第4章
艦首は、世界の先端だった。
風が、暴力みたいに吹きつける。
爆圧が皮膚を叩き、砲光が視界を焼き、黒煙が喉を刺す。遠くで炸裂する音が骨の奥にまで響き、艦体そのものが巨獣のように震えている。――ここは祈りが届く場所ではない。届く前に、砲声に引き裂かれる。
少女は、墜とされたままそこにいた。
耳を塞ぎ、目をぎゅっと閉じる。
指先が白くなるほど頭を抱え、ただ小さく丸まる。息を吸うと、焦げた金属の匂いが肺に刺さる。吐くと、喉が震える。
身体に力が入らない。立てない。走れない。逃げられない。
なのに震えだけは、はっきりと刻まれていた。生まれたての身体が、恐怖だけを覚えてしまったかのように。
彼女を宿していた龍は、すぐ傍で既に息絶えている。
突撃してきた残骸が装甲に食い込み、黒い鱗が裂け、血とも油ともつかない液が焼け焦げて固まっている。巨大な死体の影が、少女を覆うように横たわっているのに、それでも護りにはならない。死は盾にならない。死はただ、冷たい事実としてそこにあるだけだ。
「……誰か……」
零れるように呟いた声は、風に奪われた。
艦内の誰にも届かない。
砲声にかき消され、爆発の振動に飲まれ、空へ散って終わる。
反応はない。
あるはずがない。
少女は、唇を震わせた。
喉の奥が詰まり、涙が滲む。呼吸が浅くなり、胸が苦しい。
――怖い。怖い。怖い。
その繰り返しが、頭の中を埋め尽くしていく。
ふいに、少女は歌い始めた。
小さな声。
けれど確かな旋律。
誰かを呼ぶ歌ではない。助けを乞う歌でもない。
ただ、穏やかで――平和を願う歌だった。
花畑の夢で歌っていた、あのうた。
光の中で、争いという言葉が存在しない世界で、胸を温めてくれたうた。
歌っている間だけ、恐怖が少し薄らいだ。
世界が止まるわけではない。砲声が消えるわけでもない。
それでも、少女の内側でだけ、かろうじて“自分”が保たれる。
震えは消えないが、震えの中に小さな芯が生まれる。
――大丈夫。
――ここにいていい。
――壊れない。
そう言い聞かせる代わりに、歌う。
だが戦場は、歌を許さない。
影が落ちた。
少女が目を開ける前に、空気が“裂ける”気配がした。
殺意の温度。牙の匂い。視線の重さ。
異形の龍が一匹、艦首へ向けて急接近してくる。弾幕の隙間を縫い、まっすぐに――少女だけを狙って。
鋭い牙が、もう見える。
眼光が、氷みたいに冷たい。
その目は「壊す」以外の理由を持っていない。
少女の歌が途切れる。息が止まる。
叫べない。
声が出ない。
喉が、恐怖で固まっている。
――もう終わりだ。
そう思った瞬間。
閃光ではなく、刃が走った。
空気が一線で分かれる。
次の瞬間、迫っていた龍の頭部から胴へかけて、断面が滑るようにずれる。血も煙も遅れて噴き出し、巨大な影が二つに割れて、艦首の横へ落ちていく。
一刀両断。
少女は、息を吸うことすら忘れていた。
ただ呆然と、割れた影の向こうを見た。
そこに立っていたのは、ひとりの男だった。
戦艦アマテラス艦長――柊テツヤ。
軍刀を握っている。
刃には黒い液が散り、すぐに熱で蒸発して白い靄になる。
彼の髪は白く、風に煽られて乱れ、刻印の走る腕が一瞬だけ筋張る。だが表情は冷静だった。冷静すぎるほどに。戦場の時間に完全に馴染んだ人間の顔。
テツヤは少女の前に立ち、刃を下げたまま、空を一度だけ睨む。
次の影が来ないか確認する視線。確認が終わったのか、彼はやっと少女へ向き直った。
「……大丈夫か」
声は低い。
