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カンハレ

来世で会おう。〜〜後編〜〜

作者: 花鳥 秋

 

 結婚式の披露宴会場。

 その扉の前まで来た所で、私は足踏みをしてしまった。

 両開きの大きな扉に手をかけたまま、その先に踏み出すのを躊躇ってしまう。


 息が切れてる——

 呼吸が乱れて、心臓の音も激しく騒いでいるのが聞こえてくる。

 額には汗をかいて、髪は乱れ放題。


 こんなんじゃダメだ……。

 私は一度、深呼吸し呼吸を整える。


 そして、扉を開けた。

 この披露宴に私は招待されていない。

 言わば、招かねざる客と言ったとこなんだけれど、私は今日、此処に来なくちゃいけなかった。今ならそう思える。


 ゆっくりと開いた扉の先から会場のざわめき、集まる視線、新婦の横で驚きを隠せていない新郎、不敵に笑ってる友人、全てがスローモーションのように私の視界に映り込む。


 ——ねぇ夏……私は今でも思うよ。

 私達にはもっと違う選択肢があったんじゃないかなって。

 きっと、選ばなかった“どれかの未来”では、私達は笑って今日という日を迎えられていたんじゃないかなって。






 ——七年前。


 七年前とは言っても少し時間には誤差があるんだけれど、そこは看過して欲しい。

 正確に言えば六年と何ヶ月何日前のたこ焼きパーティーの夜にまで遡る。

 私と夏とみっちゃんと大和の四人でたこ焼きパーティーをしたあの日の夜。


 私は夢を見ていた。


 見渡す視界——それが許す限りの砂しかない景色。


 私はこの景色を想像の中でしか知らない。

 だからこそ、私が今こうして、この黄金にすら輝いて見える砂の海が辺り一面に広がる地に足をつけている事実も真実じゃない事が分かる——現実じゃない事が分かる。


 私の中の想像が具現化された世界。

 暑くもなく、終わりもなく、ただただ広がる砂漠の世界。


 それは、私が現実というものに、ことごとく裏切られた時に最初に強く願い、望んだ世界でもあった。



「私、一回でいいから本物の砂漠が見てみたいの」



 幼い頃の私の声が聞こえてきた。

 これは、記憶だ。

 私と彼の約束の記憶。



「じゃあ大人になったら僕が連れてってやるよ!」



 幼い日の夏が私に言った言葉。

 凄く嬉しかった。

 満面の笑みで「うんっ! 約束だよ!」と返した記憶は私の中では昨日のように存在している。



 でも、それはきっと私だけが覚えてる約束。

 私は知ってる。

 幼い日の約束は大人になっていくと同時に風化してしまう事を——私は知ってる。




「っ……!」



 なんだか無性に辛くなる気持ちに押し潰されそうになって、ふと目が覚めた。

 夢の中の砂漠から、寒い一月の日本の夜に帰ってくる。一瞬で。

 不思議な感覚。夢だと自覚してたのに、覚めた途端、夢か……と思ってしまったりする。

 上半身を起こして、両手を上布団の上にバフッと落とす。



「はぁ……」



 自然な流れと言わんばかりに、溜息がこぼれる。

 まるで、癖付いた動作のように。



「大丈夫? 雪」



 横からそんな声が聞こえてきて、反射的に驚いてしまった。



「わっ……あ、みっちゃん……」



 そっか、たこ焼きパーティーの後、確か私の家に泊まったんだっけ……。

 みっちゃんは部屋の隅に避けたテーブル前に座って、こっちを見ていた。

 隣に敷いていた布団には入った形跡がない。



「ずっと起きてたの?」



「ゆっちゃんの寝顔をゲットしよと画作してたからね~」



 携帯を片手に持ってこちらに見せながら、ちょっとフザけた口調で答えてくれる。

 きっと、夢を見ながらそれなりに魘されてたであろう私を心配してくれてたんだろうなぁと思った。


 みっちゃん。本名、橋本 美織。

 大学で知り合った私の友達。

 知り合ってまだ一年も経ってないけれど、私にとっては何でも話せる大事な親友。

 歳は私の一個上で二十歳だけど、学年は私と同じ一年生。

 個人の事情があって大学に入るのが一年遅れたとしか聞いてないんだけれど、受験に失敗したとかそういう理由ではない事は確かだと思う。

 みっちゃんの頭の良さはもう十分に知ってる私が言うんだから間違いない。



「今、何時?」



 私はボーっとする頭を振りながらみっちゃんに訊く。

 みっちゃんは近くにあった携帯のボタンを押して時間を確認してくれる。



「まだ夜中の三時。もうちょっと寝てなよ」



「うん……みっちゃんは?」



「ちょっと考え事」



「考え事……?」



 首を傾げた時、みっちゃんの首に光るネックレスが見えた。

 割れたハートの片割れがぶら下がったネックレス。



「みっちゃん、寝る時もネックレスしてるの……?」



「ん? あぁ——これ?」



 みっちゃんがクスっと笑みを浮かべながら、片割れだけのハートを片手に取って少しだけ持ち上げる。


 私は黙ったままで頷く。

 その時のみっちゃんは随分と感傷的な笑みを浮かべていたように見えた。



「そだね、このネックレスはつけたまま死にたいって思ってるから」



「死にっ?!」



「あ、えっと、ほら、人間っていつ死ぬか分からないでしょ? だから、これだけは肌身離さずつけていたいの。それに、これをずっとつけてたら、またいつか会える気がするし」



