1-10.明日に向けて
「マコ、起きなさい……」
夜が明けて間も無い頃。娘を起こすためにマコの部屋の扉を開けたレイコは、言葉を失った。マコはすでに起きていた。……のだが、ベッドの上で脚を組み、軽く開いた両手の甲を膝の上に載せて背筋を伸ばし、目を閉じて静かに息を吐いていた。
「……マコ、何してるの?」
レイコは恐る恐る聞いた。マコはゆっくりと目を開いた。
「あ、レイコちゃん、おはよう」
手を膝から退けて組んでいた脚を崩す。
「おはよう。何やってたの?」
「んーと、精神集中?」
マコは首を傾げて答えた。
「自分でやっててなんでわたしに聞くの。精神集中? どうしてそんなこと始めたわけ? 今までそんなのやったことないわよね」
服を着替え始めたマコに、レイコも普段の調子を取り戻してきた。
「えーっとね、魔法を使うとかなり集中力使うのよ。それで、毎日精神集中したら、少しは集中力が付くかなって」
「つまりは、魔法を上手く使うためってこと?」
「うん」
「効果あるの?」
「まだわかんないよ。今日から始めたばっかりだもん」
「それもそうか。なら、先ずは続けていくことね」
「解ってるって。自分から始めたんだから」
マコはにへらっと笑った。
「じゃ、わたしは水を汲んでくるから、マコは朝食をお願い」
「水汲みあたしじゃなくていいの?」
「わたしは火を使えないから、朝はわたしが汲んでくるわ。その代わり、昼間の水汲みはお願いね。今日も打ち合わせに行ってくるから」
「うん、解った」
パジャマから部屋着に着替えたマコは、台所へと行った。
「何にしようかな」
とは言え、袋の無くなったインスタント食品と融けた冷凍食品くらいしかない。傷みの早そうな冷凍食品を優先して調理することにする。モノによっては電子レンジ前提の物もあるが、フライパンでもそれなりに調理できるだろう。
冷蔵庫の冷凍室を開けて中を漁る。
「これにしよっかな」
冷凍春巻と冷凍コロッケ、それに冷凍ほうれん草を選んで皿に取り、フライパンに載せ替えて昨日と同じように火を起こし、温めてゆく。昨日だけですでに三回の調理を経験している。慣れたもので、それほど掛からずに調理は終わった。
「ただいま。はぁ、八階から下まで荷物を持って往復するのはしんどいわね」
ほどなく、レイコも帰って来た。肩に提げたエコバックを食堂のテーブルにそっと下ろす。中はステンレス製の水筒だ。二百五十ミリリットルのものが四本、五百ミリリットルと七百五十ミリリットルのものが一本ずつ。プラスチック製の口の一部は無くなっているから、下手に傾けると零れてしまう。マコは昨日の昼間、八階に運ぶまでの間に小さい水筒二本の水を零してしまった。二度目はそれに気を付けて上手く運ぶことができた。
「はい、タマもレイコちゃんの護衛ご苦労様」
マコは、すっかりタマの餌箱になった洗面器にキャットフードを入れた。
「グワァゥ」
タマは嬉しそうに朝食にありつく。
「レイコちゃん、次のご飯でキャットフード終わっちゃうよ」
「ええ。今日は何人かホームセンターに行くから、頼んでおくわ」
「ふうん。レイコちゃんは?」
「わたしは今日は交番や消防を回って協力を取り付けてくる」
「協力って?」
「そう遠くない内に裏山に調査に入るから、護衛役をやってもらおうと思って」
「ああ、一昨日の紙にあった奴ね。協力してくれるかな?」
「してもらうわよ。特に警察にはね。このマンションに狩猟免許持ってる人いないし、他の棟にもいないみたいだし、野生動物がどんな生き物に変わっているかも判らないし」
裏山と呼んでいるマンションの裏にある丘には、リスやイノシシ、イタチ、フクロウなど、何種類かの野生動物が生息している。猫がホワイトライオンのような生物に変化したように、野生動物も変わっていることだろう。その中に入って行くのに、注意しすぎると言うことはない。
「でもさ、それ、今から必要かな? 農家にも協力してもらうんでしょ?」
「甘いわよ。ここら辺りの農家だけじゃ、全部集めたってマンションひと棟すら食べていけないわよ。地方からの流通品や輸入品がなければ、すぐに干上がっちゃうわ」
「そうか。言われてみれば、そうよね」
「そうならない内に、やれること何でもやっておかないと」
多分、この現象が起きて一番危機感を持っているのはレイコちゃんだろうな、とマコは思った。今日でまだ四日目なのに、いや、こうなった当日から積極的に行動し、マンションの他の住民も巻き込んでいる。レイコが動いていなければ、まだ誰も行動に移っていないか、行動していたとしても、こんなに早く組織だって動くことはなかっただろう。
「それから、明日は出掛けてくるから、留守番はお願いね」
