第3章
突然変異体の子龍は、夢を見ている。
それは火星の赤でも、虚数の黒でもない。
痛みも、命令も、牙もない。
ただ――柔らかな光だけが、世界を満たしている。
花畑だった。
どこまでも続く草の匂い。風に揺れる色。
花はひとつひとつが違う形をしていて、それでも全体は調和している。赤と白と淡い青、名前を知らない色が、互いを否定せずに並んでいた。空は澄み、雲はゆっくりと流れる。地平線の向こうには山があり、山の向こうにも、きっと穏やかな何かが続いている。
子龍は、その花畑の真ん中で――うたを歌っていた。
声は小さい。
けれど澄んでいる。
喉の奥から絞り出す声ではない。誰かを威嚇するための音でもない。
ただ、胸の内にある温かさが、息になって出ていく――そんな歌だった。
歌っている自分の姿を、子龍は不思議な距離感で見ている。
翼も牙もない。爪もない。
怖がらなくていい身体。何かに備えなくていい姿。
その表情は穏やかだった。
心から安心している顔。
世界が自分を殺しに来ないと信じている顔。
生きていることに、理由を求めなくていい顔。
歌は風に混ざって、花畑を渡っていく。
花がそれに合わせて揺れる。蝶が舞う。どこかで鳥が鳴く。
“争い”という言葉が存在しない世界が、そこにはあった。
子龍は夢の中で、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
怖さではない。痛みでもない。
涙に似た、やさしいもの。
(ああ……どうか、このまま)
夢の中の自分が歌い続けるのを見ながら、子龍は思った。
(どうか、このまま、いつまでも)
その願いは、祈りに近い。
けれど誰かに届かなくてもいい。叶わなくてもいいと諦める必要もない。
ただ、そう思えるだけで、世界は十分に満ちていた。
尊い夢だ、と子龍は知っていた。
尊いという言葉を知らなくても、その感覚は確かだった。
ここでは、誰も牙を剥かない。
ここでは、強さで測られない。
ここでは、怯える必要がない。
花畑の中で歌う自分は、平和を体現したかのように見えた。
そしてその平和があまりにも自然で、あまりにも美しくて――
子龍は、胸の奥でそっと抱きしめるように思う。
(お願い。どうか……壊さないで)
夢は、あまりにも柔らかい。
だからこそ壊れやすい。
それでも子龍は、歌を止めなかった。
止めた瞬間に、この世界が消えてしまう気がしたから。
花の香りと、光と、風と、歌。
そのすべてに包まれながら、子龍はただ願う。
(このまま。いつまでも)
――その願いが、どれほど切実で、どれほど儚いかを、
子龍自身だけが、夢の奥で静かに理解していた。
子龍は――目を覚ました。
最初に戻ってきたのは匂いだった。
甘い花の香りではない。焦げた金属、焼けた油、そして――雷雨の直前みたいなオゾン。喉の奥がきゅっと縮むような、熱と乾きの匂い。
次に音。
歌の余韻ではなく、鼓膜を叩き割る轟音。砲の咆哮。機関の唸り。何かが装甲を削る金属音。遠くで爆発が連鎖し、空気が薄いはずなのに、振動だけが骨にまで届いてくる。
目を開ける。
そこは火星の赤錆の平原でもない。
生命のいない月面の白い死でもない。
眼前にあるのは――白と青を基調とした流線型の巨体。傷だらけの装甲。幾重にも走るヒビ。そこから吐き出される黒煙。青い空を裂く砲光。艦体そのものが怒りで震えているような、巨大な“意思”。
戦艦アマテラス。
少女の姿になった子龍は、艦首にいた。
艦首――風と衝撃の先端。波を切る場所が、今は空気の壁を切り裂く刃になっている。眼下には雲海がはるか遠くに沈み、上空には、黒い影が無数に蠢いていた。
龍。異形の龍。
数の暴力が、空を塗り潰す。
一体一体が破滅の塊であるはずの怪物が、群れとして秩序を持ち、矢のように突撃し、弾幕の中を“質量”で押し潰そうとしてくる。
アマテラスは負けじと反撃していた。
主砲が閃光の刃を吐き、ミサイルが白い尾を束ねて跳び、高角砲の曳光が天蓋を編む。CIWSの唸りが艦体全体から湧き上がり、近づく影を削り落としていく。――空が燃えていた。青い空が、白熱と黒煙でまだらに汚れていく。
そのただ中で、少女は動けなかった。
彼女が現れた場所は、艦首装甲に突き刺さった“それ”のすぐ傍だった。
突撃してきた異形の龍の残骸。黒い鱗と裂けた翼の一部が、装甲を抉り、そこに食い込んだまま震えている。衝突の熱で焼け焦げ、腐った鉄のような匂いを撒き散らしながら、まだ完全には死に切っていないみたいに痙攣していた。
そして――その残骸に付着していた繭。
繭は今、割れている。
内側から破った痕跡が生々しい。裂け目の縁に、透明な膜が糸を引き、そこからこぼれ出た少女の髪が、信じられないほど鮮やかな黄金で風に煽られている。碧色の瞳が、戦場の光を映して震えた。
生まれたての子鹿のように、身体に力が入らない。
指先に感覚はあるのに、指を動かそうとすると空回りする。膝が笑い、足首が言うことをきかず、ただ座り込むしかない。恐怖で固まっているのか、肉体がまだ“人間”の形に馴染んでいないのか――区別できるほどの余裕がない。
