2-1.キヨミパニック
異変の起きた時、狛方キヨミはデザイン帳に向かって色鉛筆を走らせていた。
「え……停電?」
突然、すべての光が消え、手元もまともに見えなくなる。しばらく経てば回復するかと思い、今描いていたデザインのことを考えながら待つものの、いつまで経っても電力の回復する兆しは見えない。
暗闇に慣れて来た目を頼りに、懐中電灯を探す。1Kの狭い部屋だ。すぐに見つかった。親友のレイコには『売れっ子のファッションデザイナーなのだから、もっと広い部屋に住みなさい』と言われていたが、こんな時には狭い部屋の方がいい。私ってレイコと違って先見の明があるよね、などと思いながらスイッチを入れる。
……入れられなかった。
「え? あれ?」
安物の懐中電灯は、プラスチック製の外殻とスイッチが消えて、中身の安っぽい骨組みと電池が剥き出しだ。良く見ようとキヨミが目を凝らした時、手に余計な力が加わったのか、電池がぽんっと骨組みの外に弾け飛んでしまった。
呆気に取られたキヨミは暫し硬直していたが、気を取り直して部屋のカーテンを開けた。半月の光が部屋に注ぎ込む。
「壊れた……安物だからいいけど、あり得ない壊れ方……」
キヨミはまじまじと壊れた懐中電灯を観察した。が、やがて興味を失い、それを纏めてゴミ箱に捨てると、改めてデザイン帳に向き直った。
しかし、闇に慣れたとは言っても人の目では月明かりだけの作業に限界がある。
「仕方ない、今日はやめとこ」
キヨミはデザイン帳を閉じると、ベッドに身を投げ出した。
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キヨミが異変に気付いたのは、夜が明けてしばらく経った後だった。
「んふぅん、朝か……お風呂入らないと、レイコに怒られる……」
大学に入学した頃は、親元から離れたのをいいことに、週に一度しか風呂を使わなかった。自分では気付かなかったが、入浴してから四日も経つと、変な臭いを発していたらしい。しかし、他人の目など気にしないキヨミは、入浴習慣を改めることはなかった。臭うと言っても近付かなければ判らないし、他人に迷惑をかけるわけでもないし、何より、入浴に時間を使うくらいなら服のデザインを考え、紙に鉛筆を走らせていた方がずっといい。
それを改めさせたのは、大学に入学して半年ほど経ってから知り合ったレイコだ。キヨミのデザインセンスに惚れ込んだレイコは何かとキヨミに話し掛けてくるようになり、親友と呼べる間柄になり、さらには大学卒業後に、キヨミを専属デザイナーとするファッションメーカーを立ち上げてしまった。
そのレイコに、大学在学中に言われたものだ。
『キヨミ、あんたねぇ、お風呂には毎日入りなさい。デザインだけじゃなくて自分で縫製もするんでしょ? お風呂に入ってない体臭や手脂で汚れた服を他の人に着せる気? そもそも、手脂のこびり付いた服を「自分の作品だ」って納得できるわけ?』
そう言われて以来、嫌いだった風呂に毎日入るようになった。夜ではなく朝なのは、夜はデザインにのめり込んでいつの間にか寝てしまうためと、身体を清めるならできるだけ仕事の直前がいい、と、これはレイコの助言ではなく自分で考えたためだ。
それからそれなりの年月が経っているにもかかわらず、相変わらず風呂嫌いのキヨミだが、朝の入浴は今も欠かさない。しかし、この日はそれができなかった。
「給湯入らない。なんで? あれ? 水も出ない。なんで?」
慌ててはいけない、と深呼吸し、昨夜のことを思い出す。
(そう言えば停電してたっけ。断水もしたのかな。まだ復帰してないの? どうしよう。お風呂入らないと、レイコに嫌われちゃう)
軽くパニックに陥るキヨミ。しかし、今日中に入浴すればいい、となんとか心を落ち着ける。
(お風呂は後にして……まずはご飯。え、何これ、飲み物が無い……)
冷蔵庫を開けた途端に流れ出す液体。ペットボトル入りの清涼飲料水が無くなっていた。開けた扉から流れた液体が、それだったのだろう。
「いいや、いつもの飴で。あとはパンがあるから……え」
大量の買い置きの菓子パンは、袋が無く剥き出しだった。キヨミは困惑したものの、自分の好きなこと以外はあまり深く考えない性格のため、余計な詮索を止めた。剥き出しのパンを適当に籠に入れ、散らばっていたハッカ飴を深皿に入れて、仕事机傍の小机に置く。
「昨日の服、仕上げよっと」
時々パンを齧り、飴を舐めながら、キヨミは色鉛筆を走らせた。
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気付いたのは、暗くなって描いている線が見難くなったからだ。
