29 3べん回ってワン
……ガコオンッ!
上昇してきた床は、針も落ちる隙間もないくらいピッタリと、溝を埋めた。
しかし誰も動こうとはしない。
見ると、俺の隣にいたイボガエルは、鏡の部屋に飛び込められたかのように、黄色い汁を全身からダラダラと垂らしていた。
「げ……ゲコっ……!?」
「い、いまの……何……だったんだ……?」
「け、剣圧みたいなのが、飛んでったぞ……?」
「俺、見たことある! あれ、チャン兄妹の兄貴のほうが得意としてた技だ!」
「あっ、知ってる! 俺も格闘術の授業のときに、クリスのヤツから食らったことある! 相手を吹き飛ばすんだ!」
「で、でも……クリスのは、あんなに威力が無かっただろ!?」
「そうだ! まさかスイッチをへし折るだなんて、とんでもなく強力じゃねぇか!」
そっちの話に行かれると嫌だったので、俺は話題を変えるべく、部屋の奥にある出口を指さした。
「そんなことより、通れるようになったぞ」
すると俺の後ろにいたヤツらが、まるで銃声を聞いたウサギのごとく走り出す。
「どけっ! このチビゲコっ!」
「こんな所でじっとしてる場合じゃなかったんだ!」
「今日の授業で一番乗りになれれば、高ポイントが貰えるわよっ!」
俺は通勤ラッシュの中で立ち止まっている人みたいに、もみくちゃにされる。
小突かれ突き飛ばされ、いい加減腹が立ってきた。
「……ハッ!」
そして俺はつい、かざした手を『下がる』のレバーめがけてかざしてしまう。
片手版の『風龍衝波拳』だ。
まだ力の加減はわからないが、これなら威力は半分になるはず。
……ガコォォォォォーーーンッ!!
今度はうまいこと、へし折ることなくレバーを倒すことができた。
すると、
……スコォォォォォーーーンッ!!
底が抜けるような音と、それに相応しい勢いとともに、床が一気に沈んだ。
ちょうどその上を走っていたヤツらは、
「ゲコォォォォォォォォォォォォーーーーーーーーーッ!?!?」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーっ!?!?」
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーっ!?!?」
溝めがけて、真っ逆さま……!
そんなに高くないはずなのだが、イボガエルはまたしても受け身に失敗して、首から落ちていた。
その上から大勢の人がのしかかったものだから、
「ギグゲゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォーーーーーーーーーーッ!?!?!?」
車に轢き潰されたウシガエルみたいな悲鳴をあげている。
この部屋にいたヤツらは俺以外全員、溝の底に吸い込まれていった。
脅威の吸引力だな……などと思いつつ、上から声をかけてやる。
「おい、何か忘れてないか?」
「グゲゴッ!? な、なにをゲコッ!?」
衝撃で首が身体に埋まってしまった体勢のまま、叫び返してくるイボガエル。
「約束しただろ。俺がレバーを倒せたら、全員で犬の真似をして、3べん回ってワンって鳴くって」
本当は俺にとってはどうでもいい事なんだが、コイツらの態度がちょっとシャクに障ったんだ。
たぶんレバーを倒したのが賢者候補生だったら、コイツらは泣いて有り難がっていたことだろう。
でも格下認定している俺には、礼のひとつもないなんて……。
こういうのはいけない事だって、きちんと教え込んでやらなきゃな。
しかしイボガエルは自分の置かれている立場もわきまえず、腹を抱えて笑っていた。
「ゲココココ! 無宿生のチビとの約束なんて、守ってたまるかゲコ!」
「そうか、じゃあ夜までそうしてな」
すると、他の生徒たちが慌ててすがってくる。
「ま、待ってくれ! せ、セージ……! いや、セージ君っ!」
「ご、ごめんなさい! 先に進めるようになったのが嬉しすぎて、つい……! このとおり謝るから、私たちをここから出して!」
イボガエル以外の生徒たちは跪いて、まるで太陽に拝むように俺に向かって両手を合わせてきた。
「ひとり、謝ってないのがいるが……」
俺が指摘すると、まわりにいた男たちがイボガエルを取り押さえ、無理やり正座させる。
「おらっ! セージ君に謝れ!」