「会えるって……?」



「うーん、私の初恋の人、かな」



「え、なになに、その話詳しく聞きたい!」



 眠る、なんてテンションが急に吹っ飛び、俄然みっちゃんの恋愛話に興味が湧いてきた。

 みっちゃんは「えー、やだよ」と、笑いながら拒否してきたけど、最終的には色々と聞かせてくれた。



 一年前まで彼氏が居た事。

 もう別れてしまったみたいだけど、かなり長い付き合いだった事。

 毎年、夏には祭りに行って、冬はイルミネーションを見に出掛けたりして、どれだけ一緒に居ても飽きなかったっていう事。

 本当に、初恋の人で、結婚まで考えてたって事。



 素敵だなぁ——

 そう思いながら、みっちゃんの話を聞いて私が考えていたのは、私の幼馴染みの事だった。

 夏も……、猿渡夏樹(さわたり なつき)も私にとっては初恋の相手で、本当に結婚まで考えた相手だった。

 夏は小さい頃の約束なんてすっかり忘れてるけれど——忘れているんだろうけれど。

 私はずっと覚えてる。今でも待ってるのに。

 でも、夏の幸せを考えるなら、それは私と結ばれる未来じゃない。

 それだけははっきりしてる。



「でもね、その彼、急に私の前から居なくなっちゃったんだ。それでも、いつかまた会えるって信じてるの。その人の事、本当に好きだったから……」



 今日のみっちゃんはよく感傷的な笑みを見せる。

 元々、自分の事を多くは語らない人だと思っていたから、私はそれがなんだか少しだけ嬉しくなった。

 いつもどこか強がっているように見えるみっちゃんの、そういう表情が見えた事に、私は少しだけ微笑ましくなった。



「それより、ゆっちゃんはどうなの?」



「へ?」



 急に話題が私へと切り替わり、不意に飛んできた質問に思わず間抜けな声が出てしまった。



「わ、私?」



「そ。好きなんでしょ? 猿渡君の事——」



「な、ななななな何言ってるのかな?! みっちゃん。私ちょっと意味が分からない……」



「いや、あんた分かり易すぎだから。これは私の例えばの話だけど……、なんて言うと山下君の口癖みたいになっちゃうけど、猿渡君もゆっちゃんの事は好きだよ絶対」



「ふぁ!? ……あ、いやいやいや、何を根拠に……」



「うーん、強いて言うなら橋本美織の勘、かな。これが良く当たるんだな〜」



 目の前で、そう言って微笑んでくれるみっちゃんに対して、私は少しだけ憤りを覚えた。ううん、違う。私は、私に怒ってるんだ。


 私はみっちゃんになりたい。

 この身体、この立場を強く取り替えて欲しいと、強く願ってしまった。


 純粋に夏を愛せる、そんな普通の女の子になりたい。

 夏が本当に私を好きだと思ってくれてるなら、今すぐにでも私の気持ちを夏に届けたい。

 でも、私にはそれが出来ないから。


 夏はね、きっと今、私の目の前にいるような一途で可愛い普通の女の子——みっちゃんみたいな子と恋愛して結ばれる事で、それが夏の幸せな未来に繋がるんだと思う。

 だから、“夏はみっちゃんが好きなんだ”って思い込もうともしたし、二人が付き合ってくれたら、なんて何回も考えた。

 私は知ってるから——私と夏の恋愛には大きな障害がある事を。



 私は自由に恋愛が出来るみっちゃんが羨ましい。

 好きな人と何年も恋人でいられたって言うみっちゃんが。

 好きな人との“恋人としての思い出”が存在するみっちゃんが……、私は羨ましくて、妬ましくて、仕方がない。


 こんな時、ドラマやアニメの中みたいに身体が入れ替わったりなんて事が本当に出来ないのかななんて真剣に考えてしまう。


 私は、汚いなぁ……。

 ずるくて、卑怯で、汚い——穢い。穢れている。



「告白するなら、その時は付き合うからね。きっと上手くいくから」



 みっちゃんは暗い部屋の中でそう言って、私にウインクしてくれた。



「う、うん、ありがと……」



 きっとそんな日は来ない。


 それでも——



「じゃあそんな日が来たら、みっちゃんにはついて来てもらう!」



 と、この場は明るく笑って見せた。

 本当に着いてきて、私と夏が恋愛対象にはなり得ない事実を目撃して欲しい。


 此の期に及んで私はまだそんな事を考えていた。



 夏は事実を知ってしまえば、私の手を引いてはくれない。


 私はそう思ってる。

 私はきっと振られる、そう思ってるから————





 “そんな日”は意外にも早くやって来てしまった。一週間後のその日、夏に急に呼び出された私は(あぁ、遂にこの日が来たんだな……)なんて漠然と思っていた。

 出来る事なら違う用事であって欲しいと思いながら、私は夏に呼び出された河川敷に向かい、夏の目の前に立った。勿論、一人で。



「どうしたの? 急に」



 出来る限り、明るく切り出してみる。



「僕さ、雪にずっと伝えたい事があったんだ……」



 夏が俯いたまま、私を見ずにそう言う。

 私は「うん……」と、答えながら、返ってくる言葉に怯える。

 この前のたこ焼きパーティーで、お父さんが夏に何かを伝えた事は知ってる。

 きっと“赤い薔薇と百日紅の花”の話を聞いたんだろうな、って私は思ってる。


 でも、まだ待って。

 ここでお別れなんて言わないでね……。

 私は傍に居られたらそれで——それだけでいいから……。


 私より背の高い夏が心無しか小さく見えて、前髪に隠れた目からはその心情を伺う事すら出来ない。


 怖い……。

 さよならだけは言わないで……、私は強く願った。



 一時間位に感じる三分程の間があいた所で、夏は次の言葉を口にした。



「僕は……、雪の事が好きだった。いや、今でも大好きなんだ。友達としてじゃなく、幼馴染みとしてでもなく、一人の女性としてって言うのかな……、兎に角さ、好きなんだよ、雪の事が」



 待って待って待って……、現実? え、これ現実? 私は振られると思ってて、もう二度と会えなくなる覚悟だってしてて、違う違う違う! そうじゃなかったらいい、って願ってたのも事実だけれど、もしもの時は国外にでも何でも着いて行って、それこそ砂漠みたいに何にもないような、知らない場所でも夏となら生きていける位の覚悟もしてたけど……、あー! そうじゃなくて! 今言いたい事は、言わなきゃいけない事は、だから、えっと……、どうしよう、ダメだ……、“凄く嬉しい”——その一言しか出てこない。


 なんと言うか——それは、思ってもなかった言葉だった。

 夏は、自分と私の関係性に気付いた上でこんな事を言ってくれてるのだろうか?

 急に熱くなる身体、処理能力の追いつかない思考回路。

 頬が紅潮するのが自分でも分かる。

 にやけてしまいそうになるのを必死に我慢する。



「あの……実は私も……」



 今だ。今しかない。

 勇気を出して、私も言うんだ——“好きです”って。



「私も……!」



「けれど、付き合えない」



 私と夏の声が重なった。

 にやけそうになっていた私の頬は一気に硬直していく。



「え……?」



 夏から放たれた言葉の意味を直ぐには理解できなかった。

 理解できなかった——訳じゃない。したくなかったんだ。



「今は意味が分からないかもしれないけど……」



 私が言葉を返せずにいると、夏はそう切り出した。

 そして私にとって、この次に放たれた言葉は、私を心の谷底に突き落とすには十分過ぎる程の言葉だった。



「だから、来世で会おう」



 バカ……。意味なら……分かるよ。

 私達が血の繋がってる兄妹だからって事でしょ?

 …………今更だよ。私は全部知ってたんだもん。


 涙がじわりと視界に浮かんだ。

 夏の顔が水面の中に歪む。

 駄目。我慢しなきゃ。泣くもんか……


 そう思ってる間に、私の涙の一粒目は簡単に頬を伝って地面に落ちてしまった。

 その一粒目の涙が栓をきったかのように、次から次へと溢れてくる涙を、私はもう止める事が出来なかった。


 なんで? なんで夏がそんなに辛そうな顔してるの?

 夏にとってはついこの間知った事実かもしれないけど、私はそれよりもずっと前から知ってた! 大好きな人はどれだけ大好きでも結ばれちゃいけない人だっていう事は昔から知ってたの! 砂漠っていうのは冗談でも、それでも、夏となら世界のどこにだって飛び出す覚悟位してたの! なのに……なのになんで……?



