第五十一話「始まりは15年前。吹雪の中の×××から 後編」
今から10年以上前。
ちょうど今の季節と同じ冬のことだった。
氷倉大介は遊び仲間と共に氷清岳へスキーに訪れた。
だが、整備され他のスキー客のいるゲレンデで滑るなど、つまらないと仲間などと言い出して、地元から立ち入り禁止にされている区域に足を踏み入れた。
誰もおらず踏み固められていない新雪を滑るのが醍醐味とばかりに奥へ奥へと滑った。
そして、帰る道を見失った。
気がつくと樹氷と雪に閉ざされた出口のない峡谷。
そして猛烈な吹雪に遭遇したのだった。
まるで山の怒りにふれたかのように荒れ狂う雪に仲間は離れ離れとなり進退窮まった。
大介は、かろうじて、見つけた樹氷林の吹き溜まりとなっている窪みを見つけた。
ここならなんとか吹雪だけは凌げそうと身を屈めた。
なんとか救助が来ることを願いつつー。
「寒い、死んでしまう」
それにしても寒かった。いつまでもこうすることはできない。
凍え死ぬという恐怖にもかられた。
日頃は信じていない神にも助けてくれとすがった。
すると、しばらくして人のような気配がした。
救助がきたものと思い大喜びで窪みから顔を出した。
だがきたのは助けではなかった。
不気味に佇む人影。
「だ、誰だ……あんたはーー」
そこにいたのは雪のように白く若い女性だった。
荒れ狂う吹雪と凍えるような寒さの中、一枚、白い和服のようなものを羽織っているだけなのに平気な様子で立っていた。
「まあ、まだ意識があったのね。そのまま眠ってしまえば苦しまずに済んだのに」
女の声は突き刺さるように冷たく鋭かった。
「あなたはーーあなたは掟を破って山の日に禁じられた地へ入った。だからあなたは罰を受けなければならないわ」
「な、なにを言ってるんだ」
「でも安心なさい、私たちの氷の中で永久に魂を止め続けるのだから」
女の体を取り巻くように吹雪がつむじ風となる。
ヒュウウウウと不気味な音を立てて。
「ま、待ってくれ!」
ようやく男も、これが雪女だと悟った。古くからこの国に言い伝えられている、時に美しく恐ろしい存在に。
なんとか、生き延びねばーー。
死を逃れたいという本能的な欲求は最後の最後に思考を異常に回転する。
「き、君は……ああ、なんて綺麗なんだ」
「何を言ってるの? あなた」
「ああ、こんなに綺麗な人は人間の世界にもいないーー」
「!?」
実際女は、とても美しかった。街で見かけたら、きっと声をかえただろう。
有らん限りの手を尽くして口説きテクニックを駆使した。
そして、体と体の関係を持った。それもこれも生き残るために必死だった。
そして見事に落とした。雪女は自分に懐き、惜しくなったのか自分を助け、麓の村に戻した。
「必ず、必ず戻ってきてくださいーー」
また冬になったら迎えに来ると言ったきり、大介は再び山を訪れなかった。
山で見たことは全て幻。そう思うことにした。
やがて御曹司として会社に入社し順調に、キャリアを重ねて普通に紹介された相手と四年ほど前に結婚した。今の妻、晴子だ。
遅めの結婚だったのはその後も遊び続けてたからーー
氷清村での出来事は忘れていた。いや忘れようと記憶の奥底にしまいこんだのだった。
大介ははっきりと思い出した。
目の前にいる女は確かに、あの時の雪女の幻に間違いなかった。
もう10年以上前になるのに全く変わらない。
「大介さん、帰らないでという私のお願いに、次の冬には必ず会いに来るから待っててほしいというから麓の村に戻したのに……」
確かに大介は約束をし、そして守らなかった。再び麓の村に生還し、街に帰ったら忘れた。
あれは夢だ。雪女と出会った。夢の中の約束は約束ではない。
「次の冬もそのまた冬もこない……どんなに私が思い焦がれたか……」
大介の脚が寒さでなく恐怖でふるえた。
もし夢でなく現実ならばーー自分は氷にされるのだ。
「いいえ、わたしはいいんです。だって大介さんとの絆は地獄に天から垂れた蜘蛛の糸よりも切れない間で結ばれているから……」
大介ににじり寄る。大介の顔はひきつった。
「でも、凍子がどうしてもあなたに会いたいというから」
「と、凍子?」
「だ誰だ?」
「なにをおっしゃるの? 決まってるではないですか」
女は全く疑うこともなく言った。
「大介さん、あなたと私の間に生まれた子ーー。あなたの娘よ」
「むす……!?」
たぶん、その時の顔を写真に撮ったら、変顔コンテストで大賞を取ったと思うくらいに驚愕の顔を浮かべた。
