キリケゴール族の姉妹 3
「ようやく、最後の試練を乗り越えられたようですね」
後ろから現れた司祭のフェルードは、新たに生まれた眷属を前に柔和な笑みを浮かべていた。
「はい、司祭様」
「おめでとう。これであなたも一端の眷属となりましたね。これ以降も精進していきなさい」
祝福の言葉を贈ると、フェルードは笑みを崩さずにアルネに対して言う。
「さて、早速ですが、眷属としての仕事を申し付けましょう」
彼の言葉にアルネはドキリと胸を高鳴らせる。
眷属となったばかりで、すぐに仕事をもらう事になるとは思ってもみなかった。
緊張した面持ちのアルネを見て、フェルードは彼女の緊張を解すために肩に手を置いていた。
「危険な事もありませんし、簡単な物です。さあ、肩の力を抜いてついてきなさい」
フェルードはそう言うと、アルネとヴァイムに付いてくるように促していた。
二人は彼に付いていき、そのまま試練の間から出ていく。入ってきた扉とは反対の扉から出ると、廊下を挟んだまた一際大きな部屋へと通される。部屋に入れば目の前には木の幹と枝の分かれ目が、そのまま部屋の中に残されている。
枝の付け根は少しだけ切り取られていて、そこには脈打って流れる緑色の液体が、木の幹を通って流れているのが見えた。
「ここは育成の間、週に一度、その子にここを流れるヴァルゼィーニの血を飲ませなさい。さすれば、すぐにその子は大きくなるでしょう」
笑みを浮かべたフェルードは、ヴァイムに呑むように促していた。不安な表情を浮かべるヴァイムに、アルネはゆっくりと頷いて見せた。
ヴァイムはそれを見てすぐに行動に移る。ゆっくりと近寄っていき、木の幹を流れる木の血液を口にしていた。貪るように飲むと、すぐに効果が現れる。口にするたびに体格が徐々に大きくなっていく。
だが、すぐにフェルードが声を上げる。
「それ以上はだめです」
アルネが神官の声に呼応して、念じてヴァイムの行動を抑制する。
「呑みすぎて、急激に体をおおきくすると、負担が大きくなります。分量としては先ほどくらいの量を、週に一度の割合で与えてあげてください。そうすれば、二月もあれば成獣になるでしょう」
フェールドはアルネに言い聞かせると、彼女は頷いて見せていた。
「それでは、眷属アルネよ。また、眷属生誕の儀を執り行いますから、今日は帰ってゆっくりその子と語らわれよ」
そう言われてアルネは、ヴァイムと共に神殿を出ていた。
神殿の出入り口から、祈りを奉げる踊り場に出る。天を覆う木々から降り注ぐ木漏れ日が、アルネの新たな門出を祝ってくれているようで、彼女の胸の内からは念願の眷属となった喜びが湧き上がっていた。
(ここは神殿であるぞ。はしたなく叫ぶでない)
喉の奥まで出かかった感情を、ヴァイムがさらっと窘める。
「わ、わかってるよ! 言われなくたって……」
アルネは気恥ずかしそうに頬を赤らめると、ぷいっと顔をヴァイムから背けていた。最後の試練を乗り越えた彼女は、喜びと達成感から抑えきれない衝動にかられていた。
「でも、ここは一旦落ち着いて……」
アルネはその場で深く息を吸って、気を落ち着かせていた。そして、時間が既に昼前になっている事に気づき、彼女はここで昼の祈りを捧げることにした。
いつもと違うのは、祈るその横にヴァイムがいる事。正式な眷属となった証があることだ。
人が来るよりも前に、ヴァイムと共に祈りを捧げる。
「森の神ヴァルゼィーニよ。どうか、姉キリエにあなたの加護をお与えください」
本来なら、今すぐにでもヴァイムと共に森を駆けて、姉キリエに一番に眷属となったことを知らせたい。だが、それは叶わない。