「バカ……、分かってないのは夏のほうだよ……。夏は何も分かってない!!」



 つい声を荒げてしまった。

 でもこの気持ちから溢れ出した涙はもうとっくに止まらなくなってる。

 どうして伝わらないの?

 こんなに大好きって気持ちが……

 どうして分かってくれないの?

 私はずっと夏を待ってたのに……

 色んな事覚悟して、待ってたのに……

 一人だけ傷ついたみたいな顔しないでよ……

 悲劇の主人公みたいな顔しないでよ……!

 辛い気持ち我慢してるのは夏だけじゃないの……!

 “来世で会おう”なんて別れの言葉、嬉しくもなんともないし、そんな言葉がかっこ良く聞こえるのはテレビ画面の中だけなの!



「何よ、カッコつけちゃって……、私はとっくの昔に覚悟決めてたのに……、夏は……何も分かってないよ……」



 夏は何も言ってくれない。

 立ち尽くしたまま、泣きながら訴える私を、辛そうな目で、ずっと見てる。



 もう……いいよ。



 何も分かってない、と夏に言い返してしまった以上、私もこの話にピリオドを打たなきゃいけないと思った。

 今のこの時間を泣いて引き伸ばしてもしんどいだけだ。

 もう私と夏の関係は此処で終わりなんだ。

 だったら早く一人になって泣くだけ泣いて、新しい人を探そう。

 この傷を少しでも誤魔化すんだ。私なら出来る……。



「分かった」



 私がその一言を声にした時、夏の表情により一層の悲しみが浮かんだように見えた。


 ねぇ夏、お願いだから気付いてよ……ねぇ、お願いだから——私、素直になれないだけだから……強がってるだけだから……気付いて、私の気持ちに……。

 今から無理して、無駄に強がったりするけど、ちゃんと止めてね。

 好きなんでしょ? “やっぱり”って言い出しても笑わないから。

 受け止めるから……私の一言を間に受けないで……。



「来世で会おうね」



 涙すら止め、完璧な笑顔で、私はその一言を言ってしまった。

 言わなくていい一言。

 頑固で、強がりで、意地っ張りな私の、余計な一言。



 夏は何も言わなかった——言ってはくれなかった。


 黙ったまま、最後まで涙も見せず、そして私に背中を向けた。

 夏の離れていく背中を眺めながら、私は走り出す事が出来なかった。

 待って! と、声に出せなかった。



 ただ泣き崩れそうになるのを必死に堪える事しか出来なかった。

 今のは嘘なんだよ——なんて、言えるわけないじゃん。


 夏の背中が見えなくなった後、私は、泣き崩れた。



 きっと、明日になれば今日の事なんか何もなかったかのように、また友達としての日々が始まる。

 来世で会おう、とか言いつつ、同じ街で同じ大学に通ってるんだから。

 急に会わなくなったりなんてしないよ。

 いつも通りの毎日が戻ってくる。

 私と夏がお互いを恋愛対象に入れなくなるだけだ。


 心のどこかではそう思っていた。

 きっと明日になれば……、と。

 でも、その考え方すら甘かった。



 私と夏の恋愛が、始まる前に終わり、ピリオドが打たれたあの日。

 その日の翌日に、夏は私には愚か、みっちゃん達にも何も言わないまま、この街を去ってしまったのだ。


 私が色々と覚悟をしていたのと同じように、夏も色んな覚悟をしていたんだと知ったのはこの時だった。


 私達の覚悟は、お互いを想う故に違う形を描き、お互いを思い過ぎた故に、二度と正せない位にすれ違ってしまったんだと思う。



 夏がこの街から居なくなった日、私はお父さんを責めた。

 ——お父さんが夏に余計な事言ったから……!

 ——私達はあのままで良かったのに!

 ——夏がそばに居てくれて、笑って過ごせる日々が続いてくれるだけで、私はそれ以上なんて何も望まなかったのに!


 分かってる……、これはただのやつ当たりだ。

 でも、もう私の感情は自分自身でも制御できない位ぐちゃぐちゃだったんだ。


 募った憤りを露わにしながら、涙ながらに訴える私の姿が、お父さんにどう映ったのかは分からない。

 ただ、私をフった時の夏と同じ様な表情を浮かべながらただただ沈黙していた。

 それが余計に私の癇に障った。

 そもそもお父さん達のせいだ。

 何があったかなんて正確には知らないけど、私と夏がこんな事になった元凶はお父さん達にあるんだ。

 大人達の勝手な都合で私と夏の関係は、未来は、将来は、大きく屈折し、歪む事をやむを得なくされたんだ。

 どうして私達ばっかりこんな目に合うの?

 私と夏はただ両想いだった——それだけなのに、どうして私達は普通の恋愛が出来ないの?

 なんで夏もお父さんも何も言ってくれないの!!



 どこまで声に出していたかは分からない。

 でも、気がついた時には私はお父さんに背中を向けていた。

 部屋の机の上にあったカッターナイフを素早く手に取って乱暴にポケットに押し込むと、私を追いかけようとするお父さんを振り切って私は家を飛び出した。


 家を飛び出した瞬間、今まさに私の家のインターホンを押そうとしていたみっちゃんの肩とぶつかってしまった。


 外はまだ正午だと言うのに空はどんよりと暗く、際限ない雨が降りかかっている。

 みっちゃんの差していた黄色い傘が揺れる。

 まるでスローモーション。

 私とみっちゃんは互いに数十秒見合っていたようにさえ思える位に。


 私はみっちゃんとすれ違いながら、ポケットの中のカッターナイフを強く握りしめ、一言だけ「ごめん」と小さな声で呟いた。その声は雨の音にかき消されたけど、口パクでも伝わっていればそれでいい。

 私はもうこの世界に居たくない……!

 そう思った後は雨の中を走り出していた。

 どこに向かってる訳でもなく、傘も持たず、靴も履かず、走った。

 全力で。

 全力で、アスファルトを蹴った。



「待って! 雪!」



 後ろからそんな声が聞こえた。

 同時にお父さんの声も。



「待ちなさい! 美織ちゃん!君は……!」



「でも放っとけません!!」



 雨で全てが聞き取れた訳じゃない。

 でも、分かった。感覚で——誰かが私の事を追ってきてる。

 後ろから、気配が近づいてくる。

 みっちゃんは止められてたから、お父さんだ。

 捕まる訳にはいかない。

 捕まったらその場で、腕でも首でもすぐ様切って死のう。

 そうだよ、来世でなら夏と自由に恋出来るんだから……!

 来世で会おうって約束してくれたんだから、来世に行けばいいんでしょ?

 こんな何もかも私だけが辛い世界なんて、さっさとさよならしちゃえばいいんだよ!


