壮年の男
翁の住む山奥に、ある日1人の来客があった。
「あんたかい?どんな願いも叶えられる爺さんって言うのは」
何をするわけでもなく寒空の下で縁側に座る翁に、そう声をかけたのは、逞しい身体を持った壮年の男だった。
「ああ、それはわしのことじゃな。では、願いを聞こう」
「いや、その前に少し話がしたい」
「ほう?わしと話とな」
「ああ、あんたが来る奴を追い返してばかりだからな。本当はあんたに願いを叶える力なんてないなんて噂もあるもんでな」
「仕方がないのぅ。わしの力見せよう。『百聞は一見にしかず』と言うやつじゃ、とやかく言うよりも早かろう」
翁がそう言うと、雪の積もった木々に緑の葉が生い茂り、雪原は草原へと姿を変えた。そして、冬眠中であるはずの何千という動物達が翁の家の周りをぐるりと囲んだ。
「ほう、すごいな。まさか本物だったとは」
「それで、お主の願いはなんじゃ?」
「せっかくこんな山奥に来たんだ。もう少しゆっくりさせてくれよ」
「力の証明の次はなんじゃ?」
「あんたに本当に力があっても、人を追い返しているのは事実だからな。1つ聞いておきたいんだ。あんたの思う真の願いってなんだ?」
「そんなの決まっておるわ。『何も願わないこと』じゃよ。願いと言うものは自分で叶えるものじゃ、他人に頼って叶えたいと思った瞬間にその願いは真の願いにはなれないのじゃよ。それなのにここに来る者達は、あれが欲しい、これが欲しいと馬鹿のように口にする。まったく呆れるばかりじゃよ」
「ふっ、ははは。爺さん、あんたそれ本気で言ってるのかい?」
「何がおかしい」
「だってよ、『叶えたい願いはなんだ?』って問いに『何も願わないことだ』と答えるのは、『今何時だ?』って問いに『はい』と答えているような物だぜ。問いと答えが合ってないんだよ。あんたは願い事を言った奴らのことを馬鹿にしていたが、あんたのそれ以前だぜ。国語の勉強をした方が良いかもな」
「なんじゃと!?ならば、お主は何と答える?お主の願いはなんじゃ!?」
「俺の願いか?そうだな。『明日が欲しい』だな」
「そこまでの大口を叩くからどんな願いを口にするかと思えば、『明日が欲しい』じゃと?そんなしょうもないことが真の願いであるはずがなかろう!」
「そうかい?『明日』ってのは、当たり前のように来るが、決して当たり前なんかじゃないんだぜ。今日のうちに、事故で死ぬかも知れないし、病気で死ぬかも知れない、もしかしたら、天寿を全うするかも知れない。そんな中で『明日』が必ず来る確証を得られるのは、この上なく素晴らしい物だぜ。ま、手にした明日で何をするかは、あんたが言うように他人頼みじゃなく、自分で決めるんだけどな」
その後、男は山を去った。
「熊さん、熊さん、通るんでそこをちょっと退いてくれないか?」
なんて軽口を叩きながら翁の前から姿を消したのだ。
翁が、男の願いを叶えたのかどうかは、誰も知らない。
そして、男が、明日を迎えられたのかどうかについても、誰も知る由もなかった。