できるのは、周囲を見渡すことだけだった。
視界の端で、艦体のどこかが火花を散らした。
次の瞬間、衝撃が艦首を叩く。少女の身体が跳ね、胸の奥まで振動が突き抜ける。息が詰まり、喉が震える。花畑で歌っていたはずの喉が、今は声を忘れている。
――怖い。
碧い瞳が上空を追う。
黒い影が迫り、砲光が走り、影が爆ぜ、さらに次の影が穴を埋める。
その繰り返しが、終わらない。終わる気配がない。
少女は唇を開いた。
だが、出たのは掠れた息だけだった。叫びにならない。助けを求める形にもならない。風が強すぎて、言葉が生まれる前に奪われていく。
それでも視線だけは必死に動いた。
艦首の装甲。裂けた龍の鱗。黒煙。砲火。――そして、そのすべての中心にいる“艦”の存在。
アマテラスは戦っている。
傷だらけで、焼けて、黒煙を吐きながら、それでも空に踏みとどまっている。
少女の胸の奥で、何かが小さく脈打った。
それが鼓動なのか、別の“命令”なのか、まだ分からない。分かるのはただひとつ――ここは夢ではない、という事実だけだ。
花畑は消えた。
代わりに、終焉の空が広がっている。
少女は震えたまま、艦首の先端でただ見つめ続ける。
次の衝撃が来れば吹き飛ばされる距離で、次の砲光が目を焼く距離で。
生まれたての身体が、戦場の現実に晒されている。
艦橋は、戦闘の音で満ちていた。
主砲の咆哮が艦体の骨を震わせ、ミサイル発射の衝撃が床下から突き上げる。高角砲の連射が天井の配線を細かく鳴らし、CIWSの唸りが絶え間ない獣の声みたいに艦内に回り込む。警報は鳴りっぱなしで、赤いライン灯が広い艦橋を血の色に染めていた。
柊テツヤは操舵輪を握り、冷静に、淡々と命令を投げ続けていた。
短く。明確に。迷いの余地を残さない言葉だけを。
「左舷上方、迎撃密度を上げろ。主砲は第二射線へ。ミサイル、飽和点をずらせ。――近接、穴を作るな」
AIが応じる。
『了解。迎撃シーケンス更新。』
その瞬間、別の声色が割り込んだ。
合成音の平静が、僅かに“揺れる”。
『――艦長。緊急報告』
「何だ」
『艦首に……人間の生命反応を検出』
テツヤの指が、操舵輪の金属を強く噛んだ。
一瞬、艦橋の音が遠のく。主砲の咆哮も、警報も、脳の奥へ沈む。残るのは、その一文だけだった。
人間。生命反応。艦首。
「……人間?」
言葉が、掠れる。
ここは地球ではない。少なくとも、地上のどこかで起きている戦闘ではない。大気圏上層、月へ向かう航路、そしてこの死闘の最中だ。人間が艦首にいるはずがない。いるなら――それは“あり得ない”という事実そのものだ。
『反応は微弱ですが確実。生命兆候、単独。』
「ふざけるな……」
テツヤは吐き捨てかけて、言葉を飲み込んだ。
ふざけているのはAIではない。現実のほうだ。
「映像に出せ!」
怒鳴るつもりはなかった。
だが声は自然と強くなった。戦場の轟音に埋もれないように、ではない。自分の脳がその事実を拒んで、叫びでしか受け止められなかった。
『了解。艦首付近、外部カメラ映像を投影』
中央投影盤に映像が立ち上がる。
荒れ狂う成層圏の青。黒煙。火花。艦首装甲に走る裂傷。突撃してきた龍の残骸が食い込み、その周辺に――
人影があった。
か弱い、人間の少女。
黄金の髪が風に煽られて乱れ、碧色の瞳が大きく見開かれている。
幼い。細い肩。震える指先。
彼女は艦首に座り込むようにして、ただ周囲を見回していた。声は出ていない。出せないのだろう。戦場の圧に押し潰され、呼吸だけが浅く速い。生まれたての子鹿みたいに、身体がうまく動かない――そんな無力さが映像越しにも分かった。
怯えきっている。
恐怖の中で、世界を理解しようとしている目だ。
テツヤは、思考が追いつく前に身体が動いていた。
「……っ」
操舵輪から手が離れる。
胸の奥がきゅっと縮む。言葉にならない何かが喉を塞ぎ、視界が一瞬だけ狭くなる。危険だ。戦闘中だ。艦長が持ち場を離れるなど、本来あり得ない。
――だが、それでも。
テツヤは叫ぶ。
「戦闘指揮を一時委任する。艦首の迎撃密度を最大にしろ! 艦首周辺に衝撃が入らないよう、姿勢制御を優先! 繰り返す、艦首を守れ!」
『了解。戦闘指揮、当AIが一時代理。艦首周辺、迎撃パラメータを再設定。姿勢制御優先モードへ移行します』
返答の直後、艦内で何かが切り替わる振動が走った。
テツヤはそれを背中で感じながら、既に走り出していた。
艦橋を飛び出す。
広い艦橋の階段を駆け下り、通路へ。赤い非常灯が壁面を流れ、警報音が背中を追う。隔壁が閉まる音、遠くで砲の反動が鳴る音、金属が軋む音――それらが混ざり合って、艦の内部が巨大な心臓みたいに脈打っている。
テツヤは呼吸を乱さない。乱せない。
脚だけが速く、感情だけが遅れて追いかけてくる。
――なぜ人間が。
――なぜ艦首に。
――なぜ今。
問いは浮かぶ。だが答えを作る時間はない。
映像の中の碧い瞳が、頭から離れない。あの怯え。あの無力さ。戦場にいるべきではない存在。守られるべき存在。
テツヤは、考えるより先に走る。
ただ一つ、確かな本能に従って。
艦首へ。
あの少女のところへ。