眷属の仕事は集落に近付く者の排除なのだ。
一時期、人間がこの地を征服しようと、森に侵入してきた時期があった。人間の世界では暗黒時代とも呼ばれている魔法帝国の軍隊だ。
彼らとの対決は風と木の神を信仰するキリケゴール族が地の利を生かして優位に戦いを進め、最終的には追い返すことに成功している。そこで眷属も多くが命を散らしたが、それ以上の活躍をしたと言い伝えられている。
今やこの辺境の森を態々支配しに来る人間はいない。現れると言えば、木や苔を貪る動物や、森を荒す妖魔くらいだ。人は道にでも迷ったりしない限り、絶対に現れたりはしない。
眷属達はそうした妖魔や動物を、念で問いかけて追い払う。それでも立ち退かない場合は実力を行使するが、そんな事例は滅多にないと言う。
大抵は妖魔や動物を傷つけることなく、追い払っている。それができるからこそ、眷属として森に君臨するのだ。
アルネは祈り終えると、目を開いてヴァイムと顔をむき合わせる。もはや二人の間に言葉はいらない。彼女は祈り場から早足で出ると、ヴァイムを連れて駆け出していた。
とにかく今は走り続けたい。そんな衝動がアルネを突き動かしていた。昼食をとることも忘れ、とにかく森の中を駆け回っていた。ヴァイムとの信頼関係を、なによりも自らが眷属となったことを確認したかったのだ。
集落の上を飛ぶようにして駆け回り、ヴァイムもそれに遅れることなく付いてくる。今後ともよき眷属になるための資質、それをアルネは持っていた。
いつしか日も暮れ始め、アルネは家に帰って姉の帰りを待つことにしていた。
彼女は姉の帰ってくる時間にも、祈りを欠かさず捧げていた。
だが、この日は違っていた。
いつもならば、もう帰ってきてもおかしくない時間に、姉が帰ってこないのだ。
「少しくらい、遅くなることだってあるよね?」
ヴァイムに問いかけると、彼はすぐに答えていた。
(我が父を上回る力を持つ者など、外の世界にはおらぬ。安心して待つのがいい)
エルガとキリエを信頼しての言葉、アルネもそれを信じて帰りを待っていた。
「そうだ、お姉ちゃんが帰ってくるまでに夕飯の用意しなくちゃ!」
アルネは自らが眷属となったことを、姉が帰るなりすぐにでも報告するつもりだ。張り切って料理を作り出し、ヴァイムは踊り場でお座りをしてキリエ達の帰りを待っていた。
夕飯が出来上がり、机の上に料理を並べておいた。気が付けば辺りは夜になり、集落が明かりを点けて、木々の上が星空のごとく、綺麗に彩られ始める。
だが、それでも姉のキリエは一向に帰ってくる気配がない。
普段ならば、もっと早くに帰ってきていてもおかしくない時間、否、帰ってきていなければならない時間なのだ。その時点でアルネは胸によからぬ感情を抱きだす。
もしかすると、姉の身に何かあったのではないか。そんな心配が頭の中をよぎる。だが、キリエはこの森の中でも唯一無二の存在、地を這う竜に近しい存在のコンラチリィヴァを引き連れている。
硬い表皮は剣をも弾き、しなる尻尾をひと振りすれば、その鋭く尖った鱗が連続で肉を引き裂いていく。まるでノコギリのように、肉を引き裂いていき、一度傷が付けば中々完治が難しい。
そんな強大な神の化身を扱う姉が、何かに襲われて負けるわけがないのだ。
だが、いくら待ってもキリエは帰ってこなかった。机に並べた料理は次第に温度を失っていき、完全に冷え切っていた。
行儀よく椅子に座ったアルネは、彼女の無事を信じて待ち続ける。だが、彼女は心配を抑えきれずに、立ち上がって家の前へと歩みだしていた。