「わたしと大介さんのかけがえのない宝石――その宝石の頼みなんですもの。でないとこんな薄汚れた人里まで、わざわざ来たりなんかしないですわ」
「む、むす……」
口をわなわなと震わせる大介であったが、それ以上に頭は混乱状態であった。
自分に娘がいる。しかも雪女との子。
「だから一緒に山で永久に暮らしましょう――大介さん。今度こそ、何と言おうと、来てください」
大介が、一瞬飛びかけた意識を再びこちらに戻したのは、ここで何とか言わないと自分は山に連れて行かれるという恐怖からであった。
「わ、わかった。ただ……その……じ、時間をくれーー」
「時間?」
大介の苦し紛れの申し出に当然女は顔をしかめた。
「今更何を言うのですーー」
「準備する時間が……ほしい。ほら、いろいろと一緒に暮らすにもあるだろう、新居とか、家具とか……」
「……」
しばらく考え込む様子を見せた。
祈る思いの大介――。
「わかりました、準備ができしだい。ただし、必ずですよ。そう多くの時間はこれ以上待てませんから。凍子のためにも――」
あっけなく、願いを聞き入れた。
一陣の風と雪が吹き込んできたかと思うと、女の姿は消えていた。
大介はため息をついた。
「た、助かった……」
気が付くと、部屋から氷は消え失せ元通りになっていた。
空調から暖かい空気が流れてくる。
椅子に、腰が抜けたように深く座っていると電話がなった。
プルルルルル。
発信は受付の秘書からの内線だった。
恐る恐る受話器を取った。
「副社長、奥様から電話がーー」
ついさっき氷ついていたはずの件の秘書の口調は何事も無かったかのように落ち着いたトーンだった。
「わ、わかった、繋いでくれ」
回線が切り替わる音と共に凄い剣幕の声が受話器から聞こえた。
「あなた!? 今どこにいるの? 電話にも出ないでーー」
大介は思い出した。今日は結婚記念日で早く帰る約束だった。時計を見ると、8時半を過ぎていた
外の送迎の車のエンジン音がまだ聞こえる中、夫が玄関のドアを開けた。
「もう。何時だと思ってるの? せっかく用意して待っていたのに」
待ちかまえていた妻の晴子は案の定、怒り心頭だった。
顔に皺を寄せて、腕を組む。
「今度こそ許さなー、!?」
さらに続けて夫に怒りを浴びせようとしたが、口を噤んだ。
「あな……た」
それ以上、言うのをやめた。
大介は、まるで地獄の閻魔と会ってきたかのように、真っ青な顔をしていたのだ。
「すまない……」
大介は温もりを求めるごとく抱きしめた。顔をくしゃくしゃにして。外から帰ってきたばかりなのか冷え切っているから。
妻の晴子は、それ以上言うのをやめた。夫は、そこいらの男とは違う。
よほど厳しい仕事のやりとりがあったのだろう。
グループ会社の跡取りという重要な役割を担った責任のある身なのだ。
「わかってくれればいいのよ。でも、ちゃんと今回のことは埋め合わせをしてくださいね」
「あ、ああ……うう」
「もう、泣かないで」
そのまま大介は、妻の肩で、むせび泣く。まるで恐怖の底から生還したかのように安心した様子でーー。
ここは夫の安らぎの場所だ。自分がこの家を守らなければという思いを強くした。
「あら……肩に……雪が」
大介が自分の肩をみると何故か雪が溶けずに肩につもっていた。
「ひ!」
「変ね、まだ雪は降ってないのに……」
晴子は夫が、まだ恐怖でおびえた顔を崩さないことに首を傾げた。
それから一か月後。
氷倉グループ本社の五十五階会議室では、再び喧々諤々の会議が行われていた。
副社長自ら発案のプロジェクトの達成が議題だ。
「副社長、この氷清村への進出プロジェクトですが、スキー人口が長期減少傾向にある中でのスキーリゾート開発の計画はいささか無謀かと」
「資材の確保や人員など採算に難ありと思われますがーー」
突然の指示に、部下の社員や幹部たちは、首を捻った。
「何をいっている、停滞傾向にある分野だからこそ、そこに新たな成長を見いだすんだ。我が社がその先陣をきるのだ」
新たに始まったプロジェクトに、戸惑う社員たちに大介は檄を飛ばす
机の上で拳を握り、焦りの声をにじませる。
会議は静まりかえり、出席者一同はその必死さに目を点にする。
「あ、いや……」
コホン、と一つ咳払いをした。
「ともかく、進めたまえ、まずは……ホテルの建設だ。わたしも滞在できるように場所を確保してくれたまえ」
「は、はい!」
副社長の強い命令に会議のメンバーたち一同はあわただしく席を立った。