 雨の中、誰も居ない道を、住宅街の中を、私は走り続けた。

 とにかく無我夢中で——頬を打つ幾つもの雨粒の痛さを感じながら、まるで滝の中を逆流でもしているかのような、そんな気分だった。


 どれくらい走ってきたんだろう……。

 服は水分を吸いきって身体に張り付き、髪の毛先からは幾つもの雨水が滴り続けている。

 息が苦しい……、もう走れない……、そう思った時、僅かにペースダウンした私の隙を逃すまいと、後ろからその手首をガシッと掴まれた。

 よりによって、カッターナイフを持っていた右手を掴まれた。

 いつの間にかポケットの外に出して握りしめた状態になっていたカッターナイフ。

 同時に私の手首を掴んだのがお父さんじゃない事にも気づいた。



「え、み、みっちゃん……?」



「はぁ……はぁ……はぁ……ば、バカ雪! はぁ……はぁ……」



 随分と苦しそうに息切れしているみっちゃん。

 私も全力疾走してきたからそれなりに肩は上下に動いてるけど、最後にはペースダウンもしてたから、みっちゃん程ではない。

 みっちゃんは私を捕まえるその瞬間までここまで全力で追いかけて来てくれたんだ……、傘も放り出して、私のお父さんも振り切って……、そう思うと少しだけ胸が痛んだ。

 激しくなる雨の中、私の事を呼んでくれてもいたんだと思う。

 その声は雨に掻き消されて実際は私には届かなかったけど、みっちゃんならきっと、私を後ろから呼んでたはずだ。



「みっちゃん、どうして……」



「はぁ……はぁ……え? 何が?」



 そう言った直後にゴホッゴホッと咳き込み、その場に座り込んでしまうみっちゃん。

 でも、私の右手首はしっかり掴んんだまま、離そうとしない。

 凄い握力だった。



「みっちゃん……、なんで? なんで追いかけて来たの? みっちゃんまでびしょびしょじゃん……! 私なんか放っとけば良かったのに! 」



「……放っとける?」



 みっちゃんは苦しそうな表情のまま、呼吸をゆっくり整えて、その短い言葉を吐き出した。

 耳を澄ましておかないと、雨音に掻き消されそうになるような声で。



「え?」



 そう聞き返したのは反射的だった。

 聞こえてなかった訳じゃない。

 聞こえてたけど、冷静に放たれたみっちゃんの声に、私は一瞬どこからか引き戻されたような感覚になって、だから——つい聞き返してしまったのかもしれない。

 若しくは、本当は意味なんて分かっていたけど、その先が聞きたかったのかもしれない。


 “友達だから”……って、“何があったの?”……って、私は訊いて欲しかったのかも知れない。

 ——聞いて欲しかったのかもしれない。



「もし今の状況が逆だったら、雪も私の事追いかけたでしょ?」



 みっちゃんの綺麗な声は、雨のノイズの中を縫うように通って私の耳に届く。

 私は沈黙する。返す言葉がない——出てこない。

 みっちゃんはまたゴホッゴホッと咳き込んでから、ゆっくり立ち上がって、私と視線の高さを合わせる。

 右手はまだ離してくれない。



「——友達なんだからさ、当たり前でしょ? ねぇ何かあった? 猿渡君と連絡が取れないって山下君が心配してた。もしかしたら雪と何かあったのかなって思ったんだけど、その様子だと……正解っぽい? 私でよかったら話聞くよ?」



 何でだろう……。

 自分で求めておいて、こんな事言うのも凄く嫌なんだけど……、いざ、みっちゃんの口から、発して欲しかった言葉を聞いた時、私の中に芽生えた感情は怒りだった。

 怒り——憤り、どうしようもない感情。


 ズルいよ、みっちゃんは。

 そこそこ可愛くてさ、みっちゃんは知らないかも知れないけど、大学の男子にも結構評判良くてさ……、みっちゃんと仲良くなりたくて私に近付いてくる男子だっているんだよ?

 それでいて凄く優しくて、いつも真っ直ぐで、強くて、純粋で綺麗な恋愛も経験してて、私が欲しい言葉も簡単に出て来て……、羨ましいよ。

 普通の恋が出来る身で“今は彼氏要らない”とかも選べるんだもんね。

 ——羨ましい。

 ——羨ましくて、妬ましい。



 みっちゃんが言ってくれた言葉は、私の心の中の扉を確かに開こうとした。

 一瞬だけ、静かに、開こうとした。

 でも同時に、私の中で抑えきれない感情が湧き上がってきて、それを拒否した。



「みっちゃんはいいよね、普通で」



 気がつけば口をついてでていた。

 私の悪い癖が、また私の大事な人を突き放そうとする。



「——みっちゃんはさ、普通の女の子だもん。

 好きな人と好きな恋愛が出来るみっちゃんには、きっと私の気持ちなんて分からないよ……! もう……、もう離してよ!」



 そう言うと同時に、私はみっちゃんの手を振り解こうとしたんだけれど、でも、みっちゃんはその手を離してくれない。

 やっぱり、離してはくれない。



「雪……、雪ちょっと落ち着いて……!」



「私は落ち着いてるよ! 私には私の考えがあるの! だからもう放っといて!」



「考えって何? そのカッターナイフは何に使うのよじゃあ!」



「何でもいいじゃん! もう余計なお節介しないでよ!私は夏に来世で会おうって言われたの! 夏に振られたの! もう生きてる意味もないの!」



 あれ? 私、何言ってるんだろ……?

 そんな心の奥底の疑問に私の荒ぶった感情は目を止めない。

 感情が言葉になる。

 言葉になって、飛び出していく。



「——私と夏は兄妹だから……! 血の繋がった兄妹だから結ばれちゃいけないの! 普通の恋愛が出来ないの! だから……、だから来世で会おうって夏に言われたの……! だから……だから……!」



 もうヤダ……。

 何これ、凄く辛いよ……。

 “来世で会おう”、その言葉が私の頭の中で再生される。

 夏の辛そうな姿がフラッシュバックして、涙がまた溢れてくる。


 その時だった——この雨の中で、みっちゃんは私の涙に気付いてくれた。

 気付いて、抱きしめてくれた。

 やっと右手を解放してくれたみっちゃんの手は、私の背中に回り、私を強く抱きしめる。



「——みっちゃん……、どうしよ……夏……居なくなっちゃった……! 私のせいで、夏……この街からいなくなっちゃった……!」



 私はみっちゃんの肩に顎を乗せながら、泣きながら、喚くように、本音を吐き出した。

 荒ぶった感情が怒りを吐き出し、一周して戻ってきたかのような感覚で、今度は弱音がボロボロと口から溢れ出る。

 みっちゃんは、私の後ろに回した右手で優しく私の頭を撫でてくれる。



「ごめんね、気付いてあげられなくて……、私、色々と無神経だったね……」



 みっちゃんの優しい声が耳元からすんなりと入ってくる。

 違うのに……、無神経なのは私の方なのに……。

 涙が止まらない……。

 私の自分勝手……。馬鹿……。



「違うよ……みっちゃんは悪くないっ……! 私が話さなかったから……。怖かったの、私達の関係が……バランスが崩れちゃうんじゃないかって……怖かった。みんなと一緒にいられなくなるかもしれないと思ったら、怖くて言えなかった……」



