潜んでいた影 1
アストールは馬をレーンまで連れてくると、彼女の馬は静かに鼻を震わせる。
この駿馬とは付き合いこそ長くはないが、この二週間みっちりと走りこんだ。
お互いの信頼関係はしっかりと築けている。次こそは共に勝つ。その想いが伝わったのか、手綱を握った瞬間に駿馬は小さく嘶いた。
(これならいける!)
アストールは息を整えると勝利を確信して、ハラルドを見据えていた。
ハラルドは下品な笑みを浮かべると、すぐにバイザーを降ろす。あくまでアストールを女としてしか見ていないのだ。
彼女は湧き上がる怒りを、深呼吸して静かに抑える。
バイザーを降ろして邪魔な光を遮ると、ハラルドの黄金の甲冑を見据えた。狙うは相手の胴体の中心部。上手く当てて左胸、悪くて右胸だ。音もなく旗手がレーン中央に現れて、高々と旗を掲げていた。
観客たちは固唾を飲んで二人の一戦を見守る。
会場は静寂に包まれ、まるで決勝戦のような緊張感が張り詰めていた。
高々と掲げられていた旗が、一気に勢いよく振り下ろされる。
旗がバタバタと音を立てて地面に着く。それと同時に二人は思い切り馬を全力疾走させた。相対した金銀の騎士は、互いにランスを前に向けることなく突き進んでいた。
アストールのバイザー越しの視界に、ランスをこちらに向けることなく金光する甲冑騎士が迫ってくる。どのタイミングで相手がランスを構えるか、それによってこちらの出方も変わる。
走り出した時から既に勝負は始まっているのだ。
相手も跳ね上げを使うつもりなのは明白だ。
いつランスを構えるのか、お互いがそのタイミングを見極めあう。
先にランスを上げた方が負けるのが、この跳ね上げ同士の戦いだ。だからと言って、お互いが上げるタイミングが遅ければ、互いのランスは鎧をとらえることはない。
そう考える間にも距離は縮まってきていた。
互いの根競べ、見極めを誤れば負ける。
(いつだ! いつあげるんだ!?)
互いのリーチに入る前にハラルドが動く。
アストールよりも先にランスを構えたのだ。アストールもリーチに入った瞬間に馬の反動を利用して、素早くランスを突き上げた。タイミングがもろによかったのか、アストールのランスはすぐに馬の上下の振動で跳ね上がって、迫りくるランスを突き上げていた。
だが、その突き上げられたランスは、アストールの顔へと向かって迫りくる。
アストールはほぼ反射的に体を左方向へと傾ける。ハラルドのランスは彼女のバイザーの右頬部分を掠るに過ぎなかった。同時にアストールの右手に強烈な衝撃が伝わってくる。
右腕から伝わる感触に、アストールは少しだけ違和感を覚えた。
それも束の間、アストールのランスは先端部分より下側が粉々に砕け散っていた。
一瞬にして観衆は湧き上がる。
まさかアストールが一本を取るとは誰も思ていなかったのだ。
歓声が場内を支配し、熱狂的な祝福がアストールを包み込む。
だが、アストールはその中でも、至って冷静なままだった。いまだ走る馬の上で、先ほどの鈍い感触を思い出す。
ハラルドの鎧を捉えた確かな感触は、これまでの感触とは明らかに違っていた。
普通の競技用ランスの砕けた感触は、当たると同時に先端から中心部分が弾け飛び、衝撃はあるが手に加わる衝撃は知れている。だが、確実に今回の感触はいつもよりも重かった。
腕全体で感じる衝撃は、体が浮くかと思うほど強い。
その後にいつもの軽い衝撃があったのだ。
(さっきの妙な感触、もしかして……)
アストールは駿馬を助走させて、相手陣地まで到達すると馬首を自陣へと向けていた。
観衆達の鳴りやまない歓声をよそに、アストールはバイザーを上げて金色の騎士の後姿を確認する。
ハラルドは助走を行っているが、明らかに様子がおかしい。
よろめきの度合いが、尋常ではないのだ。
馬に乗っているのがやっといったフラフラな状態。
彼もまたアストールの陣地に着くと、馬首をアストールへと向けていた。
だが、そこで観衆の歓声は一気に悲鳴へと変わっていた。
「ハ、ハラルド殿下あ! 殿下の胸に!」
「ランスが刺さっているぞ!」
彼の右胸には砕け散った木製ランスの先端部分が突き刺さっていた。
完全に鎧を貫通しており、木製ランスでは到底到達できない威力のはずだ。
「レニ、すぐに王太子を治療しろ! ジュナル、エメリナ、メアリー、師匠! 王太子殿下を馬から降ろしてくれ!」
アストールはバイザーを上げると、その凛とした美声で従者たちに叫んでいた。その指示を聞くよりも早く、エメリナが王太子の馬の手綱を握り、メアリーが馬台を持ってきて、ジュナルとアレクサンドが王太子を介抱する。
アストールもすぐに馬を駆けらせて、ハラルドの元へと向かっていた。
(くそ! やっぱりか!)
