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第2章

火星の空は、色ではなく粉だった。

赤錆の微粒子が希薄な大気に漂い、太陽光を鈍く散らして、世界の輪郭を薄く削っていく。音は伸びず、匂いは生まれず、熱だけが淡々と奪われる。生き物のための星ではない――その事実が、ただ静かに居座っている。

姫蜘蛛は本陣の中心に立っていた。

美しい女性の姿。整いすぎた輪郭が、不気味なほど冷たい“正確さ”をまとっている。頬を伝う涙は本物の雫のように透明なのに、瞳は凪ぎ、眉も唇もほとんど動かない。泣いているのに、心が揺れていない。悲しみという現象だけを、冷静に再現している。

その手のひらの上で、一匹の子龍が浮遊していた。

まだ幼い。

翼は薄膜に近く、骨の線が透けるほど頼りない。角も短く、鱗は黒ではなく煤けた銀のように淡い。だが、その小さな体の隅々には、戦うために生まれた種の名残が残っている。爪の先の鋭さ。顎の形。喉奥に潜む、現実を削り取る“何か”。

――そして、子龍は怯えていた。

意識を失っているはずなのに、恐怖だけが残留しているかのように、身体は微かに震えていた。

尾はきゅっと丸まり、翼は不自然に畳まれ、首筋は縮こまっている。まぶたの下で眼球が小刻みに動く。悪夢の中で逃げ道を探すように。呼吸は浅く、早い。火星の薄い大気を吸うたび、喉が鳴る音がかすかに漏れる。

姫蜘蛛の指先から伸びる魔力が、透明な膜となって子龍を支えている。

それは檻ではない――姫蜘蛛自身はそう思っているのかもしれない。だが子龍にとっては、逃げられない“手”そのものだった。触れられていないのに、触れられている。温度も匂いもないのに、圧だけがある。その圧が、恐怖を増幅させる。

子龍は、殺されかけた。

突然変異体。穏やかで、争いを好まない。群れの意識の中でその性質は異物として弾かれ、判断は即座に共有された。

――不要。

――排除。

成体の龍たちが一斉に牙を向けたとき、子龍は逃げなかったのではない。逃げられなかった。

脚は竦み、翼は痙攣し、喉からは声にならない息が漏れた。恐怖のあまり、鳴くことすらできない。瞳は大きく見開かれ、黒い群れの影が迫るたび、涙にも似た湿り気が縁に滲んだ。生き延びたいという本能だけが暴れ、身体だけが追いつかない。

その瞬間、姫蜘蛛が介入した。

彼女は成体たちの殺意を、たった一度の“許可の撤回”で止めた。

群れは従った。従わざるを得ない。

だが子龍の恐怖は止まらない。牙が引かれても、死の記憶は引かれない。

姫蜘蛛は、その怯えを面白そうに観察した。

怯えている。確かに怯えている。

だが、この子は――恐怖の中でも、誰かを噛もうとしなかった。爪を立てようとしなかった。生きるための衝動が渦巻いているのに、破壊へ飛びつかない。そこに、群れの原理から逸脱した“何か”がある。

姫蜘蛛は、子龍の額へ指先を近づけた。

触れない。だが魔力の膜が僅かに収束し、子龍の周囲の圧が変わる。

子龍の震えが強くなった。

胸が小さく跳ね、喉が詰まる。恐怖が一段深く沈む。

逃げられない。逃げられない。逃げられない。

その思考が、意識の底で泡のように反復しているのが伝わってくる。

姫蜘蛛は涙を流しながら、冷静に微笑んだ。

「……こいつは面白いわね」

不敵な微笑。

慈しみではない。理解でもない。

“研究対象”を見つけたときの、冷たい興味。

子龍のまぶたがぴくりと動く。

閉じたままの瞳の奥で、恐怖が走る。

魔力の膜の中で、子龍は小さく身をよじった。だが動けない。わずかな抵抗すら、膜に吸われて消える。息が荒くなり、喉の奥で擦れる音がする。声が出ない代わりに、身体が「怖い」と叫んでいる。

姫蜘蛛は、その反応を見下ろしながら、ゆっくり掌を持ち上げた。

子龍はさらに高く浮き、火星の冷たい空へ近づく。落ちる恐怖も加わり、震えが増す。尾がきつく丸まり、爪が空を掻く。目覚めたいのに、目覚めきれない。夢と現実の境界で、ただ怯えるしかない。

