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第五十話「始まりは15年前。吹雪の中の×××から 前編」

 氷倉大介は、朝食を済ませて、出勤前の一時を優雅に過ごしていた。

 雇っている給仕が用意した朝食は既に片づけられ、コーヒーカップを手に取った。

 最高級とされる豆を挽きたてたコーヒーの香りを堪能しつつ、経済を主に取り扱う新聞に目を通す。

 ダイニングから望める、広大な庭の植栽は、きちんと手入れが行き届いているが、生憎冬で、緑は少な目だった。その中で寒椿だけが綺麗に花を咲かせている。

 地面は早朝から冷え込みで霜が降りていて薄く白く染まっている。庭の池にも厚い氷が張っていた。

 天気予報も夕方から雪がちらつくと予測していた。


「旦那様、そろそろ出発のお時間でございます」


歳のいった家政婦が告げる。


「さて……行くか」


 壁に掲げられた豪華でクラシックな時計を見て、出勤の時間が迫っていることを確認するとコーヒーカップを置いた。

 立ち上がろうとしたとき、妻の晴子から声をかけられた。


「あなた、今日は私達の結婚記念日ですからね」


 晴子はもう一人の家政婦に化粧と着替えを手伝わせている。今日も仲間内で舞台を観に行くとのことだ。


「ああわかってるさ」


 大介は、高級スーツに身を包み、鏡の前でネクタイを締めた。


「ここのところ、よく外でお酒を召し上がってるようですが、今日は必ず早く帰ってきてください。この間の友人とのランチ会、お仕事で欠席したのですから――」


 妻の晴子は口やかましく嫉妬深い良家の箱入り娘であった。小学校、中学高校大学。全て金持ちが通わせる女子校だ。我儘も全て聞き入れられてきたため我が強い面があった。

子供はいないが、趣味や付き合いで多忙な日々を送っている。


「わかってるさ」


 玄関の外から車のエンジンの音が聞こえる。

 既に門の中に車が入って来ていて、運転手が大介が出てくるのを根気よく待っていた。


「いってくる――」


 黒塗りの高級外車は、寒い空気の中排気筒から白い煙をあげている。

 運転手がうやうやしく一礼をしてドアを開ける。


「いってらっしゃいませ」


 使用人達の見送りの言葉を背にそのまま大介は高級外車に乗り込んだ。


 氷倉大介は氷倉財閥の副社長を務める。

 わずか35歳でこの地位に上り詰めたのは、慶葉大学経済学部卒、海外留学経験あり、という華やかな経歴だけが要因ではない。

 グループの御曹司という立場が、順調にその地位に伸しあげたものだ。

 若い頃は、甘いルックスと御曹司という立場を併せて、プレイボーイでならし際どい遊びや派手な女性関係にふけった。

 だが、将来の社長という立場でグループ会社に入り、今の妻と結婚をしてからは、そういったものは卒業し、順調にキャリアを積み重ねていた。

 既に一族の後継としての内々の指名を受けており、広大な敷地の家も父から譲り受けた土地であった。

 次期社長は間違いなし、は衆目の一致するところ。華麗な一族に生まれた大介は華麗な人生を送る最中であった。ただし子供がいないのが唯一の悩みの種ではあったがーー。




 そして、その大介の下に向かう一人の着物姿の女がいた。


 無数に張り巡らされた道路に、どこまでも続くビル群。

 行き交う車と人々。クラクションとエンジンの音。都会の雑踏。

 その中を女はゆっくりと歩みを進めていたが、ふと足を止めるて顔をしかめる。

 排ガスまじりの淀んだ空気とやかましい喧噪は女を不快な気持ちにさせた。


「これだから、人間の住処は……汚らわしい」


 眩暈でも感じたのか、口に手を当てる。


「もし、そこの方、すみませんが」


 工事現場の前にいた作業員の男に声をかけた。


「氷倉ビルのいる場所はどこでしょうか」


 普段、男職場に身を置く作業員は、綺麗な着物姿の女に話しかけられたので、驚く。


「氷倉? ああ、あの馬鹿でかいビルがそうだよ。あの鬼の角みたいに尖がったビルが――」


 離れた場所に見える高層ビル群の中でも特に高いそのビルを指さした。


「ありがとうございます」


 女は氷のような微笑を浮かべつつ礼を述べる。


「なーに、これぐらい……!?」


 男は言葉を詰まらせた。女から漂ってくる冷気を感じたのだ。

 作業員の男は呆気にとられつつ見送った。


「なんだ、おめーあんなべっぴんさん。せっかくなんだからしばらく話しゃよかったのに。もったいねえ」


やりとりを少し離れたところで見ていた別の作業員の男がひやかした。

だが男は身を震わせて首を振った。


「いや、あれは……どんなに綺麗でも手を出しちゃいけない類の女だ」


男は背筋を震わせた。



 やがて女が至ったのは、スーツに身を包んだ男性女性が行き交うオフィス街。

 場違いなほどの白地の着物に身を包んだ女性に、時折振り返る者もいるが、忙しい都会の仕事に明け暮れる人間たちは、ほとんどは気にしない。


「ここね……」


 ビルの真下で、女は天まで届こうかとみまごうその高層ビルを見上げた。


「ようやくみつけた……大介さん」



