71.そして心配性の妹が生まれた
~~ 妹Side ~~
お兄さんが事故に遭った。
今朝家を出るときはいつものように「いってらっしゃい」と言ってくれて、私も玄関の扉に手を掛けながら振り返り「行ってきます」と応えた。
そんな日常がずっと続くのだと思っていたのに。
でも私は知っていたはずです。
この何気ない日常というものが実は奇跡であり、ほんの一瞬で崩れ去るかけがえのないものであることを。
上履きから外靴へと履き替えて玄関口を出た私と先生は、お兄さんが搬送されたという病院に行く為に先生の車へ……。
『緊急時用マニュアル第1条』
焦る私の脳裏にふと、お兄さんの言葉が思い浮かびました。
『第1条。まず一度深呼吸をして落ち着きなさい』
(はい、お兄さん)
自分以外の誰かが危機的状況に陥ったと聞いた時に焦って行動してはいけません。
まず一度冷静になり、周囲を見渡します。
何故なら今ここで私が焦って何かをしても、その数分の差でその誰かの生死が変わることはまず無いからです。
それよりも焦って行動した結果、自分まで危機的状況になる危険性の方が高い。
なので現在の状況などをきちんと把握する必要があります。
「先生。ちょっと待ってください」
「え、坂本さん?」
焦って車に乗ろうとする先生を呼び止めます。
そうです。突然の事態に先生まで焦っています。これは危険なサインです。
まずやるべきことは自分の安全確保。
そうですよね、お兄さん。
幸い私自身が誰かに襲われるとか災害に襲われている訳ではありません。
続いて今回の話が本当かどうか。
身内に不幸があったと言って誘い出し、お金をだまし取ったり変な契約を結ばせたり誘拐したりといった犯罪は時々ニュースになっています。
でも今回は話を持ってきたのが身元がはっきりしている先生であることと、向かう先が病院であることから詐欺である可能性はないと見て大丈夫でしょう。
そう言えば事故に遭ったとしか聞かされてませんが、どういった経緯でお兄さんの容態はどうなのでしょう?
「あの、先生。事故に遭ったという事ですが詳しい事は聞いていますか?」
「ああ、いや。今日の昼過ぎに交通事故があって持ち物から身元が君のお兄さんだと分かったらしい。
君のお兄さんは意識不明のまま救急車で病院に運ばれたそうだ。
って、それより早く乗ってくれ」
急かす先生ですが、私は首を横に振りました。
申し訳ないのですが先生の車には乗れません。
「いえ、先生。タクシーで行きましょう」
「はぁ!?」
「先生の運転を信頼していない訳ではないのですが、心中穏やかでない時の運転はいつもより注意力散漫になるものです。
ここは落ち着いてタクシーで行った方が道中に気持ちの整理とかも出来ますから」
「あ、あぁ」
私の言葉に驚きながらも先生は従ってくれました。
そしてエルちゃんが予め呼んでくれたタクシーに乗った私達は一路病院へ向かいます。
車中でようやく先生も冷静さを取り戻してくれたみたいです。
「いやしかし驚いたよ。坂本さんは随分落ち着いているんだね」
感心したように先生が言ってくれますが私だって表面上冷静で居るだけです。
内心はお兄さんの安否が心配で不安と焦りでいっぱいですが、それは失敗の元と何とかエルちゃんを撫でながら落ち着かせるので大変です。
そうしている間にタクシーは病院へと到着しました。
支払いを先生に任せて受付へと急ぎます。
「あの、坂本万里と言いますが、今日事故で搬送されて来た高島賢護さんの容態は!?」
「ああ、落ち着いてください。すぐ調べますから少々お待ちくださいね」
40代と思われる受付のおばさんは慌てる私を宥めながらポチポチと手元のキーボードを操作してお兄さんの病室を教えてくれました。
私は追いついてきた先生を再び置き去りにして急いで教えてくれた病室に走り、あ、病院は走っちゃだめですね。
改めて急ぎ足で病室に向かいました。
「やあ、いらっしゃい」
「……えっと、お兄さん?」
病室に入った私を迎えたのは、元気そうなお兄さんの声でした。
お兄さんは頭に包帯を巻いて左腕にギブスを着けている以外は普通に病院服を着てベッドに腰かけて本を読んでました。
「車に轢かれたって聞いたのですが、無事なんですか?」
「いやぁ、左腕の骨にちょっとヒビが入ってしまったみたいだ。
我ながら修業が足りないな。はっはっは」
ちょっとおどけた感じで言うお兄さん。
というか元気なら連絡の一つも欲しかったんですけど!
「車に撥ねられた時に受け身は取ったつもりだったんだけど街路樹に頭を打って意識を失ってしまってな。
起きたらすぐに医者から容態を聞かされて、病室に来て落ち着けたのはついさっきなんだ。
で、その時には既に万里には連絡は行ってるって話だったし、俺の容態ならエルを通じて伝わってると思ってたんだけどな」
「って、そうか。エルちゃんはそう言うのも分かるんですね。
どうして教えてくれなかったんですか!?」
『緊急対応訓練の良い機会かと考え聞かれるまで黙っていました』
まあ確かに私も訊ねませんでしたけど。
緊急対応訓練って。どうやらエルちゃんの独断ではなくお兄さんから予め指示があったみたいです。
お陰で次からは最初から落ち着いて対処出来そうですけど、やっぱり教えてくれればこんなに焦る必要も無かったのにと恨みがましく見てしまいます。
その後遅れてやって来た先生とお兄さんが挨拶を交わして、先生はそのまま帰って行きました。
「それにしてもどうして車になんて轢かれたんですか?」
「少し前を歩いてた女の子が急に車道に飛び出してな。
その子を庇ってって感じかな」
つまり実にお兄さんらしい理由ってことですね。
「ちなみにその子はちゃんと歩道に逃がしたから無事なはずだ。
近くにお母さんも居たし大丈夫だろう」
「それは良かったですね」
ジト目で睨みつける私。
私としてはお兄さんには自分自身の心配ももっとして欲しいのですが。
お兄さんは誰かを助けるためなら簡単に自分を犠牲にするんですから困ったものです。
玲奈さんは自分は一緒に居ない方が良いって言って距離を置いたそうですけど、どっちみちお兄さんは自分から事故や事件に飛び込んでいくんですから、お兄さんを守るなら近くに居た方が良さそうです。
「よし、決めました」
「ん、何を?」
「私は今後お兄さんのそばにずっと居てお兄さんが無茶しないか見張ることにします」
「いや俺も立派な大人なんだしそんなことされなくても大丈夫だぞ」
「大丈夫なら今ここに居ません!」
「うっ、まあな」
まずはお兄さんは今日の今日で退院という事も無いでしょうから入院中は全力でお世話しましょう。
その後帰宅したら家事の心配どころかぐうたらダメ親父のように安心してダラダラ出来るようにサポートしましょう。
そして、お兄さんに近づく事故でも事件でも全部全部私が撃退するんです。
今まで散々心配してもらった分、今度は私がお兄さんを心配する番です。
覚悟しておいてくださいね。お兄さん。
ここまでお付き合いありがとうございました。
予告してあった通り、ここで第1部ということでこの話を1度区切らせて頂きます。
この後本格的に万里が奮起していく事になりますが、その話はまたいつか。
次回作は冒頭部分だけ幾つかネタが出ているのでそのどれかにするか、新たに考えるか、とにかく近いうちに投稿すると思いますので、またお付き合い頂けると幸いです。




