混乱の港 1
「んー。噂通り、いい香りね」
メアリーがティーカップに入ったギルジマンティーの匂いを堪能する。
レニもそれにならって香りを嗅いだ後、ティーカップに口を付けていた。
「おいしいですね。こんなに美味しいお茶を飲んだのは、初めてです!」
舌鼓するレニはいつになく満面の笑みを浮かべ、その愛らしさを際立たせる。
アストールもその言葉を聞き、ギルジマンティーを口に含む。
ほんのりとした甘みと、鼻を通すような独特のメンソール、それらを上手く引き出した茶葉その物の風味が絶妙にマッチし、この世で最もうまいお茶というにふさわしい。
「んー。いい香りにこの風味、最高。今までのことが嘘のように忘れられそう」
アストールもお茶を飲んで癒されるという、贅沢な時間を堪能していた。
「よかった。ガリアールに来れて。少しは気が晴れる」
アストールは呟くように言う。
このガリアールに来るまでに、色々なことがあったのだ。
暗殺者に狙われて大怪我をしたり、魔法装置の実験体になったり、ここに来てからは幾多の男のナンパを断ったりと、上げればきりがない。
その苦労のことも思い出して飲むこのお茶の良さは、正に格別な至福の一杯。
「全くね。みんな大変だったもんねー。こんな時くらい、ゆっくりしないと大損よ」
笑みを浮かべたメアリーが、再びキルジマンティーで喉を潤す。
だが、そんな至福の時間さえも、三人を完全には癒してはくれなかった。
けたたましい笛の音が外から聞こえ、三人は通りに目をやる。その先には縦列横隊で走っていく、完全武装した騎士達が目に入った。
「あー。何か、嫌な予感がするなー」
鎧を擦らせるガチャガチャという音ともに、石畳の道を叩く靴の音が響く。
笛を吹いていたのは、目抜き通りを騎士隊が通るという合図である。
騎士隊の後ろには、弓や弩を持った弓兵の集団も後に続いていた。
「只事じゃないことが起きてるみたいだ……。あの方向って港だよな……」
アストールは引きつった顔をして、通り過ぎていく騎士達をみる。
「え、うん。多分、でも、今は休憩中だし、何より、エストル絡みかもわからないじゃん。気にすることないって」
メアリーがそうは言うものの、アストールはどうしても不安がぬぐいきれなかった。
こんな治安のいい街で、完全武装した兵士達が物々しい空気で港に向かうことなど、普通ではない。
何かがあったと思い、アストールは即座に決断していた。
「いや、やっぱり行こう!」
「え!? 行っちゃうの!?」
声をそろえて驚くレニとメアリーに、アストールは苦笑いを浮かべる。
「仕方ないでしょ。一応、私も近衛騎士。事件とあれば、行かなくちゃ!」
妙なやる気を出しているアストールに対して、メアリーは小さく溜息をついていた。
(こういう時に限って……。もっとゆっくりすればいいのに。絶対に良い事なんてないのに……)
メアリーの心配を他所に、アストールは立ち上がっていた。そして、レジに向かうと一声かけていた。
「ガリアール駐屯近衛騎士館長のエンツォに、この紅茶代つけておいて!」
アストールはそう言い残すなり、すぐに街道に出ていた。メアリーとレニも、彼女の後ろについていく。
騎士達と兵たちの顔を見る限り、緊迫した表情で何かしらの覚悟をしているのが伺える。
アストールはすぐにただ事でないことが起きているのを察する。
素早く駆けて先頭にいる騎士長の元に向かう。
騎士達を先導する騎士長の横に来ると、アストールは彼に歩調を合わせて声を掛けていた。
「私は近衛騎士代行のエスティナ・アストールだ。何が起きたか教えて下さい」
アストールが問うと、騎士長は立ち止まることなく彼女を一瞥する。
「き、君が? 本当に騎士代行なのかね?」
疑われても仕方がない。服は私服で騎士の証も持っていない。騎士長の反応を予想していたのか、アストールはすぐに答える。
「ええ。私が赴任してきたのは、エンツォ騎士館長から聞いているはずでしょ?」
「あ、ああ、そうだが、しかしなあ。信じられん」
それでも怪訝な表情をする騎士長に対して、追い込みをかけるかの如く言う。
「エストルの捕縛任務の為に、止むなく私服を着ているだけです。それよりも、状況は?」
真剣な眼差しを向けられた騎士長は、アストールが騎士代行なのを信じられないのか、さえない声で答えていた。
「港で妖魔が急に大量発生した。即時に鎮圧しろという命令を受けて、全ての騎士隊に出動がかかっている。貴方にも恐らく、出動命令が出たはずです」
なぜ彼らが緊迫した表情をしているのかが、その言葉でようやくわかった。
彼らはこれらから、見境なく人を襲う化け物と戦いに行こうとしているのだ。
「そ、そうなの!? なんで急に妖魔が!?」
「詳細は分からぬ! 私も命令を受けてすぐに兵を召集して現場に向かっているんだ!」
何も知らない騎士達とは違い、アストールは前にもよく似た事を経験していた。
ゴルバルナの持っていたあの深紅の魔晶石による妖魔の召喚だ。
完全な警備を敷いた城の中に、ゴルバルナは妖魔を召喚した。このガリアールの街に、突然妖魔が現れたとなると、あの真紅の魔晶石を使用した可能性が高い。
「まさか……。本当にゴルバが……?」
不安と共に一縷の望みが、アストールの胸の中で湧いてくる。
もしもゴルバルナが港にいたならば、この様なことが起きても不思議ではない。ここの黒魔術師は絶対に街中で実験などしない。
態々、自分たちの立場を追いやるような馬鹿な集団が、このガリアールで100年以上うまくやっていける訳がないのだ。となれば、ガリアールで黒魔術を使うのは、部外者の黒魔術師となってくる。
(ゴルバルナがいるかもしれねえな……。絶対にとっ捕まえてやる!)
