6 陽太郎の苦悩
後ろからは進藤らが追って来る。
陽太郎は走っていた。
目的はもちろん国会議事堂である。
千絵を連れ出したのは間違いなくこの暴動を起こしているグループだ。
町は喧騒に包まれていた。
国会議事堂の前に陽太郎が姿を表わすと、暴動を起こしていたグループは予想していなかったのか驚きのあまり静まりかえっていた。
「千絵を何処に連れて行ったんだ!」
陽太郎は力の限り叫ぶと、暴動グループに近づいた。
「撃てるもんなら撃ってみろ!」
陽太郎は両手を広げて立ち尽くした。
この光景はテレビで生中継で放映されていた。
日本国民誰もが固唾をのんで見守っていた。
すると、代表者らしき人物が前へ歩み寄って来て言い放った。
「『若者中心プロジェクト』の廃止を求める」
冷静に険しい顔をしながら陽太郎に言い放った。
「そんなことできるわけないだろ。日本はこのまま行ったらいつか駄目になる。いや、もうその領域に足を踏み入れていたんだ!」
陽太郎は言うと相手の反応を待った。
「しかし、我々には守るべきものがある。急に給料を言及されたんじゃたまったものじゃない。我々の生活はどうしてくれるんだ。若者の賃金を上げるのは結構。じゃあ高齢者の生活はどうなっても良いというのか」
その男の背後からは「そうだ」「何考えてるんだ」と男の意見に同意する声ががっている。
陽太郎の足は震えていた。
興奮と恐怖で今にもへたり込んでしまいそうであった。
「そこまで下がっていない筈です。賃金の分配が逆転するだけの筈です」
男は一瞬驚いた顔をする一通の用紙を陽太郎に投げてよこした。
その用紙には驚愕の内容が書かれていた。
「まさか総理はご存じなかったんですか」
陽太郎の耳には何も入ってこなかった。
すると警察がグループの鎮圧に押しかけ一応の収束を得た。
陽太郎は最後に「時間を下さい」といいその言葉が収束の引き金になったのは言うまでもない。
その後、すぐさま各責任者を呼び寄せた陽太郎は開口一番、机を両手で叩きつけ「どうなっているんですか!」と言い放った。
その用紙には『若者中心プロジェクト』が始まってからの各企業の平均賃金の推移が記されていた。
大手企業と中小企業と分かれていたが、特に中小企業のグラフが大きく右肩下がりになっているのだ。
大手企業の方は、平行線を維持しているにも関わらすだ。
「賃金のバランスをひっくり返す。これが『若者中心プロジェクト』第一項だったはずです。何故それで平均賃金が大幅に下がるなんてことが起きているんですか」
これに進藤が説明を買って出た。
「総理が就任する前の話しなのですが、『若者中心プロジェクト』が施行され、各企業が賃金バランスの調整に着手しました。大手企業はグラフの通りバランスをひっくり返すという調整をしたのですが、中小企業はひっくり返したうえで高齢者の賃金を下げていたのです」
「どうして暴動が起きるまで放っておいたのですか?」
「発覚したのが最近だったのです。正直賃金のバランスがひっくり返るということで高齢者は渋々納得していたようなのですが、労働者からしてみたら例えば高齢者の場合は若者の賃金はご存じ無いのです。ですから賃金バランス調整の為と言われ減俸されても、本当に以前までの若者の賃金バランスなのか労働者には判断できないのです」
苦しながらも陽太郎は納得した。
その通りで、会社の経営が厳しい企業は特に高齢者の減俸を実行しやすい状況であったわけだ。
すると、狩野が決意を込めた表情で言い放った。
「『賃金分配庁』の設置を発表して下さい」
陽太郎は狩野の言葉に賛成して良いか迷った。
昨日話し合ったばかりの事で、国会に正式に議題に挙げたわけではない。
今事段階で発表すれば野党からの反発は目に見えている。
そんな事は陽太郎にも分かっている。
陽太郎は自分の立場の事を考えているのではなく、狩野の立場を考えていた。
野党も陽太郎の事は分かっており『若者中心プロジェクト』に賛成し陽太郎を総理大臣に任命する事に賛同した立場で、そこまできついことは言わないであろう。
しかし、狩野の場合は違う。
狩野はこの筋のベテランでどういう経緯で法案を進めればよいか、どういう経緯で庁を設立すればよいか分からない筈がない。
勿論辞任要請に合い、袋叩きにあうのには目にみえている。
