第三十六話「雪乃の冬」
氷清岳は、一年中雪が消えることがないと言われている。
夏の間も、白い雪が頂上から中腹にかけて、覆いかぶさるこの山では、冬はまさに全てが雪だけの世界となる。
山肌も凍てつき裾に広がる森も樹氷と化す。
雪耶の母、雪乃は着物姿のまま一人、険しい山並みを気ままにゆく。
冬の間は登山者も立ち入らない峡谷に差し掛かっても恐れない。
「やっ」
大きく跳躍すると、崖のようにせりたった岩場を軽々登り、飛び越えてゆく。
人間の間では岩上りの難所としてしられ、特に冬場は滑落の危険があって最上級クラスと称されるその場所を命綱もなく、落下の危険も顧みずに軽々と越えてゆく。
鳥が空を飛ぶことを当たり前とするかのように、凍り付いた崖もわが物としながら――。
やがて尾根を越えて、とある峰の頂上にあっさりと到達する。
「んー、今日はいい眺めねえ」
空気が澄んだ雲のない日は遠く望める。
また別の日は雲海が広がる。人間もこのスポットを絶景のポイントとして登ってくる者もあるが、今は天候が不安定なため、近づく者はいない。
事実、既に真っ黒い雲が西から大軍が押し寄せるかのようにやってきていた。
間もなく天気が大荒れになる。厳しい氷清岳の冬のつかの間の穏やかなひと時が終わる。
それで雪乃が焦ることはない。
さらに急峻な山の斜面をスノーボードのように滑り落ちてゆく、下部に到達すると、ぶわっと地面の粉雪を煙のようにまき散らして、停止する。
「あはははは」
無邪気な子供のように笑い、雪山を舞う。
広大な一面の銀世界は、雪女が独り占めする楽園であった。
雪の上に寝転び、ふと空を見上げながら、耳を澄ます。
吹雪に耐え続ける樹氷、凍り付いた川の水。そして雪が深く積もった大地。
全てが静かに白く覆われている。
雪乃は感じる。
その凍り付いた木々の枝にも新芽が顔を出しつつある。
あるいは、雪の下の地面では春を待ちわびる花や草木の種たち。
時折雪の下の土の中には冬眠中の動物や虫たちの蠢きを感じる。
表面が、凍り付いた川の下でも岩場の間では魚が身を潜めてじっとしている。
飽きることはない。
「順調ね……この調子なら、皆、春を迎えられそうね」
まだ遠い春に向けて、山は深く長い眠りについているが、その眠りの間にも胎動はしっかりと息づいていた。
この静寂は山全体が賑やかな活動を始める春に向けての準備期間。
雪はそれまでの長い冬の間、全てを覆い尽くし、山を凍り付かせ眠らせる。
一度は枯れた草木や、死に絶えた命が再び輝きを取り戻す。
氷清岳の雪女とは、そうした季節を巡る山の生命の終焉と再生の導き手なのだった。
人間には恐ろしい死をイメージさせる存在だが、本来の姿や役割について理解を持つものは、いない。
女性の姿をしているのは、そのためであるとも言われる。
いつから氷清山に現れたのかは雪乃自身にもわからない――。
しばらく寝ころんでいたその時だった。
「あら?」
雪乃は誰かが近づく気配を感じたが、そのままの姿勢でささやいた。
「こんな人里近いところにまでやってくるなんて、人間嫌い、人の世嫌いのあなたが珍しいわね」
言い終えると雪乃は起き上がり後ろを振り返った。ついでに、うーんと大きく腕を伸ばす。
「ねえ、冷子」
そこにはもう一人別の雪女が立っていた。やはり雪乃と同じように白い着物と赤い帯に身を包んだ若い女性が――。
黒く長い髪をなびかせ、突き刺すような鋭い瞳は、明るく輝く雪乃とは対照的だった。
「雪乃、あなたの子……うちの娘の晴れ舞台を、めちゃくちゃにしてくれたようね」
「ああ、そのことね。わたしも聞いたわ、まったく、うちの子ったらやんちゃねえ。誰に似たんだか」
まったく悪びれずに笑う雪乃に冷子と呼ばれた女は眉を寄せた。
「どうしてくれるの! 雌猿に邪魔されたって泣きながら帰ってきて……可愛そうな凍子――雪女に認められる日が遠のいて……」
「あら、子供の喧嘩に親がでるのは良くないわ」
女の怒りの声を物ともしない様子で雪乃は腕を組む。
「そもそもやられる方が悪いんでなくて? ね、冷子」
その動じない姿勢に冷子と呼ばれた女はさらに怒りを深める。
「あなた、山のしきたりを無視して、勝手に人の世で好きに暮らしをして……またお仕置きを食らうわよ、いいの?」
「あら、そんな法律……どこにあったかしら?」
「ほう……りつ……?」
「憲法には住居の自由と男女の結婚の自由が定められているのよ」
しばらくキョトン、とした後再び怒り顔に戻る。
「それは人間の掟でしょ! わたしたちは雪女……山の掟に従う身なのよ」
「それは冷子の決めることではないと思うよ」
「あなたのそういう人間かぶれしたところ、昔から嫌いなのよ」
「わたしも冷子の頭の固いところ、苦手だなあ」
悪し様に罵る冷子の口撃をものともず、逆に口に指をあてる。
「あ、でも……そんな冷子が人間と子を為したってことの方がもっと驚きだったけどねえ」
雪乃の反撃開始の狼煙が上がる。
「ぐっ」
雪乃の第一の矢が早くも炸裂する。
「プロポーズの言葉はなんだったのかしら? 二人のなれそめは? どういったきっかけでお近づきになっていったのかしら?」
「ぷ……ろ……?」
「あ、ひょっとして、冷子ってデキ婚?」
「で……」
悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
痛いところを疲れたように冷子はのけぞった。
「そういうあなたは……どうなの」
「あたしは、きちんと交際を経て、結ばれたわよ。勢いでなんてしないわ」
経験豊富な雪乃に軍配があがる。
「ぐぐ……」
だが、冷子と呼ばれる女の方も負けず嫌いなのか劣勢を認めない。
「ともかく、今度またうちの子に手を出したら黙っていないわ」
捨てぜりふを吐いて、女は去っていく。
「あら、もう帰っちゃうの? もうちょっと遊びましょうよ」
余裕の雪乃の言葉に耳を貸さない。
冷子の周囲にひゅううという一陣の風が吹き、雪煙があがったと思うと、その次の瞬間には、その姿は消えていた。
「ふーん、また返り討ちにしてやるんだから」
消えた方向に向かって舌を出す。
新雪の雪に身を投げ出して仰向けに横たわる。
「あーあ、せっかく楽しんでたところだったのに」
そして少し前の青空から一転、厚い雲が覆いだした空を見つめる。雪がチラチラと降り出し始めていた。
「でも……今はいいけど雪耶もいつかは……決めないといけないのよね……」
以前お話した、ショートストーリー的なお話になります。
今後何話かアップしていきます。




