第84話 曲
隼人は茜を心配しながら見つめていた。今、自分がいる距離と茜がたっている舞台では距離がかなり空いている。
今からフォローをしようにも、この人だかりでは時間がかかるし、行けたとしても、空気の流れを操っている父がいる以上、何かしらのことは要求されるだろう。
「……(あのくそ親父……っ)」
鷹平は焦っている隼人を面白そうに見つめていた。更に隼人は焦りをもち、茜の方をみつめれば、不意にめがあった。
「弾かせてもらいます」
まるで安心させるように茜は微笑んだ。大丈夫だと、心配しないでほしいと。
「……茜っ……」
そんな彼女を、隼人は心配しながらも、信用することにした。
鍵盤の上に手を乗せ、ゆっくりと深呼吸をしてから楽譜を思い出した。彼女がピアノを弾いたことがあるのは、というか弾けるのは殆どない。
精々、『猫踏んじゃった』や『キラキラ星』くらいである。その数少ない弾ける曲で唯一誇れるものがある。
「(……大丈夫、まだ覚えてる)」
昔、一度だけ父が弾いてくれてから、同じように弾きたいと何度も練習したアレを思いだし……
そして、鍵盤を軽やかに叩いた。高音で跳び跳ねるような音楽始まり、低くて複雑に入り乱れた曲は……
「なるほど……リストのマゼッパ、しかも超絶技巧練習曲4番か……」
鷹平は関心したように呟いた。その曲は、プロでも難しく、小学生が弾くにはかなりの技術が必要だからだ。
ショパンのライバルであるリストが書いた作品。高音部、中音部、低音部の3行に分かれて書かれている(いわゆる三段譜のこと)。 当該の曲を演奏するには、高度な技術が必要不可欠となる。
ショパンのワルツ19番と比べれば、レベルが違っていた。
「あの年齢で……」
「すごいな……」
小さくも長い指を使い、複雑で早く早くと高速で動く左手。それを追うかのように、動く右手との戦いのような演奏。
「……っ……」
ミカはその曲を苦々しく思いながら聞いた。
小学校の時、隼人が弾いてるのを聞いて、自分も弾こうとしたが、失敗して、今でも弾けない曲だった。
しかし、その圧倒的ですごい世界観に、周りは惹き込まれた。隼人も、ミカも、この場にいる客も、そして、鷹平さえも……
けれど、中盤辺りに差し掛かった時、突如、張っていた糸がプツンと切れたかのように、演奏が途絶えてしまった。
ザワザワ……
「どうしたんだ?」「何があった?」
ザワザワ……
端整な演奏が突然プツリと切れたことに会場はザワつく。
「(ヤバイ……楽譜とんだ……っ)」
茜は、冷や汗をかきながら焦っていた。
マゼッパという曲は当然のことながら、難しく、高度な技術が必要なものである。
楽譜を見て覚えるタイプの茜では、楽譜なしの状態では頭で覚えているものや指の感覚で弾いていた。しかし、プレッシャーや少しのミスで焦り、脳内の楽譜が白紙になってしまったのだ。
「(思い出せ……思い出せ!)」
これが、プロや経験豊富なものならば、誤魔化しながら出来るが、茜はピアノの経験はほとんどなく、楽譜通りに弾くべきという子供特有の先入観もある。
指が震え、今までどの部分まで弾いていたは思い出したが、この状態では弾けない。メロディーは覚えているが、楽譜は覚えてない。
「(……やるしかない)」
茜は再びマゼッパを弾いた。さっきと同じメロディーではあるが……
「アレンジ曲……」
最初にミカが気がついた。
今、茜が弾いているのは楽譜通りのマゼッパではなく、覚えていない部分にアレンジを加え、茜の指を届くようにしたマゼッパである。
その為、さっきよりもネチッこい印象を与えるが、それでも小学生が弾くには充分すぎるほど充分である。
早さは変わらない、茜は汗をかきながら、最後の跳ねる部分を必死で行い……
「……ハァ……ハァ……っ」
永遠にも思われた曲が……終わった。
辺りは静寂につつまれたが……
「素晴らしい……!」
誰かがいった。
そして、夢から覚めたかのように、夢から覚ますように、割れんばかりの拍手と称賛が送られる。
「ありがとう……ございました」
茜がペコリと頭を下げると更に拍手は大きくなった。