「ぐ……! ギギギ……! 誰が、あんな無宿生のチビなんかに……! ゲコッ!」
「そうか、じゃあサヨナラだ」
俺が未練もなく立ち去ろうとすると、
「ああっ、待って! 待ってくれ、セージ君! 俺たちがなんとしても謝らせるから! おいっ、謝れアクマアクネ! でないと全員、ここに夜までいなきゃならないんだぞ!?」
「そうよ! 夜にはモンスターも出るのよ!? こんな所にずっといたら死んじゃうわ!」
「うわっ、汚ぇコイツ! へんな汁を出しやがった!」
「もう、最低っ! アクマアクネ君のこと、ずっと気持ち悪いと思ってたのよ!」
よってたかって足蹴にされ、とうとう頭を踏みつけられて、強制土下座をさせられるイボガエル。
「グググ……! ギギギ……! ゲコオッ……! わ、悪かった……ゲコッ!!」
「もうちょっとちゃんと謝れ」
「ちょ、調子に乗るなよこのチビっ! グゲゴォォォォォォォォーーーッ!!」
顔をグリグリと踏みにじられ、変な汁と悲鳴を迸らせるイボガエル。
おそらくヤツのクラスメイトであろう者たちに、さんざん罵られ、蹴り上げられ……。
ヤツは、ようやく陥落した。
「ゲコッ! ご……ごめんなさい……ゲコッ! も、もう、二度としない……ゲコッ!」
嗚咽だか鳴き声だかよくわからない声を振り絞った、心からの謝罪。
しかしまだ終わりじゃない。
「よし、いいだろう。じゃあ次は、3べん回ってワンだ」
これには溝の中から、マグマのように抗議が噴出した。
俺がそれを、遠い山の噴火のように受け流していると……当然のように、矛先はイボガエルに向かう。
「おいっ! アクマアクネ! てめぇ、なに勝手な約束してんだよっ!?」
「そうよ! 3べん回ってワンだなんて、発想が気持ち悪い! 顔だけじゃなくて心まで醜いのね!」
「コイツ、前から嫌いだったんだよ! ゲコゲコうるせーし!」
「俺も前からブン殴りたいと思ってたんだよ! もうコイツ、ボコボコにしてやろうぜ!」
「ゲコオオオオオオオーーーーッ!? 許してゲコ! 許してゲコォォォォォォーーーーッ!!」
吊し上げどころからリンチに発展しはじめたので、やれやれと止めに入る。
「おい、ヒキガエルにするのもいいが、そこから出てからにしてくれ。あとで竜宮城にでも連れてってくれるんだったら別だが、カエルいじめに付き合うほどヒマじゃないんだ。約束を果たさないんだったら、俺はもう行っちまうぞ」
そして始まる、奈落の盆踊り。
何十人もの男女たちが四つん這いになって、その場でクル、クル、クルと回る。
顔を上げて、散歩をねだる犬のように媚び媚びに、
「ワンッ!!!!!!!」
と一斉に鳴いた。
約一名に限っては「ゲコッ!」だった。
そこにイチャモンをつけて、やり直しさせることもできたが……まぁ、もうこのくらいで許してやるとするか。
俺は仁王立ちで穴の底を睥睨し、最後の仕上げをする。
「いいか、お前ら! 謝罪の気持ちと感謝の気持ち、このふたつには身分は関係ないってことを、よーく覚えとけ! それらの気持ちは相手の立場に向けてするもんじゃない! 相手の行動に向けてするものなんだからな!」
ちょっとドスを効かせてやったら、底にいるヤツらはみな、保健所の職員を前にした捨て犬みたいに震え上がっていた。
でも意図は伝わったようなので、俺はふたたび風龍衝波拳でレバーを倒し、床をあげてやる。
再び地上に戻ったヤツらはすっかり怯えきっていて、俺に何度も頭を下げながら部屋を出て行く。
そして俺はなぜか、従者候補生の女生徒たちに囲まれてしまい、
「あの……セージくんって、首輪持ってないんだよね? よかったら私の首輪、もらってくれないかな……?」
頬を赤らめながら、バレンタインのチョコレートのように首輪を差し出された。
もちろん全部断る。
そして俺の横では、真逆のことが起こっていた。
「あの……アクマアクネ先輩からもらった首輪、お返しします……」
「ぼくも……先輩があんなみっともない方だとは、思いませんでした……」
「あ、ご心配なく! 今日からは他の従者候補生の先輩についていくんで!」
「俺も! センパイ、いままでお世話になりました! ちぃーっす!」
もはやお得意の鳴き声もないイボガエル。
呆然と立ち尽くすヤツの腕は、送別会の花束のように、首輪の山でいっぱいになっていた。
次回、セージ教官誕生!