「……雪と猿渡君が兄妹って事?」



「うん……、お父さんが余計な事言わなければ、夏も知らなかったのに……」



「雪……、雪、落ち着いて聞いてね。大丈夫……大丈夫だよ、私は此処に居るから。居なくなんてなんないよ。雪が誰と兄妹で、誰と付き合っていたとしても、雪は雪でしょ? そんなの私と雪の友情に何の関係もなくない? ね……」



 みっちゃんの言葉は優しく心に沁みた。

 本当に、心の奥底に溶け込んでくる。

 ——分かってる、本当は。

 こんな子を妬むなんて……、間違ってるのはきっと私だ。

 みっちゃんだって、それなりに辛い経験をしてきたはずなんだ。

 過去の恋愛がどんな結末を迎えたのか、詳しくは聞かなかったし、教えてくれなかったけど、みっちゃんにだって、みっちゃんの辛い過去があった筈なんだ。

 だからこそ——辛い経験をしてきたからこそ、人に与えられる温かみのある優しさがある事だって私は知ってるんだ。



 みっちゃんが私の両肩に手を当て、されるがままにみっちゃんの肩から顔を離される。

 そんな私の視線に映ったのは、雨の中で私に優しい笑みを向けてくれてるみっちゃん……、橋本美織の——私の大事な友達の顔だった。



「——言葉って複雑で、一歩間違えれば意味も違って聞こえるし、すれ違う元になるもんだと思う。一言とかだと余計にね。シンプルな言葉一つでも、そこには色んな意味があるかもしれないし、ないかもしれない……、だからこそ、言葉を自由に使える私達には同じくらいに言葉の意味を考える知恵がついてるんだとも思うの。

 雪、猿渡君はゆっちゃんに死んでほしくて“来世で会おう”なんて言葉を残したのかな? 猿渡君がどんな表情で、どんな気持ちでその一言を選んだのかは私には分からないけど、きっとそんな理由で選んだ言葉じゃないと思う。きっと、今を生きて、生きて生きて生き抜いて、その先で、生まれ変わってもまた巡り会おうって意味なんじゃないのかな……、来世で生まれ変わっても雪にまた会いたいって、そう思えるくらい好きだったっていう猿渡君なりの告白なんじゃないかなって……私は思う。

 いつ、どんな理由で命が奪われるかも分からない今の世の中で、好きな人の気持ちを裏切ってまでして、ゆっちゃんは自分で死ねるの……?

 今は辛いかもしれないけど……、ドラマとか小説で使い古されたような決まり文句しか私には言えないけど……、生きようよ。一緒に、頑張ろうよ」



 みっちゃんが……、この言葉が……、私の中の心の扉を、ゆっくりと開けてくれた。


 自分勝手で、頑固で、意地っ張りな私から、みっちゃんは最後まで目を逸らさずにいてくれた。


 丁度、図ったかのようなタイミングで雨が小雨に変わって来て、私はカッターナイフを手放し、空を見上げた。

 みっちゃんも一緒に空を見る。

 相変わらずの曇天で、日の光は一縷も射していない。

 ただ、代わりに街頭が点き、私達を照らしていた。

 街頭の明かりの下から見た小雨はまるで粉雪のようで「粉雪みたいだね……」って小さく呟いたら、みっちゃんもクスッと笑って



「同じこと考えてた!」



 と、笑ってくれた。



 この日ほど、私は、私の事を自分の事のように考えてくれる友達に感謝した日はなかった。


 ——みっちゃんが頑張ろうって言ってくれたから、私は前に進めたんだよ。本当に感謝してる……、ありがとう。



 こうして、私もまた、一歩を踏み出した。

 夏が色んな覚悟を決めて一人で姿を消し、今と向き合い進んで行ったように、私も今を精一杯生きようと決めた。


 それからの七年はあっという間に過ぎ去った。

 夏が居なくなった今となっては、お父さんの過去を詮索する事もなかったし、結局私は、夏と兄妹であるという漠然的な事実だけを胸に刻んで七年という月日を生きた。

 最初の頃は本当に辛かった。

 大学の帰り道では大和と夏と私でいつも三人並んでいた事。

 特に何もせず、とにかく遊んだクリスマス。

 いつからか恒例行事になっていた初詣。

 夏は覚えてないんだろうけれど、幼い頃、近所の公園で泥だらけになるまで遊んで、よく怒られてた事。

 結婚の約束。

 思い出す度に、私の胸は何かに握り潰されているかのように苦しくなり、酷く痛んだ。


 砂漠に立ち尽くすあの夢も何回も見た。

 黄金色の砂が無限に広がる景色の中で、私はいつも一人ぼっちで、夢から覚めた時はいつも枕が濡れていた。


 それでも頑張った。

 彼氏は一人も作らなかったし、誰かを好きになった事もなかった。

 どんなに辛くても、夏の事を忘れようと思った事もなかった。

 どんな痛みも受け入れて生きよう、そう心に誓って歩いてきた七年だった。


 そうして私が26歳のクリスマスを一人寂しく越えた次の日。

 十二月二十六日の朝、家業のたこ焼き屋を継ぐ為にお父さんの下で働くようになってた私はいつも通りの手順でお店の開店準備に勤しんでいた。

 大和からの着信があったのは丁度その時だ。



「——もしもし? 何? 」



 急用だと悪いし、相手が大和なので、一応仕事中でも電話に出る事にはお父さんもあまりうるさく言わない。開店前だからっていうのもあるけれど。



『——よぅ、花澤。今そこに親父さん居るか?』



 そう訊かれ、私は少し離れたところでたこ焼きの材料の仕込みをしているお父さんの方をチラッと見た。



「居るけど……それが何? 代わる?」



『逆だな。ちょっと親父さんに見えない所に移動してくれ』



「え、何? 大和、私、忙しいんだけど……」



『悪いがこっちも急用だ』



 電話の向こうで大和はどこかを歩いてるのか、足音が一定のリズムで聞こえてくる。



「何よもぅ……」



 なんだかんだ言いながらも、大和に従ってお父さんから離れ、店の外に出る。



「離れたよ。で? 何?」



『お前に今すぐ知らせておきたい事が二つある。一つはお前と夏の関係について。もう一つは俺の行き先についてだ。どっちが先に聞きたい?