だがその低さは、恐怖を煽る低さではない。
戦場の中で、唯一“人間”に戻れる温度を持った声だった。
少女は言葉を探す。
探しても出てこない。
ただ唇が震える。碧い瞳に涙が溜まり、今にもこぼれそうになる。
テツヤは一歩、少女の前へ踏み出した。
軍刀を握る手は緩めない。背中を空へ向けたまま、少女と敵の間に自分の身体を差し込む。盾になる位置。
それがこの男の、反射に近い意思だった。
「ここは戦場だ。……だが、俺がいる」
その言葉が終わる前に、遠くで主砲が吠えた。
爆圧が艦首を揺らし、風が二人を叩く。
それでもテツヤは揺らがない。少女の前に立ち続ける。
少女は、かすれた声で、やっと一音だけ漏らした。
「……っ」
名前でも、感謝でもない。
ただ、生きているという証明の音。
そしてテツヤは、軍刀の切っ先をわずかに上げ、もう一度空を見上げた。
――次が来る。
来ることを前提に、彼は立っている。
白き黒鉄の艦首で、
怯える少女と、戦い続ける艦長が、同じ風を受けていた。
苛烈さが、段階を一つ上げた。
空が押し潰される。
弾幕の“隙間”という概念が消えていく。二万の龍は散っていたはずなのに、いまは一点に圧が集まり、まるで巨大な手でアマテラスを掴んで引き倒そうとしているみたいだった。衝撃が艦体を連打し、艦首装甲の裂傷から黒煙が濃く噴き出す。主砲は吠え続けているのに、敵の密度がそれを上回る。
艦橋からの遠隔カメラ越しに、AIの声が硬く響く。
『艦体応力、臨界に接近。姿勢制御、限界域。迎撃効率――低下。』
「分かってる」
艦首の最前線で、柊テツヤは短く返した。
彼の足元で装甲が細かく震え、熱で歪んだ空気が白い靄になって流れていく。すぐ横では、さっき斬り伏せた龍の断面が黒い泡のように蒸発していた。
テツヤは少女のほうを見た。
黄金の髪は風に叩かれ、碧い瞳は涙で濡れている。怯えは消えていない。身体はまだ言うことをきかず、立とうとしても膝が折れる。だが、テツヤが差し出した手だけは、必死に握り返してきた。
その指は冷たい。
震えが、掌越しに伝わってくる。
「立てるか」
少女は答えられない。
ただ小さく頷く。頷いた瞬間、また揺れて、テツヤの腕に縋りつく。
テツヤは迷わず、少女の手を強く握り直した。落とさないための力だ。励ますための力ではない。戦場では、余計な優しさは動きを鈍らせる。
「艦内に戻る。ここにいるべきじゃない」
言葉を言い終える前に、艦首が大きく跳ねた。
どこかに直撃が入った。衝撃波が伝わり、二人の身体が一瞬だけ浮く。少女の息が詰まり、指先が痛いほどテツヤの手に絡みつく。
テツヤは軍刀を構えたまま、艦首側のハッチへ向けて半歩ずつ進む。
少女を引っ張るのではない。引っ張れば倒れる。支えれば遅れる。
だから“連れていく”ために、彼は自分の歩幅を強制的に小さくした。
その瞬間――空気が裂ける音。
殺意が、一直線に落ちてきた。
「……来たな」
テツヤは足を止め、少女を背中側へ引き込む。
握っていた手を離さないまま、身体だけを前へ出す。少女と敵の間に、自分の肉体を差し込む動き。盾になる位置。艦長ではなく、ひとりの戦う人間の反射。
異形の龍が急降下してきていた。
牙を剥き、眼光は冷たく、狙いは明確だ。艦首の“頭脳”――アマテラスの核に戻ろうとする者を、ここで折る。彼らは船体を噛み砕くだけでは満足しない。指揮の芽を摘む。意思を潰す。
『艦長! 艦首至近、敵接近――!』
AIの警告が遅れて聞こえる。
