一新の愚行
「今月の提案会を始めます」
ランチタイム終わりの静かな厨房に、芯の通った声が響く。
声の主は、三つ上の先輩の七星ななせさんだった。若手にも関わらず、うちのパティスリー部門長を勤めている。
すっと通った鼻筋に、冷たい目元を持つ美人。
しかし、その厳しさから裏で「厨房来るとその場の空気を一度下げる女」といわれていることを俺は知っている。
「はい、シェフ!」
盛りつけしていた手を止めて、大声で返事をした。となりで金型を洗っていた後輩の晴人はるとも、背筋を一気に伸ばす。
今日の提案会に参加するのは、俺と晴人のふたりだけらしい。
もっと人が多ければよかったのに。ごくん、とまずい唾を飲む。
緊張のあまり、口はからからになっている。
「今日は一新から。ホールに十五分後に持ってきて」
俺のあせりにまったく気づいていない先輩は、無表情でそう告げて厨房を去った。
俺が勤める清風亭は、創業九十八年をむかえるフレンチの老舗だ。
横浜の海を見渡す五つ星ホテルのレストランとして始まり、いまでは清風亭目当てに宿泊するゲストもいるほどの名店になっている。
普通、老舗は看板の味を守ることに力を注ぐ。が、清風亭は伝統より新しい味を追い求める珍しい店だった。
ここでは、月一回の新作提案会で採用されれば、だれでも自分の味を清風亭のメニューに載せられる。
たいていは期間限定の品としてだったが、それでも他の店ではありえないチャンスだった。
清風亭にきたばかりの頃は、この制度に感動して最年少で自分のメニューを載せてやると意気込んでいた。が、いまは自分の実力をよく知っている。
それでも毎月出すのをやめないのは、ささやかな意地とプライドでしかない。
「一新さん、今日の新作って例のやつですよね?」
先輩がいなくなった瞬間、晴人がすりよってきた。
「先に味見させてください。僕、今日は一新さんの愚行を見るためだけに、この提案会に来たんです!」
ここまではっきり馬鹿にされると気持ちがいい。
冷蔵庫から、予備のチョコレート・ボンボンが入ったタッパーを取り出し、晴人の手のひらにひとつ載せた。
「おいしそうですね」
「いやめちゃくちゃまずいよ」
「まずいとわかってるものを出す勇気、僕は買います」
「うるせーよ」
ホールから先輩が呼ぶ声がした。晴人がボンボンを口に入れるのを待たず、厨房を出た。