「えっと……ごめん、別にどっちも……。って言うか、大和のこれからの行き場所なんて聞いて私に何の関係があんのよ。それに、私と夏の関係なら七年前に兄妹って——」



『あぁ、聞いた。俺は夏樹からも聞いたし、お前からも聞いた。さらに言えば、“赤い薔薇と百日紅の花”の話も二回聞かせてもらった。そして、それらは揺るがない事実だ、今更変わる事はねぇ』



「……じゃあ何? どういう事? 何が言いたいの?」




『どうでもいいが、お前、随分と橋本に似た感じになったなぁ……喋り方と言うか、口調というか、昔はもうちょっとおてんば女子みたいな——』



「いいから早く言え」



 みっちゃんに似てきたって言われたのは正直ちょっと嬉しかったけど、それを悟らせないようにツンとしてみた——けど、これもそのみっちゃんの真似だったりする。

 みっちゃんは照れ隠しする時、よくこういう口調になる。



『ん、まぁならそっちから話すが——俺はお前と夏樹が揃いに揃って触れようとしなかった件をずっと調べてたんだよ。余計なお世話とは思ったが、どうも俺がスッキリしなくてな。どうして健全な二人の兄妹を生んでおいて、他県でもなく、離れた街でもなく、同じ街でこんなに近くで引き離されて暮らす事になったのか……』



「あぁ——まぁそれは確かに気にはなったけど……」



『花澤、お前、夏樹は養子だって知ってたか?』



「え?!」



『夏樹はずっと母親と二人暮らしで母子家庭、お前は父子家庭、だから自然に、勝手に、お前達が兄妹だと七年前の俺はそう推理した訳だが、そもそもの話だ。

 これは後から調べて分かった事なんだが、夏樹は生まれてすぐに施設に預けられ、その後、養子として別の人間に引き取られたらしい』



「ちょっと待ってちょっと待って! そんなのどうやって調べたの?!」



『夏樹本人に調べてもらったんだよ。戸籍だったり、昔のアルバムだったり、産後の育児記録だったりを探してな』



「待って待って待って! 大和、あんたもしかして夏と連絡とってたの?! 何回訊いても私には知らないって言ってたじゃん!」



『夏樹との連絡が再開したのは四年前だ。その頃はお前、それどころじゃなかっただろ? その時にはお前ももう訊いてこなかったし、訊かれない事には答えらんねーよ』



「ムカつく! あんたら男子のそうやってすぐに隠れてコソコソする所大っ嫌い!」



『それはお互い様だ——で、話は戻すが、夏樹が養子だった事で“赤い薔薇と百日紅の花”の話の不透明だった部分と、妙におかしな部分に説明がついたわけだ』



「そんな事より、夏の連絡先教えてよ」



『結構重要な話を“そんな事”扱いしてんじゃねーよ。それは後回しだ。

 先に“赤い薔薇と百日紅の花”の話の全体像を暴く。

 とは言っても、全ての事実を知った上で当てはめて見れば簡単な話だがな』



「はぁ……、え、何? あの話にそんなにおかしな部分なんてあった?」



『あっただろ。まずは二人の恋が猛烈に周りから反対された理由だ。それが明かされていない』



「そんなのどうせありきたりでしょ? 若過ぎるとか、将来性がないとか、最近だとできちゃった婚的な……ってまさか!」



『そのまさかだ。これは俺の例えばの話だが、交際途中で彼女が夏樹を身籠ってしまった……、それが交際を否定され始めたきっかけだったと俺は考えている。

 勿論出産自体も反対されただろうが、身籠った命を殺したくはなかったんだろう。

 産後は施設に預けるという条件付きで、彼女は夏樹を出産した』



「でも待って、じゃあ私の時は? 私も同じように……」



『違う。お前は正真正銘、実父に育てられている』



「なんで? なんで夏は施設で、私は……」



『夏樹の出産は周りに祝福されず、かと言って、反対し続ければ無理矢理にでも殺される可能性があったから生存率の高い選択肢が選ばれたんだ。だが、お前の時は違った。

 考えてもみろ、腹を痛めて生んだ我が子が産後すぐに施設に入れられ我が子じゃなくなる母の苦しみを……、女のお前なら少しは理解出来んだろ。故に求めた筈だ。第二子を——自分達の手で育ててあげられる本当の我が子を求めたんだよ。

 そして、此処からはまた聞いた話になるが、お前の事を出産の時期は、お前の親父さんは今の“たこ焼き屋 花澤”の店を自営業として立ち上げる準備に忙しかったらしい。

 お前と夏樹の母親はお互いの両親にバレないようにする為、当時住んでた街から遠く離れた病院に通い、その近くのホテルを借りて生活していたそうだ。

 つまり丁度この時期、お前の母親と親父さんは別々の行動に出ていた。

 これが駆け落ち前の準備だ。つまり、あの話の百日紅のくだり、あの部分の告白はこの別行動をとる直前に行われたものであって、実際は百日紅を指差したなんてエピソードはなかった筈だ。

 あったのは“約束の日、約束の場所でまた会おう。そこであなたを待ってる”みたいなそんな告白だけだったろうぜ。あって親父さんの告白までがあの話の語ってる真実だ』



「じゃあ百日紅の花言葉がどうのっていうのはただの付け足し? っていうか、その話だと、私と夏樹のお母さんはどうなったのよ」



『恐らく、交際を反対されたのは何も夏樹を生んだからだけじゃねぇ。お前もさっき言ってたが、それに加えてもう一つの理由、二人は若かったんだ。恐らく十代。そしてこれは俺の例えばの話だが……、お前達の母親は二度目の出産時に体力が持たず、命を落としたんじゃねぇかって結論に至った。ただでさえ、身体がしっかりと出来上がっていない十代の内の出産にはそれなりのリスクが伴う。時代も今とはまた違うしな、医学レベルがどの程度かも分かんねぇ。その上、元々病弱で身体の丈夫な人ではなかったらしい』



「そんな!! でもそれってまだ例えばの話よね? まだ……」



『いや、裏付けるものが一つだけある。偽りのストーリーを無理に作るために付け足された花、百日紅だ』



「百日紅……?」



『そもそも、おかしく感じなかったか? 真剣な告白に対し、そこら辺に咲いてる花を指差して即興で返事を返すなんて、まるで無理矢理付け足したかのようなエピソードじゃねぇか。実はこの百日紅の花には名前の由来になったとされる有名な伝説があってな』



「伝説? どんな?」



『確か……、その昔、旅をしてた王子がいてな。その王子が旅の途中で竜神とやらを倒し、そこで生贄にされていた娘を助けて、その娘と恋人関係になるんだが、王子は旅と修行の途中で、娘と一緒にはいられねぇんだ。だから修行が終わる百日後に迎えに来ると約束し、娘と一旦別れるんだが、娘は約束の百日目を目前に他界。後に娘の墓から紅色の花が咲く木が生えたとかで百日紅って名付けられたらしいんだが、今の問題はその名前じゃねぇ、この伝説の内容だ。まるで、お前らの母親と父親にそっくりじゃねーか?』



「また会う約束をしたのに、恋人が再会する前に他界……か」



『もし親父さんがこの百日紅の由来を知っていたなら、こういう真実の隠し方もあり得るだろう。昔の伝説の恋物語の中に、自分達の本当の真実の物語を重ね合わせ、隠した。赤い薔薇と百日紅の話については以上だ』



