見え隠れする黒い影 2
「んんー。見た気もするなあ。どうせなら、あそこのお店、お茶が美味しいから、飲みながら、話を聞いてみないかい?」
アストールの目の前に立っている優男は、優しい笑みを浮かべて路地にある店を指さしていた。
「いえ、結構です。先ほどもいいましたけど、私たち、急いでいるので……」
「そうかい。それは残念だね……。僕でよければ、いつでも声をかけてくれ。君のような美しい女性のためなら惜しみなく協力するよ」
「お気持ちだけ、受け取っておきますわね」
アストールは目の前にいた男から、逃れるようにレニとメアリーを連れて歩みだす。こういったやりとりをどのくらい繰り返したのか、もはや数える気にもなれなかった。
調査を始めてから、昼も過ぎて三時のお茶時、その間に入れ替わり立ち代わりで男たちがアストールに声をかけてきていた。
それがアストールだけならまだしも、メアリーとレニにまで声がかかるのだ。
さすがのアストールも体は一つだ。二人をカバーしきれるわけがない。幸いなことにメアリーが当たり障りなく、レニを守りつつ誘いを断ってくれるのが救いといえた。
「大分なれてきたね」
メアリーがアストールの横に来て、笑顔で問いかける。
「ああー。もう、めっちゃ、正直めんどくさい。ろくな情報も得られないのに、ああやって男どもに愛想よくしなくちゃいけないなんて、苦痛以外のなにものでもない」
本心を吐露していたアストールだが、メアリーも彼女の気持ちをある程度は理解していた。
男からの誘いを当たり障りなく断るのは、精神的にもどっと疲れるのだ。アストールの場合、元が男なのでその精神的苦痛は計り知れない。
「一旦、休憩しましょう。ずっと、こんなこと続けても疲れるだけだし」
メアリーの気の利いた一言に、アストールも笑顔を浮かべる。
「それもそうだな」
アストールの言葉にメアリーは、すぐに笑みを浮かべていた。
「じゃあ、あそこで休憩しよう!」
メアリーがそう言って指をさしたのは、さきほどの男がアストールをお茶に誘ったお店だった。
綺麗に縁どられた蔓の看板には、ティーカップが模られた平たい青銅の板がくっついている。洒落た店はコンクリート製の建物の一階に位置していて、オープンテラスには多くの人がお茶を楽しんでいた。
「男が誘ってくるだけあって、結構良さそうな店じゃないか」
アストールはそう言って、メアリーと共に店に向かっていた。
店の中に入れば、店の中は大勢の人で賑わっていて、その多くが女性客だった。王都ヴァイレルでは一部の貴族しかこの様な場には来れない。だが、このガリアールでは違っていた。
貴族の娘と思われる高貴な女性から、それこそ、普通の服装をした庶民までもが、身分を気にせずに楽しそうに談笑しているのだ。
これこそ、ガリアールを象徴していた。
お店に入れば、全てが平等な客として扱われ、身分の差で差別することなく、人々が自由に席に座っているのだ。
ある種、混沌としていて、多くの貴族が嫌い、多くの庶民が望む光景がそこには広がっていた。
「すごいな……」
アストールはその異様な光景に、言葉を失っていた。
「ヴァイレルだと、まず見れない光景ですね」
レニは楽しそうに笑みを浮かべていた。
「それよりも座りましょ!」
三人は適当に空いている席を探す。
店の入り口付近にあった四人席が、ちょうど空いたため、三人はそこにすかさず座っていく。店員がすぐにテーブル上の食器類を片づけ、三人の前には代わりにメニューが置かれる。
「さて、何にしようか……」
メニューを開いたアストールは、横に座るレニと正面に座るメアリーを交互に見る。
「私、せっかくガリアールに来たし、南洋のギルジマンティー飲みたい」
「僕もそれで」
メアリーの言葉に便乗して、レニもすぐに決める。
ギルジマンティーとは、南洋のとある島国でとれるお茶で、このヴェルムンティア王国で取り扱っているのは、ここガリアールくらいのものだ。
だが、その香味はとても評判がよく、王都ヴァイレルでもその名だけは有名である。
「じゃあ、私もそれにするか……」
アストールも釣られるように決めて、店員に声をかけようと横を向く。
「あの、すみませ……」
だが、アストールは途中で声を止めなくてはならなかった。なぜなら、それは……。
「か、可愛いのに、う、美しい……」
突然彼女の目の前に、一人の体躯の良い男が現れたのだ。
背中には大剣を背負い、革鎧を身に着けていて、一目見てただの男でないことがわかる。
精悍な顔つきは、なぜか真顔になっていて、両頬は仄かに赤い。
何より見開かれた両目は、完全にアストールを見据えていた。
(なんで、なんで、ここに来てまで、男に絡まれなきゃならねーんだよ!)