「総理、あなたそんなに臆病だったのですか。政治の素人ながらも自分の信念に基づいて思い切った施策を提案してきたじゃないですか。こんな老いぼれの人間の行く先など考えず、日本という国の事だけ考えてれば良いのですよ。前の勢いはどこに行ったのですか。相棒である千絵殿がいなくなり、怖気づいているわけではないのでしょう」
陽太郎は唇をかみ下を向き考えていた。
すると陽太郎の目には涙が溢れて来た。
短い間であったが狩野とは意見を何度もやりあってきた。
もちろん意見が合わないことが多かったが、それはお互いに日本の事を思っての事。
狩野の行く末を考えるならば、もちろんそんな案は退けた方が良いし、陽太郎にはそれが出来る立場にいる。
しかし、この狩野の気持ちを踏みにじるわけにいかない。
そして、この暴動を治めるしかこの道しか残されていないのは陽太郎にも一目瞭然であった。
「狩野さんの言う通り『賃金分配庁』設置を発表します。発表したら何が何でも成功させなくちゃならない。狩野さん頼みます」
狩野は深く頷くと、一人会議室から出て行った。
その後、細かい詰めの作業をしていたら、一人の人間が意見を求めた。
今年で退任が決まっている佐久間アドバイザーである。
前任の総理大臣が新たに設けたポストで、金銭関係のプロとして、そういう会議の時は駆け付けることになっている。
「狩野の事なのですが、総理を任命するにあたってもちろん数名ピックアップされこの場所で選定の会議を繰り返していました。その場最初から最後まで狩野さんは総理を推していたのです。狩野からは絶対にいうなと言われていましたが、狩野の気持ちを少しでも分かってもらいたかったのです」
陽太郎は驚き「そうだったのですか」と軽い言葉しか出てこなかった。
「狩野は元来不器用な性格だったので何かと不躾な言葉で総理と話しておりましたが、実はこの中で総理を一番評価しているのは狩野なのです。これは今もなお変わっていないようです」
そう言うと佐久間は「狩野をお願いします」と深く頭を下げた。
「それはもちろんです。自分は政治の事はまだまだ半人前にもなっていません。しかし、仲間をみすみす見捨てることだけはしません。まして総理大臣と言う立場で誰一人欠けさせません。その時は自分も共にここを去ります」
陽太郎の決意にこの場にいる全員が神妙な面持ちで話を聞いていた。
「正直今回の件は前代未聞かも知れません。国会にかけずに新たなポストをマスコミに向けて発表するなど自分でも分かります。ですから、皆の力が必要です。いくらなんでも狩野さん一人では不可能に近い。ポスト関係無く皆でこの窮地を脱しようじゃありませんか」
会見表に姿を表わした陽太郎は日本国旗に深々と頭を下げると壇上に上がった。
あらかたの説明は官房長官がしていたので、陽太郎は国民に向けたメッセージを言うのみであった。
陽太郎は緊張はあったが、狩野の覚悟と決意に胸を打たれ、緊張どこ吹く風と言った様子でカメラの前に立った。
「先日の暴動事件非常に心が痛みます。今起きていることを正直に話します」
陽太郎は一呼吸置くと言った。
「まずは一人の女性がいなくなりました。この事は私と、進藤のみしか把握しておりません。犯人は間違いなく先日暴動を起こしたグループのメンバーです」
大きなざわめきと共に一斉にフラッシュが炊かれていた。
すると数人のマスコミから質問があった。
「それは誘拐事件ということでよろしいのでしょうか」
「警察は把握しているのですか」
「被害届は出すのですか」
「本当に暴動グループなのですか。他の国のテログループの可能性は」
全ての質問が一斉に寄せらたが、陽太郎の答は決っている。
「私は総理大臣です。どういった事案にも動揺せず、解決に努めます。犯罪には負けません!」
これはカメラを通した暴動グループに向けたメッセージであった。
「先ほど官房長官から説明がありましたが『賃金分配庁』明日午前九時より設立いたします。もう詰めの作業を残すのみとなっています。これには深い事情があり、この度の暴動とも深く関わっている事案です」
陽太郎が『若者中心プロジェクト』第一項にまつわる中小企業の実態を説明し、ここまで気がつかなかった事を謝罪し、『賃金分配庁』によるバランスの平均化を宣言した」
「企業の中にはトラブルで急に赤字に転落する可能性もあると思うのですが、その場合も賃金はその業績に比例するのでしょうか」
「そういった事は指針としてまとめてありますので明日発表いたします。ここで言えますのは、そういった事案には臨機応変に対処するということです」