「もう夜……まだ停電終わらないのかな……今日はレイコ、来なかった……何かあったのかな……あ、そうだ、お風呂……」
デザイン帳を閉じたキヨミは、浴室に向かった。そこで彼女は、絶望の淵へと落ちてゆくことになる。
「え? 水もまだ来てない、の? お風呂、入れない……ど、どうしよう。毎日入るってレイコと約束したのに……どうしよう……レイコに嫌われちゃう……もしかして、それで今日は来てくれないの? 私、レイコに嫌われちゃった? どうしよう、レイコに嫌われたら、私、どうすればいいの? レイコ、教えてよ……」
パニックに陥るキヨミ。
キヨミは別に、レイコに絶対服従と言うわけではない。もっと広い部屋を紹介してくれた時も、狭い方が落ち着くからと1Kのこのアパートに住むことにしたし、レイコが娘のマコと今のマンションに越した時にも同じ条件で近くに部屋があるからと引越しを促されたが、会社に近いここの方がいい、と固辞した。あまり出社することのないキヨミだが、時たま、縫製のために会社のミシンを使うことがあるからだ。
しかしキヨミは、友人と交わした約束は絶対に違えることが無かった。もしも約束を自分から破るなら、その友人との信頼関係を失う覚悟で臨んだ。結果、キヨミには友人がほとんどいなくなった。自分から約束を破ったことはないが、他人に約束を守ること──それこそ待ち合わせの時間をほんの少しでも遅れてはいけない程度のことでも──を必要以上に求めた結果、キヨミからは人が離れていった。レイコは、大学時代から続いている唯一のキヨミの友人であり、彼女の初めての親友と言って良かった。
そのレイコとの約束──毎日入浴すること──を反故にするということは、キヨミにとっては唯一の親友を失うことに直結した。何人もの友人が離れて行くことを経験していたキヨミだが、“親友”を失うことは耐え難かった。
実のところ、入浴の習慣は、レイコにしてみれば提案しただけであり約束と言う意識はなく、言われたキヨミが親友のこの提案を必ず守る、親友との約束だ、と自分の思い込みで絶対の約束へと昇華しただけだったのだが。
それでも、レイコとの約束を破り絶交を言い渡されることに、キヨミは恐怖した。
「ど、どどとどど、どうしよう……お風呂入らないと、レイコに嫌われちゃう……そ、そうだ、お風呂屋さんに行けば……」
不特定多数の知らない人々の中に裸で入ってゆくという行為は、キヨミにとって途方も無く高い壁だった。しかし、それよりも親友の信頼を裏切ることの方が怖かった。
キヨミは部屋着を脱いで外出着に着替え(これもレイコから言われたことだ。部屋着のまま外に出るな、と)、玄関の扉を開けた。
外は闇に包まれていた。
「ど、どうしよう……これじゃ、外に出れない……」
暗いだけで無く、何となく拒絶されるような圧力を、キヨミは闇から感じた。思わず後退りし、扉を閉める。
「どうしよう……どうしよう……」
キヨミはベッドに上り、毛布を被った。レイコから三行半を突きつけられる恐れと、闇から感じた恐怖に挟まれて、心が押し潰されそうだった。
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玄関の扉が強く叩かれたが、その音はキヨミの耳には届かなかった。
「キヨミ、開けて、いないの? 開けるわよ!」
鍵の開く音がして扉が開いても、キヨミは毛布に包まったまま、ぶつぶつと何かを呟いていた。
「ちょっとキヨミ、どうしたのっ!?」
「キヨミさんっ、しっかりしてっ」
部屋に入って来たレイコとマコの母娘がベッドに直行し、キヨミの肩を掴んで身体を揺すった。
「……レイコに嫌われる……やだ……捨てないで……レイコ……」
キヨミは戻って来ない。自分の世界に嵌り込んで抜けて来ない。
「マコ、ちょっとだけ離れて」
「え? うん」
マコがキヨミの身体から手を離すと、レイコはキヨミが頭に被っている毛布を引き剥がした。
「キヨミ、しっかりしなさいっ」
ぱしっとキヨミの左頬を軽く叩く。
「キヨミ、わたしよ、しっかりして」
キヨミの瞳に、徐々に光が戻ってくる。
「レ……イコ?」
「そうよ、レイコよ、判る? 判るわね?」
「レイコ……レイコぉ~」
キヨミはひしっとレイコに抱き着くと、おいおいと泣き出した。息を詰めて成り行きを見守っていたマコも、ほっと息を吐いた。
「レイコぉ、ごめんなざいぃ、ぎらわないでぇ、ずでないでぇ」
「大丈夫、わたしがキヨミを捨てるわけないでしょ。何があったか知らないけど、そんな心配はしなくていいのよ」
わけが解らないながらも、レイコは泣きじゃくる親友を優しく抱き、彼女が落ち着くまで頭を撫でた。
その隣でマコは二人を優しく見つめ、床ではタマが暇そうに欠伸した。