テツヤは既に見ている。既に動いている。
龍の牙が届く距離――
テツヤの軍刀が走った。
刃が空気を切り、白い火花が散る。
龍の牙が軍刀に当たり、金属音が艦首の装甲に跳ね返る。衝撃が手首から肩へ突き抜け、骨が鳴る。だがテツヤは体重移動で受け流し、半歩ずらして斬り上げた。
斬撃は“硬さ”を断つのではない。
位相の綻びを狙って、裂け目へ滑り込ませる。
龍の鱗が一瞬だけ白熱し、黒い液が噴き、すぐに蒸発して煙になる。龍は吠え、しかし次の瞬間には、別の角度から二体目が突っ込んでくる。
テツヤは少女を背に、軍刀を振るい続ける。
一撃ごとに衝撃が増す。人間が受け止めるには重すぎる質量。だが退けない。退けば少女が喰われる。退けば艦首ハッチまでの数メートルが“無限”になる。
少女は声を出せない。
喉が固まり、目だけが大きく揺れる。
テツヤの背中が戦うたび、震えが伝わってくる。けれど少女はその手を離さない。離せない。
「俺から離れるな」
それだけ言って、テツヤはさらに一体を斬った。
刃が走り、影が割れる。だが次が来る。次が来る。
圧が増す。空が落ちてくる。
――このままでは押し切られる。
その瞬間、異様な“間”が生まれた。
龍の動きが、ほんの一拍だけ揃って止まる。
まるで誰かが、見えない指で糸を引いたように。
『……敵行動、変化。』
AIの声が、驚きと解析の間で揺れる。
『隊形――解散。収束解除。撤退行動を確認……敵性反応、上昇方向へ離脱開始』
テツヤは軍刀を構えたまま、一瞬だけ目を細めた。
信じられない。二万の圧が、いま、引いていく。
さっきまで艦首へ殺到していた影が、同時に角度を変え、上空へ散っていく。裂け目が開き、黒い影がそこへ吸い込まれていく。爆炎の中を突っ切ってきたはずの龍たちが、命令ひとつで潮が引くように退いた。
――命令。
――姫蜘蛛。
理由が分からないほど、気味が悪い。
戦場で「助かった」は、必ず罠の形をしている。
それでも今は、今だけは――隙が生まれた。
「行くぞ」
テツヤは少女を引き起こす。
少女の脚が崩れそうになり、テツヤは片腕で抱えるように支えた。軍刀は逆手に持ち替え、いつでも振れる角度のまま。守りながら運ぶための形。
艦首ハッチが開く。
内側から熱い空気が漏れ、外の冷たい風とぶつかって渦を巻く。
『艦首区画、気密確保。侵入防止隔壁、解放します。艦長、急いで。』
AIの声が促す。
その声にも、微かな緊張が混じっている。撤退が意味するもの――次の手が来るという確信。
テツヤは少女を半ば抱き上げる形で艦内へ滑り込み、最後に外を一瞥した。
空には、まだ黒い点が残っている。
だがそれらも、裂け目の向こうへ消えていく。
砲火が止まり始め、CIWSの唸りが徐々に弱まり、代わりに艦体のきしみが目立ってくる。戦艦アマテラスは押されていた。押されながら、何とか折れずに立っていた。
テツヤはハッチの縁で軍刀を一度だけ振り、付着した黒い液を払った。
蒸発する煙が細く昇り、消える。
「……撤退か」
独り言のように呟いて、テツヤは少女を見る。
少女の碧い瞳は震えたまま、しかし――生きている。確かに生きている。
「よく掴まってろ」
そう言って、彼は歩を進めた。
背後で隔壁が閉まる。
外の轟音が遮断され、代わりに艦内の警報と機関の唸りがはっきり響く。
戦いは終わっていない。
ただ――終焉の号令が、いったん引っ込められただけだ。
その不自然な静けさが、テツヤの背筋を冷やしたまま、艦内の通路へ長く尾を引いていた。