アストールの嫌な予感は的中していた。
あの奇妙な感触の正体は、ハラルドの鎧を突き破り、肉を抉る感触だったのだ。
アストールはハラルドの近くまで来ると、馬台に飛び降りてすぐにレニ達のもとへときていた。
すでにジュナルとアレクサンドがハラルドの鎧を外し始めている。
とはいえ、ランスの突き刺さった正面プレートは残したまま、手際よくほかの部分を取り外していく。
明らかに治療の邪魔になるものは取り外されていき、あっという間に正面装甲以外の鎧は取り除かれる。
「だ、大丈夫なのか!?」
アストールは慌てて声をかけるが、レニはハラルドの顔色を見て厳しい表情を浮かべる。
「殿下! これから治療を行います! ランスを抜くと一気に出血しますので、ご覚悟ください」
ハラルドは口から血を吐いた状態で、ゆっくりと頷いていた。
「早く治療しないと、まずい! 破片を抜いたらすぐにプレートを外してください」
レニはそう言うと、ランスの破片を持って引き抜いた。
同時にジュナルとアレクサンドがプレートを引き剥がす。
ハラルドは咳き込んで、血を噴き出し、レニの顔に血しぶきがかかる。
傷口からは一気に血が流れ出てきて、ハラルドの衣服を真っ赤に染め上げる。
レニは抜いたランスをその場に捨てると、すぐに孔の開いた胸に手をかざしていた。
「全知全能の神、アルキウスよ。我に力をやどし、この若き師子王の体の傷を治癒する力を与えたまえ!」
レニが目を瞑って治療を始めると同時に、傷口は淡い黄色い光に包まれていた。
アルキウスの加護がハラルドの体に与えられた証だ。
ハラルドの意識は混濁してきていて、とても一刻も持ちそうにない。
気が付けば周囲には人垣ができていた。
大会関係者に加えて、王族側の侍従たち、ハラルドの妾の女性達だ。
「だ、大丈夫なのか……」
「わからん……」
「プリーストとはいえ、まだ子どもじゃないか……」
思い思いに周囲のギャラリーは自分勝手に発言する。
アストールはレニの実力を知っているがゆえに、怒りをかみ殺して周囲を睨みつけて静かに怒鳴っていた。
「少し黙ってみてなさい! 私のプリーストの腕前は王国一だ! 彼の邪魔をしないで!」
アストールの静かな怒声に周囲は押し黙っていた。
レニは必死に集中して治療しているのだ。それを侮辱したり、集中を妨げるような真似はさせたくない。
いつにもましてレニの表情は真剣そのものだ。
周囲のギャラリーに加えて、治療しているのが王族となるとそのプレッシャーも大きい。
(早く治療をしないと……)
ハラルドの傷口は見た目以上に酷い状況だった。
破裂した数十の細かい木片が、傷口の全周に渡って散らばっている。これを放っておくと、傷口が腐食を起こして死に至ることもある。何よりもランスによって開けられた破孔は、肉と血管をぐちゃぐちゃに引き裂いている。
(傷跡を残さずに……は厳しいか)
とにかくレニは先に血管周りの止血を行って、木片の除去を行うことを優先させた。
透視を利用しながら、木片周りと不要に出てきた血溜まりを水の結界で覆っていく。全ての木片を見落とすことなく結界を張ると、すぐにアルキウスの業火を血液と木片に発動させた。結界の中で発動された業火の魔法は、一瞬にして全ての木片と血液を蒸発させた。
一見簡単そうにみえる魔術の施術、だが、実際は見ているほどに簡単なものではない。
一度に三つの異なる魔法を同時に発動させるのだ。
しかもその対象は微細で数も多い。それら一つ一つに丁寧に魔法をかけていき、業火の威力に至っては結界と加護を破って、人体を破壊しない程度に抑えなければならない。
並大抵の精神力がなければ使いこなす事は不可能だ。
レニは静かに息を吐いて気を落ち着かせる。
(第一段階の消毒と異物除去の治療は終わり……。次は人体の構成と再生……)
幸いな事にできたばかりの傷で、傷周りに雑菌はすくない。これなら、アルキウスの加護だけで十分に対応できる。
それよりも厄介なのが、人体の再構成だ。
人の体の特徴は個人によって大きく異なる。
それを元に戻すことは、相当な熟練者でない限りは不可能に近い。