決意を固めつつ、アストールは自らが武器をナイフしか携行していないことに気づく。
(あ、剣を取りに城に戻らないと……。て、んな時間ないか)
アストールはそのまま騎士達について、港に直行していた。港に近付くにつれて、人混みが激しくなっていく。その殆どが港から避難してくる人々だ。
女子どもはもちろん、漁師や船乗り、人夫に観光客、色々な人で通りはごった返していた。だが、その多くが屈強な騎士達を見た瞬間に、安堵の表情を浮かべていた。
鎧に盾、ロングソードで完全武装の騎士達が、今の彼らにはとても頼もしく見えたに違いない。
「どいてくれ! 我々を港に向かわせてくれ!」
笛を鳴らす先頭の指揮官が叫ぶが、なかなか人混みは道を開けない。我先にと逃げ惑う一般市民に、彼らを港に向かわせるほどの余裕がないのだ。
やむなく騎士達は人を掻き分けて港へと近づいていく。
ようやく、人ごみを抜けたかと思うと、そこには無人とかした建物が立ち並んでいる。
「全員、妖魔を一匹たりとも逃すな! このガリアールに土足で踏み込んできたことを後悔させてやれ!」
そうは言うものの、騎士達の足取りは重い。
恐らく、彼らはこれが初めての実戦なのだろう。
ガリアール周辺は比較的に治安が良く、ガリアール城の警備だけなら、外に出ることはない。妖魔の討伐依頼は、狩人や探検者と呼ばれる職業の人間が向かう。
何より、実動隊の騎士隊と違い、警備の兵士たちは戦争が無ければ、ろくに戦うこともない。
おそらく彼らは警備隊の騎士なのだろう。
「ここにはまだ妖魔はいない! 全員気を抜かないこと。どんな妖魔でも、例えコルドを相手にする時でも、必ず複数でかかりなさい。絶対に単独行動はしないこと!」
アストールの檄と助言が突然飛び、兵士たちは怪訝な表情を浮かべていた。
だが、その指示が的確なモノであると、兵士たちはすぐに判断して顔を引き締める。
実戦が初めての兵士たちとなれば、対妖魔戦のノウハウもわからないだろう。だが、アストールの場合、これまで何度も、一人で妖魔と戦ってきた経験がある。
過去、何度か妖魔と戦う際に、新人の騎士を連れて行ったりしたこともあった。大抵は妖魔の気迫と、しぶとさに怖気ずいて命を危険な目に晒していた。
だからこそ、言うのだ。複数で戦え。と。
怖気付いていた兵士達が、急に自信を取り戻し、騎士長は再び怪訝な表情を浮かべる。
そして、そのままアストールに顔を向けて聞いていた。
「あなたは、騎士になり立てなのに、なぜ、そのようなことを?」
「え、あ、いやー。お兄様からの請け合いですわ……。お気になさらないで」
苦笑するアストールに、指揮官は訝しがって彼女を見る。
「そうですか。それよりも、そのような恰好で戦われるのですか?」
指揮官がアストールに訪ねる。
彼女の服は明らかに外出用の、大人らしい女性の服装なのだ。はっきり言うと、戦闘には向いていない。だが、アストールはそれでも、笑顔を浮かべて答えていた。
「仕方ないでしょ。時間がなかったんだから」
アストールはそう言うなり、懐からナイフを取り出す。そして、その場から駈け出していた。
「んじゃ、あと頼んだわね! 私は先に行くから!」
いつもの様にアストールは、騎士隊から離れて一人先行して港に向かう。
「あ、え? お、おい! ちょっと、お待ちを!」
指揮官が慌てて止めようとするが、その横を二人の少女がかけていく。
「というわけですから、私たちは先に向かいますね!」
「メアリーさん! エスティナ様! 待ってえ~!」
メアリーがアストールに続き、その後ろをレニが慌てて追いかけていく。
「ほ、本当に大丈夫なのか?」
自殺行為にも等しい格好の三人が走り去っていく。本来ならば、彼らに護衛を付けるべきであるのだが、それよりも先に走って行ってしまった。
指揮官はどうする事もできず、心配そうに走り去っていく三人お背中を見送るのだった。