千秋の来訪 3
皆が寝静まった夜。
静寂と漆黒の闇が支配する森の中、音もなく忍び寄る人影があった。
転寝しそうになる番兵は、真横で小さな音がしてふと顔を向ける。
そこには俯いた人が、一人だけ佇んでいた。ここまでの距離を気配を感じさせずに近づいてきた人に対して、驚いた番兵は大声で叫んでいた。
「だれだ!? 貴様は!?」
その大きな声で寝静まっていたアストール達一同は目を覚まして、扉の方へと目を向ける。小窓からは動揺した番兵の顔が見え、アストールはその光景を注視していた。
「と、止まれえ! ん? 人間? いや、なんだこいつは……」
番兵の前にいたその人は、見る見るうちに体が変化していく。隆起していく筋肉に全身から真っ白い毛が急激に伸びていき、顔は鼻あたりから急激に突き出していた。口は裂けて鋭い歯が並び出し、前歯四本が犬歯として長く伸びる。
その異様な光景に、番兵は一瞬だけ息を呑んでいた。
「ば、化物めえ!」
番兵は自分を鼓舞するように叫んで、槍を構えて化物に対して飛びかかっていた。だが、その攻撃は虚しくはじかれ、代わりに人狼の太く発達した腕の先にある鋭い爪が振るわれる。番兵の最後の断末魔の絶叫が木霊する。
アストールは立ち上がると、ゆっくりと音を立てずに扉へと近寄っていた。
小窓から外を覗き見ると、戦士達の寝泊まりしている家屋付近に、人影が次々と木の上から降りてきていた。
「まさか……。なんで、人が……」
こんな辺境の森に人などが現れるわけがない。
断末魔の悲鳴を聞いた戦士たちが、次々に戦士たちの住まいから出てきていた。
その住まいの下から、廊下や踊り場に人間たちが這い上がってくる。
異様な光景を目にしたアストールは、唖然としていた。
不気味な人間たちに、罵声を浴びせる戦士達、しかし、それも束の間、急激に人々の体は変化して、原型を留めない化け物となっていた。
(変化の時間が早い……)
冷静に変化する人々を見て、アストールは率直にそう思っていた。今まで妖魔に変化した賊達は、痛みと苦しみを伴いながら、時間をかけて姿を変えていた。
それが今の化け物達は、瞬時にして姿を変えていた。
急変した化け物達に動揺する戦士達、それでも気を取り直して勇猛果敢に戦いを挑みだす。
呆然とその光景を見ていると、突然目の前が灰色の毛皮で覆い隠される。
思わずワッと叫んで、アストールは尻餅をついていた。
扉の前に先ほど番兵を倒した化け物が、背を向けて窓の前に立っていたのだ。
アストールの声に気が付いたのか、化け物は振り向いてその赤い眼で小窓を覗く。見た目は狼のような顔が、それでも眼だけは人間の物という不気味さ。そんな、獣人の形をした化け物が、アストール達を見据えていた。
「……マジ?」
アストールが呟くのと同時に、化け物はその巨体を小屋にぶつけて扉を突き破る。素早くコレウスが前に出て、ブーツの中に隠し持っていた小さな杖を構える。
「皆、下がって! ここは僕が!」
生憎小屋の中には何もない。何もできないことが歯がゆい。
ぐっと拳を握りしめて、アストールは獣人を睨みつける。
コレウスが魔法詠唱を開始しようとした時だった。
突然化け物の背後に黒い影が現れ、化け物を背後から床に押さえつける。それも束の間、その黒い影は頭部にかみついて、ぶんぶんと首を振り回す。獣人は必死にもがくが、ゴキュっという生々しい音が響いて、動かなくなる。
「……ヴァイム?」
アストールがその陰の正体を口にすると、アルネが笑みを浮かべる。
「フェルード司祭様に言われた後、ヴァイムの様子を聞いたらね、アレ……」
ヴァイムの背中にはアストール達の武器一式が、鞍にくくりつけられていた。
もちろん、リュード達の物も洩れなくついてきている。
「私たちの武器……」
「フェルード司祭様が手配してくれたみたい」
アルネの言葉にアストールは笑みを浮かべる。
「おし! アルネ、メアリー、脱出よ!」
アストールはこの混乱を好機と見て、脱出しようとする。
リュード達に目を向けると、彼らも同じ考えなのか何やら短い話をして、結論が出たのかアストールに向き直る。