「え? どこ行くの?」
突然のことにマコは驚いた。いったい今、出掛けなければならないどんな理由があるのだろう。しかもマコに留守番を頼むと言うことは、明日の内に帰って来ない可能性もあると言うことだ。
「キヨミのことがやっぱり心配で。様子を見てくるわ。必要ならここに連れて来る」
「キヨミさんを? 何十キロあると思ってるの?」
「何十キロもないわよ。精々二十キロ弱ってところかな」
「それだって、途中がどうなってるか判んないよ」
「危険は承知の上よ」
マコは母の目を見た。周りの反対を押し切ってマコを産み育て、細腕一本で会社を立ち上げ、社員を引っ張って来た、意思の強い目だ。マコにはレイコを引き止める言葉を見つけられなかった。
「解った。じゃ、あたしも用意しておくね」
「用意って?」
「キヨミさんの様子を見に行くんでしょ。レイコちゃん一人じゃ心配……ううん、あたし今、レイコちゃんと離れ離れにはなりたくないから、一緒に行くよ」
「マコ、大丈夫よ。キヨミがどんな状態でも、わたしは帰ってくるから」
「嫌だよ。いつでも連絡取れるような状況じゃないんだもん、一緒に行くよ」
レイコはマコの真っ直ぐな瞳をしばらく見つめ、それからふっと息を吐いた。
「仕方ないわね。解ったわ、一緒に行きましょう」
「うん。タマも連れてくよ」
「そうね。マコが心配だからおいていくつもりだったけれど、二人とも行くならその方がいいわね」
マコの要望を、レイコは呑むことにした。マコを連れて行くことに不安はあったものの、一人で家に置いておくことも心配していた。同じように心配するなら、その種は近くにあった方がいい。それに、家に引き籠ってばかりいるより、たまには外に出た方が健康のためにもいいだろう。
小旅行の準備をマコに任せて、レイコは出掛けることにした。これから先の生活の相談に加え、二~三日の間、留守にすることを、マンションの住民たちに伝えておかねばならない。何しろ今や、このマンションはレイコの指導力で纏められているのだから。
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翌日の支度を簡単に済ませたマコは、早速魔法の練習を始めた。昨日は魔力の操作訓練のほかに、魔法で水を出そうと試行錯誤した。水を自由に出せれば、わざわざ下まで汲みに行く必要も無くなるし、今よりももっと自由に使えるようになる。けれど、炎や光はある程度の努力で出すことができたのに、どんなに意識を集中しても、一滴の水も精製することができなかった。
「なんで光や火は出るのに水は出ないのかなぁ?」
マコは異世界ノートを読み返しながら考える。
「魔法は魔力を別のもの、火や光に変えることで実現しているわけでしょ。想像だけど。なら、魔力を水に変えればいいだけだよね。なのにできない。何が違うか」
ノートを開いたまま机に置き、頭の後ろで手を組んで考えを巡らせるマコ。額の辺りの魔力を伸ばし、『?』の形に操作する。これも魔力操作の訓練の一環だ。
(水とは何か。水。H₂O。水素原子二個と酸素原子一個の結び付いた分子。うーん)
額の上に、ぽわんぽわんと疑問符が増えて行く。尤も、魔力は目に見えないので、外から見ても単にマコが悩んでいるようにしか見えないが。そもそも、見る人すらいない。
(光。光とは。波だっけ。あれ? 光子って言うのもあったよね。光子って原子? あれれ? 粒子みたいな性質を持っているだけで、粒子そのものじゃないんだっけ?)
ほんの数日前ならスマートフォンで検索に掛けたところだが、今はその手段は使えない。考えても解らず、調べる手段もないので、マコは次に進むことにした。
(炎とは。物が燃えた時に発生する稲穂みたいな形のもの。なんかの気体と酸素が結合する時に発生する。ってことはあれも分子? ん? そうか?)
マコの頭はこんがらがり、額に生えた多数の疑問符もこんがらがった。
こんがらがった疑問符が一つに混じり合い、そして大きな『!』に変わる。
「そっか! 物質にはならないけど現象には変わるんだ!」
まだ仮定の段階ではあるが、マコはその閃きを異世界ノートに書き込んだ。
[仮説]
・魔力は分子や原子といった「物」には変えられない。
・魔力は光や炎などの「現象」には変わる。
少し考えて、さらに書き加える。
・魔力を変えられるものは、「エネルギー」?
「よしっ。じゃ、熱くしてみよう!」
マコは人差し指を突き出すと、指先に魔力を集めた。
「上手くいくかな?」
そこに向けて、さらに意識を集中する。初めてのことなので慎重に。
明日、出掛けるまでは、まだまだ時間がある。