」
「いや、しかしですね……」
上官ではないものの、階級が上のシュリに言われて、伍関二尉は口籠ったものの、すぐに続けた。
「しかし、安全を完全には保障できない以上、民間人を通すことはできません」
マコは、世界が変わっても忠実に職務を全うしようとする自衛官って偉いな、などと思っていた。マコの知る自衛隊は、今のところ皆、復興や民間人の安全のために身体を張っている。彼らがいなければ、マンションも今ほどの秩序を保ってはいられなかっただろう。
マコがそんなことを考えている間に、何か思いを巡らす風だったシュリも考えをまとめたらしい。
「伍関二尉、少し話をさせてください。それと、ここで一旦休憩したいのですが、構いませんか?」
「は? はい、構いませんが」
シュリは自動車を振り返った。
「矢樹原二尉、自動車を邪魔にならない場所へ移動、小休止を取るように。自分は伍関二尉とこの先の相談をします」
「はっ」
マモルとスエノは敬礼した。
シュリは、伍関二尉と共に、傍に張られた天幕へと歩いて行く。
「通してもらえるかな?」
マコがマモルに言った。
「大丈夫じゃないかな」
「駄目でも、瞬間移動で柵を抜けて突破しちゃえばいいけどね」
「マコさん、それは最終手段でお願いしますね。ここの自衛隊と事を構えたくはありませんから」
運転席からスエノがちらっと振り返って言った。その目は悪戯っぽい笑みを湛えているので、マコの案もありだと考えているに違いない。
「はい、解ってます。できれば、目の届かない場所に離れてからがいいですよね」
マコも、すでにそれが決定事項であるかのように、笑って答えた。