第百十七話「新しい形」
「またお越しくださいませ」
笑顔で最後のお客さんを見送る。
店の扉が閉まる音が響き、ようやく雪乃亭の営業が終了した。
「ふぅ……」
長い一日だった。
テーブルにはまだ使用済みの食器が並び、床にはわずかに落ちた食べかすが残っている。
ボクは気を引き締め、テキパキと片付けを始めた。
皿を重ね、カウンターへ運ぶ。
掃除用の布を手に取り、テーブルを拭く。
慣れた手つきで作業を進めながらも、心の中にはどこかモヤモヤとしたものが残っていた。
―雪哉は今どうしてるの?
夏美ちゃんの言葉が頭をよぎる。
本当はここにいる。でも、それを言えない。
気持ちが胸にのしかかる。
雪ん娘としての力が目覚めても、まだ修行中。
普通の生活を送りつつ、正体を隠しながら日々を過ごす――その矛盾に、時折息苦しさを感じることがあった。
……だけど、そんなことを考えていても仕方がない。
ボクは頭を軽く振って、掃除を終えた店内を見回す。
「さあて」
ボクは店の戸棚からタブレットを取り出し、電源を入れた。
雪乃亭のIT化も強化中だ。
以前に作ったホムページに加えて、SNSのアカウントを作り、少しずつ宣伝を始めた。
おしゃれなカフェみたいに写真映えした投稿はできないけれど、「昔ながらの店」としての味を出せればいい。
フォロワーはまだ10人ほど。
……たぶんほとんど身内だ。
夏美や智則、そして父さんの知り合いがいくつか。
ー本日は営業終了しました! 沢山の方にお越しいただきありがとうございますー
そう投稿して、店の外の景色を撮る。
夕日に照らされた氷清岳を背景に入れる。
このアングルは、ちょっとしたこだわりだ。
アップして数分後、通知が一つ。
「いいね!」
uemuraというアカウントからだった。
(これ……上村さんかな?)
上村さん。ボクがまだ雪ん娘としての力に慣れない頃、雪山で助けた人だ。
彼はSNSが得意らしく、フォローしてくれているらしい。
そして、毎回律儀に「いいね」をくれる。
ボクは小さく笑いながら、タブレットを閉じる。
その瞬間、父さんが手を伸ばしてきた。
「お、貸してみ」
「もう、お父さん……」
タブレットを取られ、画面をのぞき込む父さん。
でも、見ているのはボクの投稿ではなく、別のものだった。
「おはよう、元気? 修ちゃん」
「お店は上手く行っている?」
「お酒飲み過ぎちゃダメよ」
画面に映るのは、雪乃―母さんの姿。
母さんは写真に撮られるのをとても嫌っていたが、今はこうして動画を送ってくれる。
雪山に住んでいるので、普通の方法では連絡が取れない。
氷清山には電波が通じず、基地局を設置してもすぐに駄目になるからだ。
だから、母さんからのメッセージを受け取って父さんに渡すのはボクの役目だった。
「雪乃……」
父さんはタブレットの画面にかじりつくように見入っている。
まるで、大切なものを確認するかのように。
母さんは今、どんな気持ちでこの動画を送っているのだろう?
ボクには分からない。
けれど、父さんの姿を見ていると、少しだけ切なくなった。
「雪乃、こっちは順調だから心配しないでくれ」
父さんはそう呟きながら、スマホを取り出し、短い動画を撮る。
それを、ボクが母さんに届ける。
現代の文通。
普通の家族とはちょっと違う、でも、これがボクたちの形なのかもしれない――。