「俺たちも、一緒に行く」
クリフがコレウスと共に歩み出てくる。
「良いわよ!」
アストールも元より見捨てるつもりはなく、快諾する。
だが、そんな中、リュードだけその場で悩んでいるらしく、中々足を踏み出そうとはしない。苦悶する表情には、なにやらこの現状に納得がいかないらしく、腕を組んだまま動こうとしなかった。
「リュード? なにやってんの?」
アストールが彼に聞くと、リュードは決心したのか顔を上げていた。
「本当にコレでいいのか?」
リュードの突然の問いかけに対して、アストール達は怪訝な表情を浮かべる。
「え?」
「目の前で人が妖魔に襲われて、黙ってみてるのか?」
リュードの言葉がその場にいる全員の足を止めていた。
「何言ってるのよ!? あいつらは私達を殺そうとしてるのよ?」
アストールの問いかけに対して、リュードは真っ直ぐに顔を向けていた。
「確かにアイツらは俺たちを掟に従って、殺そうとしている。でもよ……。化け物に襲われている人を見て、そのまま立ち去れるほど、俺は冷酷になれねえよ!」
リュードはそう言うと駆け出して、ヴァイムの鞍に括られている自分の大剣を手に取っていた。
「ど、どうするつもりよ!?」
アストールが慌ててリュードに問うと、彼は決意を秘めた表情で大剣を背中に背負う。そして、大きな声で宣言していた。
「俺は勇者になる男リュードだ! 目の前の人が誰であろうと、例えそれが人でなくても、妖魔に襲われているなら助ける!」
そう言ってリュードは破壊された小屋の扉から駈け出していた。
「あ、リュード!」
アストールが呼び止めるのも聞かずに走り去っていく。
コレウスとクリフはお互いに顔を見合わせた後、溜息を吐いて苦笑する。
「またか……。あいつだけは……」
「仕方ないですよ。リュードですから」
二人はそう言って歩み出し、鞍に括られていたそれぞれの武器を抜き取って手にする。そして、リュードに続いて小屋を出ていこうとする。
「あ、ちょっと。二人とも、どこへ?」
アストールが信じられないと言わんばかりに二人を見つめると、二人とも清々しい笑顔で答えていた。
「あれでも、俺たちの大切な仲間だ。決まってんだろ」
クリフはそう言うと小屋から足を踏み出していた。
「幼馴染ですから、放っておけないんですよ」
コレウスもまた、クリフに続いて部屋を出ようとする。が、何かを思い出したかのように、破壊された入り口の前で立ち止まって、アストール達に向き直る。
「僕たちの事は心配しないでください。これが終わったら後を追いますから、先に集落を脱出してください」
そう言い残してコレウスもまた小屋から出ていく。
残されたアストールは、ふと、男であった時の事を思い出す。
昔の自分なら迷わずリュードが声をかけるより先に、どんな状況下でも化け物を倒しに、飛び出していただろう。だが、今は違う。メアリーとアルネの事を考えて、すぐに集落を脱出することを決断していた。昔のような破天荒さがなくなって、すっかり丸くなったようにさえ感じられる。
ぐっと奥歯を噛みしめたアストールは、鞍に着いた今やすっかり愛剣となった両刃剣を手にしていた。そして、苦笑しつつ柄を握って、鞘から少しだけ刃を抜いていた。柄と鞘から見える白刃を見据えて、改めて騎士になった時の事を思い出す。
騎士の叙勲式、近衛騎士団長の前に跪き、儀礼用の剣にて肩を叩かれたあの日。
「いつ如何なる時、いかなる場所でも、自らの良心に従って悪に対抗し、王国騎士として正義を貫き通すことを神に誓え」
そう、自分はあの時、誓ったのだ。
正義を貫いて、悪に対抗する。と。
それが女の身であろうと、関係ない。
「俺は……。俺は、エスティオ・アストール……」
アストールは白刃を見つめながら、小声で呟くと続けていた。
「王国の誇り高き騎士……」
目の前に命の危機に立たされた人がいて、それを助けずに背を向けて逃げる事などできない。それこそ、アストールが最も嫌っていた行為のはずだ。
アストールは決意を新たに、鞘と柄を勢いよくぶつけて刃を鞘にしまう。
そして、後ろに控えるメアリーとアルネに向き直っていた。