 氷倉グループ本社ビル五十五階会議室では、朝から幹部を集めた会議が続けられていた。

 幹部社員たちが机を囲み、額に皺を寄せて議論を交わす。

 その真ん中に副社長として座る大介は、提出された資料に目を通すと、担当者をジロリ、と睨む。

 恐縮しきった説明担当の若い社員が身を縮ませた。


「君! この報告書はなんだね。沖縄のリゾート開発が、当初の計画から大幅に遅れているじゃないか」


 大介は資料の紙をバサッと放り出す。

 若い副社長の叱責に会議の空気が凍る。

 それは、沖縄で行っているリゾート開発の資料だった。


「工期も遅れている上に費用も膨らんでいる、いったいどういうことかね」

「そ、それが用地の取得に予想以上に経費がかさんだ上に、資材の値上がりが……」

「そんなことは今更出す話じゃないだろう。あらかじめ予測できる話だ。早急に問題点を洗って改善計画を作り直せ!」

「は、はは……」


 卑屈に頭を下げ持ち込んだ資料一式を抱えて、いそいそと会議室から下がっていった。


「次は?」


 ギロリと会議の進行役の幹部を睨む。

 一回りほど年上のその幹部も恐縮しきる。


「は、次は東京の駅前地区再開発の案件で――」





「まったくどいつもこいつもなってない」


 重苦しい会議が終わった後、自分のデスクのある副社長室に戻りに大きく息をついた。

 秘書が運んできた熱い紅茶に口を付けて喉を潤した。


 会議が終わっても、文書の決裁、来客への応対など、まだまだ多忙を極める仕事が残っている。

 部屋の窓から見える日もそろそろ沈みかけている。


「おっと。急がなければ……」


 大介は、朝の妻との約束を思い出した。

 妻との結婚記念日。

 仕事、付き合いの酒席など夜も多忙なことが多いが、流石に今日は帰らなければという意識が大介にあった。

 秘書を呼ぶため椅子から腰を上げ、電話を取ろうとした。


「!?」


 だが、受話器が取れない。

 固まっている。

 

「これは……」


 よくみると冷たく凍っている。

 張り付いていて取れなかったのだ。


「さ、寒い……」


 気が付くといつの間にか寒かった。

 暖かい空気を運んでくる空調がまるで効いていない、それどころか、霜が降りている。


「な、なんだ、一体何がーー」


 ついさっき口を着けたばかりの熱い紅茶が、凍っている。

 部屋全体が冷凍庫になったかのように寒い。

 その上、妙に静かだ。オフィスは人の気配が必ずしたが、足音も会話も聞こえない。


「おい、誰か!」


 異常事態に秘書や副社長室付けの社員を呼ぼうとする。

 すぐ隣の部屋の秘書を呼ぼうと副社長室のドアをあけた。

 だが。そこにいたのは、氷になっていた秘書だった。

 30代過ぎのベテラン女性秘書が備え付けの固定電話を耳に受けたまま、一ミリも動かず、その姿勢で固まっていた。時が止まったかのように、そして自分に何が起きたのかわからないようで、笑顔のままだった。

 体中に霜が降りている。


「ひいっ、な、なんだこれはーー」


 その時。

 ぎい、っと廊下に通じるドアが開いた。


「お、おい……」


 だが、入ってきたのはまったく違うものだった。


「はっ」


 若く綺麗な女だ。肌も雪のように白い。何故かやはり白い和服を着ている。

 部屋に入ってくるなに、大介の姿を認めて、鋭く細い目を、見開くように輝かせた。

 胸に手をあてた。


「大介さん!」


 小走りに大介の下に、駆け寄った。そして大介に躊躇うことも無く抱き着いた。

 冷たい体に、ぎょっとなった。


「大介さん、会いたかった」


 女は、猫のようにまとわりついて離れない。


「だ、誰だね、き、君は、一体なんだと言うんだ」


 女は不思議そうに顔を上げた。


「誰とは……?」


 意味がわからない、という表情をする。


 記憶の糸を必死でたどる。

 10年以上も前のかつて遊んだ女性たちを一人一人思い浮かべる。

 確かに若い頃は、羽目を外し、同時に複数の女性と関係を持ったこともある。

 だが結婚と入社の際に、今後の出世キャリアを考え全て清算したはずだった。

 遊んでいる際も慎重に慎重を期し、ゴムは必ず付けるほどの念入りだった。

 抜かりはないはず――。

 女はにこっと笑い、長く黒い髪をかきあげる。


「まあーー大介さん、冗談が上手い。わたしのことを忘れるわけないのに」

「ま、まて……」


 思いつく限りの人物の顔を浮かべるが一致しない。

 いつまでも、思い出す様子もなく反応を見せない大介に笑顔が、消えてゆく。


「まさか本当にーー」


 女の顔は、みるみる冷酷な表情に変わってゆく。


「忘れてしまったの?」


 女の顔が、冷たい恐ろしい顔になるにつれて、大介の見覚えのある顔へと変化してゆく。

 記憶の糸とつながろうとしていた。


「は、ま、まさか……」


 確かに存在した。唯一、その後関係を断ち切っていない、そして体の関係まで持った相手がいたことに――。

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