 大和の話が本当なら、お父さんとお母さんはきっとその病院で再会する約束をしてたんだろうな、と思った。

 たこ焼き屋を立ち上げ、お母さんの元に戻った時、私を置いて先立ったお母さんの事をお父さんはどう思ったんだろ……。

 その後、私とこの街にやって来て、私を育てながらの自営業はどれだけ忙しかった事だろう……。

 夏の事に気付いたのはいつ位だったんだろう。


 同時に分かってしまった事がある。

 お父さんの真実の伝え方がどうして昔話をするかのように回りくどかったのか——お父さんは、認めたくなかったんだ、お母さんの死を。


 夏のお母さんが私と夏の関係を明かさなかったのも、夏と自分が本当の親子じゃない事を言い出せなかったからなんだ。


 私達のすれ違いは、そんな根本的な部分から既に始まっていたんだ。



『それとだ——』



 電話の向こうで 、大和が立ち止まったのが分かった。

 足音が止まり、その周囲がざわつき始めている。



「ん? ってか、大和、今どこに居るの?」



『その話もそうだが、お前の知りたがっている夏樹の連絡先の事でもある』



「……?」



『お前……今日は夏樹の結婚式だぞ』



「…………はぁ?!!」



 もう慌てふためいた事に間違いはない。

 電話を切り、お父さんになんて言ったかは覚えてないけど無茶苦茶な言い訳をつけて、私はすぐさま走り出した。


 一瞬聞き間違えたかと思った位に衝撃的だった。

 夏が……、結婚?!


 久し振りの全力疾走。

 大和に聞いた式場はこの街の式場だった。

  式自体には間に合わないけど、夏には会える!

 って言うか、帰って来てたなら私にも連絡してよ! もう!!

 

 すれ違う街並み、人、車、七年前の大雨の中とは違い、色んな人の視線が私に向いていく。

 そんなの気にしない。

 今は急がなきゃ。


 なんかもう色々な事があり過ぎて収集つかないんだけど、最後の最後に結婚式場まで全力疾走って……、これ何かのドラマ撮影?! なんの罰ゲームなのよ!


 走ってる途中で大和からまた着信が入って、私は走りながら電話に出る。



「何?!!」



『お前、来てんのか?』



「行ってるわよ! だから夏捕まえといてよ! 披露宴とかあるんでしょ?!」



『おう、乱入して来い。幼馴染みからの祝いのスピーチの時間は空けといてやる』



「そりゃどうも!」



『受け付けにも何とか言っといてやるよ、招待状持ってねぇだろ』



「ったり前でしょ?!」



『これで貸しニだな』



「花澤のたこ焼き一年分でどう?」



『いいねぇ、のった!』



「毎度!」



 そう言って通話を切るなり、私はそのまま走り続けた。





 披露宴会場の外に着いた時には、もう一生分走ったんじゃないかと思うくらい息切れしていて、髪はめちゃくちゃに跳ねまくってるし、冬なのに身体は汗でびっしょりだった。

 まるで七年前の事を思い出す。

 あの頃の私ならきっと、今日此処に来ようとは思わなかったと思う。

 あの時、私を追いかけてくれたのがみっちゃんじゃなかったら——

 あの日、みっちゃんが私にくれた言葉の数々がなかったら、私は今日、何の躊躇いもなく走り出したりなんてしなかったと思う。


 七年前の私なら、此処にはくるべきじゃない、そう判断してたに違いない。

 でも、今は違う。

 私はこの七年、進めなった道を進むために、今日、此処に来なくちゃいけなかった。

 今ならそう思える。


 披露宴会場の扉の前まで来て、私一度、大きく深呼吸した。

 心臓が騒ぐ音が聞こえる。

 その音の質が、呼吸が整うと同時に、色を変えていく。


 私は思い切って扉を開けた。

 両開きの扉を、正面から、堂々と。


 一気に会場が騒つく。

 私に視線が集中している。

 夏の事はすぐ目に入った。

 まぁ、目立つ格好で目立つ場所に座ってるしね。

 大和はスピーチの壇上で、透かした様に、やっと来たかとでも言いたげに笑っている。


 いくらこの街の中っていっても走って来た訳だから、それなりに時間がかかってしまったのは言うまでもないけれど、どうやらおかげさまで、私は最高のタイミングで登場出来たらしい。


 私はゆっくりと会場内に一歩を踏み入れ、真っ直ぐと壇上に向かった。


 スピーチの壇上に立つと大和がスタンドマイクの前を譲ってくれた。



「遅かったな、式は終わっちまったぞ」



「いいよ、それは別に見たくなかったし」



 答えながら、マイクの前に立ち、大和が壇上から降りたのを確認して私はまた深呼吸する。

 深呼吸してから、唖然としている周りを見渡し、驚きから呆れたって表情になっている夏の方を見る。



「えー、皆さん、突然の乱入でこの様な祝いの席を騒がせてしまい、本当に申し訳御座いません。私は決して、そこにいる新郎を奪いに来たとか、そういう訳じゃありません。ですから少しだけ、少しだけ私に時間をください」



 そう言ってから夏の方を見る。

 新郎新婦で並んで座っているその景色は、こうして見ると、改めて胸が痛んだ。



「まずは夏、そして夏とご結婚されるそちらの方、この度は本当にご結婚おめでとうございます」



 此処は礼儀だ。

 建前だ。

 本音はあまりおめでとうと言えた気持ちじゃない部分もある。

 それでもまずは頭を下げる。


 そこから私はまた会場を見渡す。

 夏の事も視界に入ってる。



「えー……、私と夏は小さい頃からの幼馴染みで、いつも一緒に遊んでいました。

 幼稚園、小学生、中学生と、いつも一緒でした。

 高校生になってからはそこの大和も加わって、いつも三人でフザケて遊んでいました。

 ですが、私が大学一年生のある日、私は夏に……猿渡君に別れを告げられました」



 言いながら、泣きそうになるのを必死に我慢する。

 言うって決めたんだ。

 前に進むって決めたんだ。

 頑張れ、私。

 頑張れ、私。



「——私は、私の気持ちを何一つ聞いてくれず、ただただ別れを告げていきなりこの街を出て行った猿渡君に、ずっと言いたい事がありました。

 猿渡君はいつも一方的で、気持ちを打ち明ける時も、約束をする時も、自分からしておいて忘れてしまう癖があります」



 もう……駄目だな私は……。

 結局、話している途中で、涙が頬を伝い始める。



「——えっと……、さ、猿渡君は、いつも鈍感で、女の子の決死の覚悟にすら気付いてくれない事が多々あります。一言じゃ分かんない事を一言にまとめて、理解をこちらに丸投げにする事もあります……でも、でも私は、そんな猿渡君の事が大好きでした」