レニは透視を行使して、正常な左胸の状況を確認する。
筋肉組織の構成、内臓位置、皮膚の張り具合、血管細部の位置通りまでだ。
左右では血管の通りは変わってくるが、そこは元ある血管位置をみれば繋げることは可能だろう。
(アルキウスよ。我にこの者の体を構成する力を与えたまえ)
レニは念じると同時に、傷口の破孔は徐々に縮まっていく。
アルキウスの力が作用して、ハラルドの傷口を閉じていった。肺にまで達していた傷は、徐々に塞がれていく。
レニはここまで急激に傷口が塞がっていくのを目の当たりにして、正直に驚いていた。
アルキウスの力はあくまで人体再生の補助をしているにすぎない。本人の生きたいという明確な強い意志がなければ、ここまでの急激な再生は不可能なのだ。だが、レニには他の事に思考を回せるほど余裕はなかった。
あっという間に傷口が塞がり、レニは改めて透視を行って体の中を確認する。
血管も正常につながり、瞑れて穴の開いていた右肺は元通りに戻っている。
左肺や気管に詰まっていた血液はなく、いつ魔法を解いてもいいような状態であることを確認した。
(大丈夫……。これで殿下は助かるはず……)
レニは判断すると、治癒魔法による施術を終えていた。
淡い光が徐々に弱まり、完全に治りきった綺麗な胸板を露にする。
周囲からは一斉に歓声が上がる。
「これで一先ずは安静にしていれば、大丈夫です。後はお任せしましょう……」
意識を失ったままのハラルドだが、呼吸は正常に戻っており、胸は呼吸に合わせて自然と上下する。
「よかった! 本当によくやってくれた! レニ! ありがとう」
アストールはそう言うと座ったままのレニの頭を撫でていた。流石に甲冑のまま彼を抱きしめるわけにもいかない。
レニは気恥ずかしそうに俯いていた。。
「あ、ありがとうございます……」
「いいのよ。それよりも疲れたでしょ?」
「そ、そんなことありません」
レニは彼女の前ですぐに立ち上がって見せる。
精神的にはかなり疲弊していると思っていた分、アストールは呆気にとられていた。
「僕もエスティナ様と旅をして、かなり技量を上げさせてもらう機会がありましたから」
笑みを浮かべたレニに、アストールは安堵のため息を吐いていた。
彼も伊達に神官戦士を名乗っているわけではない。厳しい修行に加えて、ガリアールやルショスクで多くの怪我人の治療をしてきた。実戦にまさる修行はない。それはレニも一緒で、確実に彼もまた実力を上げていた。
そんなやり取りをしている内に、いつの間にかハラルドの元に担架が駆けつけていた。
ゆっくりと、担架の上にのせられたハラルドは、そのまま競技場の外へと運び出されていく。
大勢の人がそれを見送ると、アストールはレニから離れていた。
レニは彼女の顔を見ると、アストールの顔からは安堵の表情は消えて真剣な顔になっていた。
「エスティナ様?」
怪訝な表情を浮かべていたが、アストールのその真剣な表情の意味がすぐに分かる。闘技場の入り口から衛兵の集団がアストールに向かって走り寄ってきていたのだ。
「レニ、私はこれから少しの間拘束される……。エメリナに今回の件の事を調べるように伝えてくれる?」
「わかりました……」
エメリナは近くにいたが、下手に動けば自分の従者すら連行されかねない。衛兵はみ語気取れないでいる二人を、素早く取り囲んでいた。周囲のギャラリーは不安そうに見ているだけだったが、アストールは小さくため息を吐いて歩み出ていた。
「レニは無関係よ。それに私も……。て言っても信じてもらえないでしょうね」
衛兵の一人が歩み出てきて、アストールに言葉をかける。
「ご承知の通りです。これは事故ですので、一応取り調べだけはさせていただきます」
「分かってるわ。私一人で構わなくて?」
衛兵は他の従者も取り調べるとなると、大事になりかねないのを承知していた。
「それは構いません。我々もこれ以上事を荒立てたくはないので」
衛兵はそう言うとアストールを連れていく。
レニは連行されていくアストールを見送ると、すぐにエメリナの元へとかけていくのだった。