アストールは思わず叫びそうになるのを、ギリギリの所で言葉を飲み込む。あの屈辱の時間を過ごし、気を晴らすためにお茶を飲みに来た。そのはずなのだが、またしてもここで男に絡まれたのだ。
胸の内で沸々と沸き立つ怒りを抑えつつ、アストールはいつもの上辺だけの笑みを浮かべていた。
「あの、すみません。私、今、殿方とお話はしたくありませんの……」
半ば苦笑していることにも気づかないアストールを前に、男は構わずに喋りだす。
「あなたこそ、俺の探し求めていた究極の女性像! これこそ、至高の喜び! 俺はリュード! よければ、あなたの名前をお聞きしたい!」
リュードと名乗った男は、勢いよくアストールの前で跪く。そして、彼女のか細い手を取っていた。勝手に手を触れられることなど、アストールにとっては気持ちの悪いこと以外の何物でもない。手の甲にもう片手を乗せられると、尚のことだ。
アストールは空いたもう一方の手で、拳を握りしめていた。
「あの、リュードさん」
休憩を邪魔されたことに対する怒りから、アストールの笑顔は、完全に歪なものに変わっていた。
怒りと疲労、何より空気の読めないこの男が、アストールの枷を外させていた。
「なんでしょうか!? 俺の未来のお嫁さん!」
「気安く触ってんじゃねえええ!!!!!!!」
炸裂するアストールの右ストレート。
吹き飛ぶ黒髪のリュード。
顔面に彼女の拳を受けたリュードは、床に倒れたまま動かない。
「あ、ああ……」
体躯のいい大剣使いが、アストールの拳一つで床にぶっ倒れる。それを見たレニが口をパクパクと動かして、恐怖の目でアストールを見る。一方のメアリーは頷きながらも、その表情は呆れ顔だ。
「い、つぅ……」
右手の拳が痛み、アストールは手を見つめる。
綺麗な手には擦り傷を負い、薄らと血が滲みでていた。
「アストール……。気持ちは痛いほどわかるけど、いくらなんでも、やりすぎじゃない?」
床の上で大の字になって微動だにしないリュードを見て、メアリーは苦笑する。
「仕方ないだろ! 気持ちわりぃし、ばっちぃし、腹立つし、何もいいことない!」
アストールは痛む右手をかばいながら、床でダウンしているリュードを睨み付ける。
これまで男達の誘いを悉く断ってきたが、ここまで露骨にアピールしてきた男はいなかった。あくまで皆、一緒にお茶でも飲めればいい程度のもの。
だが、このリュードに関しては違う。
一目惚れを口にして、名前を聞く前から、自分のお嫁さんとまで宣言しているのだ。
図々しいこと、この上ない。なおかつ、彼女の体に手とはいえ、触れていた。
殴られても仕方がないのだ。
「でも、グーはダメでしょ。せめて平手とか……」
メアリーの声に、アストールは興奮冷めやらぬのか、すぐに言い返す。
「いや、こっちがどれだけ我慢してるのか知りもせずに、手に触れてきたんだ! グーは妥当だ! むしろ、このまま追い打ちかけなかっただけ、感謝されるべきでしょ!」
アストールの叫び声に気付いたのか、リュードはむくりと起き上がる。
見事に両方の鼻の穴から血を吹き出していて、周囲の笑いを誘う。
「う、一体何が……? 突然、目の前に拳が飛んできて、意識が飛んで……。あ! そんな事よりも! お嬢さん!」
再びリュードは立ち上がって、アストールに迫りよる。
「お名前を教えてくれませんか!?」
アストールは再び拳を握りしめる。
「なんで? なんで、あんたに名前を教えなきゃいけないの!?」
アストールが怒気を込めた声をあげる。だが、男は全く気にした様子はない。
「ええーと。やはり、恋愛をするにあたっては、お互い、名前から知らなければならないでしょう! だからですよ! お嬢さん!」
(ああー。こいつ、心底うぜえ……)
鼻血をだしたまま迫りよるリュードを前に、アストールの堪忍袋の緒も切れかかる。
「あー、また、女を口説いていたか! おい、このクソ女たらし!」
だが、アストールが切れるより前に、一人の助っ人が現れていた。
リュードよりも体躯が一回り大きい、浅黒い肌の男だ。顔には傷があり、この男もリュードと同業であるのがすぐにわかった。
「いやー、お嬢さん方、すみません。うちの者が迷惑かけて!」
見た目とは裏腹に予想外に男の姿勢が低く、アストールは呆気にとられる。
「あ、え、いえ、別にいいんですよ」
「いやいや、こいつ、本当に女好きで、気に入った女性には、片っ端から話しかけていくもんで。全く、節操ないクソ野郎で、本当にすいやせん」
男はそう言うと早々に、リュードの首根っこを持って引きずっていく。
「そら、行くぞ! もう、船がでるんだからな!」
「ああー。待って、俺の未来のお嫁さんがああ! ここで別れたら、二度と会えないじゃないか!」
「うっせーな! 黙って来いや! くそったれが!」
ナンパ男リュードは成すすべなく、哀れな姿で男に引きずられていく。周囲の人がそれを笑みを浮かべて見つめていた。アストールとメアリーとレニは、無言でリュードを見つめていた。
「一体、何だったの?」
「さあ、知るわけないだろ……」
メアリーの問いかけに答えられるわけもなく、アストールはそう言って言葉を区切っていた。ただ、あの二人が何かしらの武人であるというのは、三人にもわかった。
「それよりも、注文しましょう!」
レニの言葉で、二人はようやく本来の目的を思い出した。
ここに来たのは、あの男を倒すためではない。あくまでも休憩するためだ。
アストールは気を取り直して、店員を呼ぶのだった。