森は闇によって支配されていて、とてもではないが帰って来られるような状況ではない。いつもよりも帰りの遅い姉に、喜びは一転して胸一杯を覆う心配に変わっていた。
だが、眷属たるもの職務を遂行しているのならば、一日二日、帰ってこないことも稀にある。特に人間の侵入者をとっ捕まえる時は、かなり時間をかけるという。
とはいえ、ここは森の中でも人里からは、相当離れた場所にある。人間の様な侵入者などは滅多に入っては来ない。
何よりも人を捕まえるとなれば、裁定を下すことがあるため、必ず野鳥などを使って神殿と各眷属に連絡を寄越すことになっている。
「まさか、おねえちゃんの身に何かあったのかな?」
一人で待つのが不安で仕方なく、アルネは何か連絡がないかと思い、行動に移っていた。何かあれば必ず神殿にも連絡が言っているはずだ。
アルネは森の神官のいる神殿へと駆け出していた。彼女の後ろに続いてヴァイムも樹上を疾駆する。
最短距離を走れば、すぐに神殿に辿り着く。アルネが神殿に駆け込んでいき、大声で神官を呼んでいた。
「司祭様! 司祭様はおられませんか!?」
聖堂に響いた声に、驚いた表情を浮かべたフェルードが礼拝堂の奥の扉を開けて現れる。
「ア、アルネではないか。この夜更けに一体何事だ?」
アルネの不安そうな表情を見て、フェルードは彼女から事情を聴く。
「キリエお姉……、いえ、眷属のキリエの帰りがまだなのです。こちらに連絡はありませんか?」
アルネの心配そうな表情を見たフェルードは、その涼しい表情を曇らせる。
眷属が時間通りに帰らない。それだけではなく、連絡の一つすらない。
「アルネ、落ち着きなさい。すぐに神の啓示を仰ぐ準備を進めるから、君はここで待ちなさい」
フェルードはアルネの事情を察して、ただならぬ何かが起きている事を感じ取っていた。彼はすぐに神の啓示を受けられる巫女を呼び出しに行く。
眷属の中でも特に優秀な防人が、連絡ひとつ寄越さずに帰ってこない事はまずありえない。野鳥と心を交わすことさえできる眷属は、帰りが遅くなる場合は何らかの方法で絶対に連絡を入れるのが普通だ。
それが神殿にも妹にも届いていないとなると、何か事件に巻き込まれたとみるのが妥当だ。
フェルードは他の神官と共に巫女を連れて、礼拝堂の奥にある神の玉座へと入っていた。
そこで巫女が神にキリエの行方を問うのだ。
巫女はキリエの行方を問うために、祈りをささげだしていた。
神の啓示があるまで、ひたすら祈り続けるのが巫女としての責務だ。フェルード達が神の玉座に入ってから数時間、アルネはずっと結果を待っていた。神からの啓示が行われて、行方が分かるまではかなりの時間を要する。
やはり啓示すらないのかと、アルネが諦めかけた時、勢いよく扉が開いていた。
扉の向こうには汗をかいた巫女が、神官に両肩を担がれて出てきていた。そして、最後に出てきたフェルードが啓示があった事を告げる。
「アルネ……。君のお姉さんは何者かに攫われた。その相手は定かではないが、この森の外の物であることは確かだ」
神官の言葉を聞いたアルネは、そこで即座に提案していた。
「では、姉を探す捜索隊を……」
「森の眷属が敵わなかった相手である。しかも強力なコンラチリィヴァを連れていてだ。我々もできるだけの捜索はする。だが、それは森の中のみだ。その意味、眷属の君ならわかるな?」
神官の言葉を聞いたアルネは、表情を暗くする。
「我らが守るべき絶対の掟、ですね」
「そうだ。我らの生活を脅かす外界へは、どの様な事があっても絶対に触れてはならない。それが我らの掟だ。それに、眷属の強さは我らの頂点にある。その眷属でさえ太刀打ちできぬのなら、捜索はするが見つけるのは難しいであろう……」