明日のとのことで会議室を出て電話をかけるマスコミで再び会見場はごった返していた。
陽太郎の決意の表情に、カメラマンそして記者は皆、総理である陽太郎の覚悟を身に染みて感じたのである。
翌日新聞各紙では一面で新たな庁である『賃金分配庁』を設置すると大々的に載っていた。
各ワイドショーでも一番の話題として、番組の中心部で放送していた。
しかし、良い事ばかりでない。
ある週刊誌では「素人総理の暴走で一人の議員が犠牲に」との見出しで辛らつに批判していた。
犠牲になった議員と言うのは他でもない、千絵の事であるが。
そして国会議事堂前での体の張った陽太郎の姿にヒーローが現われたとする週刊誌もあり、より注目を浴びるようになった。
巷では熱狂的な支援者がグループを各地で結成しているようで、一種の宗教的な支援グループも誕生していた。
もちろんそれはどれも非公認ではあるが。
こういった話題はもちろん陽太郎の耳に入ることになり、陽太郎は逃げずに耳を傾けた。
「今になってこんなことを申し上げるのは忍びないですが陽太郎さんを総理大臣に任命したばかりに大きな負担を強いることになってしまいました」
進藤は陽太郎を見ながら言うと陽太郎は「そんなこと」と言い続けた。
「あの時自分にも断ることは出来ました。そして進藤さんは断る道をいつも残していました。これは僕の判断で決めたことですので。そりゃあもしかしたら考えが甘かったのかもしれません。総理大臣就任に対して。でも、政治の素人である人間がいきなり内閣総理大臣になるというのに、全ての事に対してある程度の覚悟をできる人間なんていやしません。だから、進藤さんはそんな事気にせずに、千絵の行方を追って下さい」
進藤は深く頭を下げると下がって行った。
千絵の事は最初から冷静に考えられているわけではなかった。
国会議事堂前で暴動グループと対峙した直後、涙を流しながら、国会議事堂を走り回る陽太郎の姿があった。
皆避難していたので、その陽太郎の姿を見ていた人間はいなかった。
進藤を除いては。
国会議事堂から移住区までの通路に繋がる扉を出た進藤は大声で千絵の名を叫ぶ陽太郎の声を耳にした。
慌てて陽太郎の姿を探すと丁度目の前から顔をくしゃくしゃにしたまだあどけなさの残る陽太郎が歩いていた。
フラフラになりながら、息を切らしていた。
いてもたってもいられなくなった進藤は陽太郎を抱きしめ「大丈夫、大丈夫」と背中をなでるのであった。
ここ最近の怒涛の出来事で陽太郎の精神力は限界を超えているのは進藤の目にはっきり映っていた。
はたしてこの『若者中心プロジェクト』の内閣総理大臣人事は正しかったのか。
進藤は陽太郎を抱きしめながら思い続けていたのであった。
その後、常駐する医者に精神安定剤を処方してもらい仮眠をとった陽太郎は早速『賃金分配庁』設立の発表の詳細を詰めていったのである。
動き出した賃金分配庁から早速狩野が話があると陽太郎のもとに来た。
何通かの用紙を見た陽太郎はそこに書かれている内容に愕然とした。
そこには陽太郎にも分かるように解説を記しながら仕上げた中小企業の賃金状況を表すグラフと注釈であった。
そしてある項目に目を止めた。
「このグラフは何でしょうか」
そこには二つのグラフがあり、左側には『賃金分配庁』調べとあり右側には各報告書とある。
そこには似ても似つかないグラフがあった。
『賃金分配庁』調べのグラフは右肩上がりなのに対して右側は右肩下がりになっている。
「『賃金分配庁』が設立されてからの各中小企業がの収支報告書で左側は『賃金分配庁』が独自に調べた収支実績で右側が企業から提出された収支報告書です」
「何故こんなに差が出てるのですか」
「分かり易く言うと、企業側は嘘をついて自社は赤字だからと報告したというわけです。収支を赤字虚偽報告し人件費を下げるのが目的でしょう」
陽太郎は開いた口が塞がらなかった。
令和が始まった当初は不景気とあえいでいたが大手、中小企業関係なく日本全体で議論を交わし何とかしようとする空気があった。
しかし今の現状がこれだ。
会社を守りたい一心で大事なことを忘れてしまっているのではないか。
陽太郎はそのグラフをずっと見つめていた。
代わるはずのない用紙に記されたグラフを。
その原因は陽太郎の中にははっきりわかっていた。
翌月陽太郎は内閣総理大臣を辞任し、若者中心プロジェクトを中止すると発表した。