「アストール、どうするの?」
メアリーが心配そうに聞くと、アストールは真剣な表情で言っていた。
「メアリー、アルネ、危ない橋を渡るかもしれないが、少しだけ、付き合ってくれ」
自分でもこの選択が、けして良い選択ではないというのは分っている。
リュードに触発されて、自分の中にある正義感と怒りを抑えられなくなった。それも事実だ。何よりも死人を踏み台にして助かろうとした自分が憎い。
そんなアストールの気持ちを見透かしてか、メアリーは柔和な笑みを浮かべる。
「そうこなくっちゃね! じゃないと、アストールじゃないよ!」
メアリーもまた矢筒と弓を手にしていた。
「あの、私は……」
「アルネはメアリーと一緒に行動を取ってくれ。この騒動が終わったら、皆で脱出しよう」
アストールはそう言うと、小屋を出て集落へと足を踏み出していた。
目の前の戦士達は小屋周辺で苦戦をしられているらしく、中々、集落へと救援に向かえずにいる。アストールはその状況を見て、即座に戦士たちの方へと駆け出す。戦士達は得体の知れない化け物達に、一向に有効な一手を繰り出せないでいた。攻撃をするも即座に避けられて、代わりに振るわれるのは化け物が帯刀していた剣だった。
武器を巧みに扱う化け物に動揺を隠しきれない戦士達は、一人また一人と命を落としていく。アストールはそんな戦士達の方へ、吊り橋を渡って即座に駆けつけていた。
橋の向こうで背を向ける一体の化け物、アストールはそれを最初の生贄とすることに選んでいた。橋を駆け抜けざまに剣を抜いて背後からの一閃、難なく化け物の胸から腹部を両断する。突然、加勢してきたアストールに、敵も味方も動きを止めて彼女を見る。
それも束の間、化け物の二体が即座にアストールに襲い掛かっていた。だが、一体はアストールの目の前で、頭を射抜かれてその場に倒れる。アストールもまた正面から来た化け物の袈裟懸けを、その立ち回りと体捌きで避ける。大ぶりの振り下ろしに、アストールは素早く身を引いて構えていた剣を化け物の手首へと振り下ろす。普通の鋳造した剣であれば化け物の骨を断ち切る事など到底不可能だ。
だが、アストールの剣はあっという間に腕を両断していた。
ぼとりと腕が落ち、絶叫する化け物。アストールはがら空きとなった懐に入り込んで、腹部で横なぎに剣を振るう。肉を断ち切っているという感覚はなく、どちらかと言うと本当に素振りをしているのに近い感覚。滑るように剣は化け物を、真横に両断していた。
「おし! 次!」
10体はいた化け物の内、アストール達が一瞬で3体を屠っていた。
周囲を見て自分への脅威がある程度排除されているのを確認する。そして……。
「聞けえ! 戦士達よ!」
戦っている戦士たちに、アストールは凛とした声で叫ぶ。
「個で戦わず、横の味方と絶えず連携をとって戦え!」
返り血を浴びたアストールは、顔についた血を拭うことなく叱咤する。
彼女の叫びを聞いた戦士達は、互いに顔を見合わせると、即座に戦端を開いていた。今度は先ほどとは違い、近くの味方と連携を取りながら、化け物へと攻撃をしかけていく。
元の戦闘能力が高いだけに、連携を取り出してからの戦いは、目を見張るものがあった。当初こそ化け物達に圧倒されていた戦士達だが、アストールの一言で動きが変わる。槍で化け物を威嚇し、一方の戦士が攻撃を仕掛ける。化物は避けはするものの、手傷を負って明らかに動きは鈍くなる。
「ここは任せて、大丈夫か……」
アストールは余裕を持って戦いだした戦士達にその場を任せ、向こう側にいるメアリーにアイコンタクトを取っていた。メアリーとアルネはヴァイムの背に乗ると、軽やかな身のこなしでアストールの前へとヴァイムを飛ばしていた。
跳躍すればあっという間に彼女の目の前に到着していた。
アストールは即座にヴァイムの背へと駆け上がると、アルネに号令していた。
「すぐに集落の方へ。あっちにも絶対に敵がいるはずだ」
「分かりました!」
アルネは彼女の言葉に従って、ヴァイムを集落へと走らせていた。
静かな夜が騒がしく動き出すのだった。