 涙がどんどん溢れてくる。

 でももうちょっと、もうちょっとだけ……。

 私は自分の首にぶら下げたハートの片割れのネックレスを握りしめた。

 親友から貰った、親友が大事にしてたネックレス——。



「——私は、優しくて、いつも私の隣にいてくれて、笑う時も泣く時も一緒に過ごしてきた夏の事が本当に大好きでした。

 だからと言って、この結婚に反対しに来た訳じゃありません。

 私は今日、どうしても、七年前に伝え忘れたこの一言を言うために此処にきたんです。

 これから、私も前に進む為にこの言葉を今日、言いに来たんです」



 震える声が、涙が、止まってくれないまま、私は最後の一言を絞り出した。

 此処は終わりじゃなく、まだ一歩目だ。

 私は夏の方に身体を向けた。



「——夏……本当に大好きだったよ。

 私は夏となら本当に砂漠で生活出来るくらいの勢いで、大好きだったよ……。

 結婚……本当に、本っ当におめでとう。

 どうか、悔いのない今を生きて、目一杯……幸せになってください。

 これは……これは、私の……切なる願いです」



 もう、限界だった。

 私のスピーチは此処までだ。

 私は、会場全体をもう一度見渡し、深く頭を下げた。



「お騒がせして本当に申し訳御座いませんでした」



 これ以上の言葉はもう喋れそうになかった。

 私はそそくさと壇上を降り、会場内を真っ直ぐ出口まで向かう。

 当然だけど、誰も拍手なんかしない。

 こんな突然の乱入者に優しくしてくれる程、現実は甘くない。


 ――ねぇ夏……私は今でも思うよ。

 私達にはもっと違う選択肢があったんじゃないかなって。

 きっと、選ばなかった“どれかの未来”では、私達は笑って今日という日を迎えられていたんじゃないかなって。

 普通に私が幼馴染み代表として挨拶してさ。

 大和と二人で夏の事茶化したりして……。

 まぁ今日という日じゃみっちゃんが来れなかったのは残念だけど。

 でもきっと、私達の選択次第ではこの未来だって変えられた筈なんだよ……。



 披露宴会場の外に出ると、大きな噴水があって、私はその噴水の前で、すぐに泣き崩れた。我慢の栓が外れたみたいにその場に座り込んで、泣いた。

 けど——



「おい、相変わらず泣き虫か?」



 聞きなれた——でも凄く懐かしい声が後ろから聞こえてきて、私は驚き、すぐに振り向いた。



「夏……?」



「おいおい、僕の顔になんかついてるか? なんでそんなに驚いてんだよ」



「あ、えっと……大丈夫なの披露宴……」



 私は立ち上がりながら訊いた。



「少しだけ、特別に中断してもらってきた。僕の結婚相手がさ、女の子に恥かかせまま帰らせるなって」



「そうなんだ……凄く、信頼されてるんだね、その人に……。普通は言えないよ、そんな事……」



「うん、そうだな。——にしても、しばらく見ない間に随分と変わったな」



「変わってないよ。私は最初から何も変わってない。ずっとあの頃の気持ちのままだもん。私が変わったんじゃなくて、私を見る夏の目が変わったんだよ……」



「ううん、変わったよ。昔の雪なら、披露宴会場に乱入するなんてしてなかったと思うぜ?」



「……うるさいよバカ……」



「雪、ごめん。七年前、もっと早く雪の気持ちに気付けていたら……」



「謝らないで。きっと……きっと何も変わらなかったよ……」



「かもしれない。でも、何かが違ってたかもしれない」



「今更だよ……。ねぇ夏」



「ん?」



「今度は約束守ってよね」



「約束?」



「来世で会おうってやつ!」



「あぁ——うん……、分かった。じゃあ来世じゃ必ず僕から声をかける様にするよ」



「言ったからね? じゃあ私は、もう世の男性全員を虜に出来る様な、もうとんでもない超清純派美女に生まれ変わって待ってるから!」



「ははっ——超清純派美女って……でも、その方が分かりやすくて助かるかも」



「後、次は告白は絶対に私からするっ。夏に任せたらそのまた次の来世まで結ばれなさそうだから……」



「そこまでは選べないだろ」



 と、夏は笑った。私もつられて笑う。

 なんだろう。

 七年振りに交わした会話は、七年前と変わらず他愛もなくて、最後には私達はお互いに声に出して笑っていた。

 変わっていく街や、人や、未来がある中で、決して変わらない過去や友情がある事に、私は無性に感謝したくなった。


 この時間がこのまま止まってくれればいいのに、なんて思ったけれど、私達は進まなきゃいけない。

 もう、行かなくちゃいけない。



 一通り笑った後、私達はお互いに小指を差し出して向かい合った。


 夏は披露宴会場に、私はお父さんのたこ焼き屋に、この指切りが終わったら、今度こそ背中を向けあって——さよならになる。


 願わくば来世では、この先の季節、春の桜が咲く頃に出会えれば嬉しいなと思う。



「じゃあまた、雪」



「うん、またね、夏」



 最後は笑って別れよう。

 これは終わりでありながら、始まりなんだから。

 だから、いつかまた——



「「来世で会おう」」


頭の良い人や物書きなどにありがちなのが言葉の裏を読み過ぎるという事です。

ただし、気をつけてください。

全ての言葉に必ずしも意味があるわけじゃありません。そして意味深な発言をする人というのは必ずその前に「これは意味深な発言だぞ」と自分から合図を発していたりするものです。

あまり人が話す一言一言の裏側全てを考えていると、これほど無駄に疲れる人生もありません。どうか程々にしてください。

大事なのは考察する前の観察力です。


さて、どうも皆さんご無沙汰しております、花鳥秋です。


いやどうも言葉のすれ違い、思い込みというものは恐ろしいものですよね。

常々実感しております今日この頃です。


さて、もうお気づきの方もおられるでしょうが、実はこの来世で会おう前編後編は他の短編小説、カンハレの正統続編となっており、舞台はカンハレより一年後になっております。

とは言ってもカンハレを読んでおられない方でも楽しんで頂ける作品作りをと思い執筆しておりましたので、そのようになっていれば嬉しい限りです。


この物語では書ききれなかった取り残しが幾つか存在しています。

そう、橋本美織は七年前以降どうなったのか、とか。

どうして雪があのネックレスをつけていたのか、とか。

他にも色々。

最低限の前編での伏線は回収したつもりなので、後は読者様の想像を膨らませて彼らの人生を想像していただければ幸いです。


それともう一つ、お気づきの読者様はおられますでしょうか。

実は夏樹と雪の来世について……いえ、やはり秘密は秘密にしておきましょうか。

後書きで物語を語り過ぎても面白味にかけるというものです。笑


ではでは、皆さん、また来世で……、いえ、次の後書きでお会い出来る事を祈りつつ…


see you.

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― 新着の感想 ―
[一言] 花鳥さん いつもステキなお話を読ませていただきまして、ありがとうございます! カンハレから読んでしまったので、ちょっと残念な自分ですが… いつも泣かせるお話が本当にお上手で、しばらく感傷的に…
2019/05/02 13:28 退会済み
管理
[良い点] 切ない結末ですが、お互いに気持ちの区切りをつけられた夏と雪の前進を思わせる爽やかなラストが印象的でした。 [一言] 結婚式でのスピーチはちょっといかがかな…と、雪の葛藤を吐露する大事な場面…
[良い点] 夏が消えてからの年月、詳細な記述はないものの、どれほどの辛苦を感じてきたのかが、披露宴でのスピーチとその後のやり取りの描写で知れるあたり。 小説とは、事実の羅列だけで語るものではないと解り…
2017/11/08 21:56 退会済み
管理
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