表情を曇らせたフェルードを前に、アルネは集落が姉の捜索で外界まで出て行かない事を確信した。
キリケゴール族の掟は外界と交わるべからず。
集落の文化と生活を守るために、全ての交流を断ち切り、外界からは完全に閉鎖された社会を営んでいく事を第一にしている。
その行動が森を守る事にも繋がる。これらの掟を使命としているのが、キリケゴール族なのだ。そして、そんな彼らの中でも強さの象徴が眷属である。彼らはあらゆる脅威から森を守り、集落をも守る役目を持っている。そんな眷属の行方が分からなくなる事など、まずありえないのだ。
掟に従うならば、森から出ずに眷属を探し、その足取りを追うしかない。
集落はすぐに動いていた。
森の中を隅々まで探し、また他の集落にも連絡を回して捜索をした。
だが、それだけ探しても、明確な証拠は見つからず仕舞いだった。
キリエの姉が居なくなってから数週間後、全ての捜索は打ち切られていた。
捜索隊は神殿の決定に落胆していた。
集落一の優秀な眷属を失ったのだ。彼らは必死になって探すも、これ以上は森に手掛かりがない事を知って諦めていた。
彼ら以上に落胆していたのは、実の妹アルネだった。彼女は眷属としての儀式を終えて、キリエの空いた席に着いていた。
だが、何一つ嬉しい事はない。ただ鬱々とした気持ちで、眷属としての仕事をこなしているだけ。動物に問いかけをすることなく、刃を向ける事なども多々あった。ぶつけようのない憤怒と悲しみの中、淡々と眷属の責務をこなしていく。
そんな日が続き、見かねたヴァイムはある日一言だけ告げていた。
(そこまで思い詰めているのならば、結果がどうあれ、外界に出てキリエを探せばよい)
「で、でも、私は眷属だ! 外に出る事など許されない……。それに……」
そこでアルネは喉を詰まらせるようにして喋らなくなる。
(無理はせずともよい。鬱々としているお前と一緒にいても、良い責務は果たせぬ)
「でも、一度集落を出たら、もう二度と戻って来れない。ヴァイムはまだ成長してる途中だし……」
アルネの懸念を聞いて、ヴァイムは鼻でふっと笑う。
(気にする事はない……。あれは単なる成長を早めるだけの物。別に飲まずとも体は大きくなる。それに我も外の世界と言うものを見てみたい)
ヴァイムは森の中でアルネを見据えていた。
自分の体はアルネと共にある。そして、彼女の気持ちを考えればこそ、ヴァイムは彼女と外に出る事を望めた。
アルネは暫し沈黙していたが、すぐに決意を固めていた。
(わかった。ヴァイム。もう戻れなくなるけど、いいの?)
(我の身も心も既にそなたと共にある。アルネよ。お前が決意を固めたなら、共に歩むのみだ)
ヴァイムはアルネに改めて心身ともに共同体であると言って安心させる。
眷属としてはあるまじき背信の行為。それはアルネもヴァイムも自覚している。
何よりもフェルードを裏切る事が、彼女にとって最も胸の締め付けられる後ろめたしい気持ちにさせた。かつて、隣の集落で両親に見捨てられた二人を拾い、眷属として迎え入れたのは神殿の神官フェルードだ。
ここまで育て上げてくれたことに、アルネは感謝してもしきれない。
だが。それ以上にアルネは唯一の肉親である姉を探したいという気持ちが強かった。
(ごめんなさい。フェルード司祭様……。私はやっぱり姉を探しに行きます)
アルネは近くにいた野鳥を呼び出して、神殿のフェルードへメッセージを言づけていた。アルネはヴァイムと目を合わせたのち、森の外へと向かって駆け出していた。
アルネが集落を抜けた事がわかるのは、それからほどなくしてからの事だった。