背後には夥しい数の龍が控えている。

ひとつ命令が下れば、彼らは一斉に牙を剥く。子龍に対しても、地球に対しても。

姫蜘蛛は、その群れに視線を向けない。

向ける必要がない。彼らは命令の器官だ。

だからこそ、この“怯える突然変異”は、姫蜘蛛にとって異物として輝く。

「穏やかで、争いを嫌う……そのくせ、怖がるのね」

姫蜘蛛は、まるで答えを引き出すように囁いた。

だが答えは返らない。子龍は震えるだけだ。

その震えを、姫蜘蛛は“否定”しない。

むしろ、そこに価値を見出している。


成層圏へ向かう上昇の途中、大気はまだ“重い”ままだった。

雲の層を抜けた直後の空は青く、しかし青の奥に、薄い膜のような暗さが混じり始めている。波打つ雲海が下へ沈み、地平線がわずかに丸みを帯びる。その境目に――戦艦アマテラスは白い巨体を滑らせていた。

艦橋は広い。

艦橋前面の大窓に近い観測区画、その背後に指揮盤と操舵輪、さらに後方へ伸びる階段状のデッキ。天井は高く、空間の中心を縫うようにケーブルと光導波路が走る。壁面の表示は最小限に抑えられ、投影盤が必要な情報だけを空中に浮かべる。静かな艦橋に響くのは、機関の低い唸りと、空気摩擦が外板を撫でる微かな振動だけだ。

柊テツヤは、艦首方向の窓の向こうを見ていた。

月へ向かう。

それは目的地ではなく、通過点だ。乾ドックへ至るための線。補給と改装という最後の足場へ辿り着くための、細い針穴。

『周辺空域、航空機反応なし』

戦艦アマテラスのAIが淡々と報告する。

『電波環境もクリア。レーダー波――感知されず。地上監視網との交信反応も、現時点で無し』

テツヤは頷かない。

口元だけが僅かに動く。受け取った、という合図にもならないほど小さな動き。彼はむしろ、情報の「無さ」を警戒していた。静かすぎる空は、いつだって次の破局の前触れになる。

そのとき。

艦橋の空気が一変した。

警報。

鋭い音が、赤い光と共に駆け巡った。床のライン灯が赤へ反転し、天井の照明が落ち、壁面の警告表示が一斉に点滅する。広い艦橋が、瞬時に“戦闘用の色”に染まった。

『――警戒! 接触!』

AIの声が、初めて“叫び”に変わる。

平静を模した合成音が、鋭利な緊急信号へ切り替わった。

『敵――!』

テツヤは一瞬だけ、窓の向こうを見上げた。

薄くなり始めた青の先、宇宙へ続く暗さ。そこに、何かがいる。

「……宇宙からか」

呟きは、独り言だった。

だが次の瞬間、独り言の形は消える。艦長としての声が残る。

テツヤは着ていたコートを乱暴に――ではない、躊躇なく脱ぎ捨てた。

布が空気を切る音すら短い。肩の動きに迷いがなく、体が“その手順”を覚えている。床に落ちたコートが滑り、非常灯の赤に染まりながら止まる。

操舵輪へ。

テツヤの手が、その輪を握った瞬間、艦橋の振動が変わった。

アマテラスが“艦長の神経”を接続し直す。操舵輪は単なる舵ではない。艦体の姿勢制御、兵装統制、推力配分――その全ての起点となる、古い形をした中枢インターフェースだ。人間が握れるように設計された“儀式”の輪。

テツヤの瞳が細くなる。

痛みが来る。情報が来る。吐き気が来る。

それを受け止める覚悟が、手の中にある。

「戦闘態勢」

短く切る。

言葉の余白がない命令。

「全兵装、即応。艦橋遮蔽、戦闘モードへ移行。推力――上昇優先から回避優先に切り替え。撃てる距離に入ったら躊躇するな」

『了解。戦闘態勢へ移行します』

AIの応答は速い。

艦内で隔壁が閉じる音が、遠雷のように響く。システムが切り替わるたび、床下の機構が低く鳴った。砲塔が旋回し、ミサイルベイのロックが外れ、射撃管制が目を覚ます。

投影盤に、敵性反応が表示される――はずだった。

だが表示は不完全だ。輪郭が定まらず、距離と速度が揺れ、センサーが“見えているのに見えない”という矛盾を吐き出している。

『警告。対象、位相不明。虚数干渉を確認。従来の追尾アルゴリズムが――』

「分かってる」

テツヤは遮る。

理屈ではなく、戦いの体感で理解している。姫蜘蛛の眷属。龍。

数ではない。法則の外側から殴ってくる敵。

窓の外、青の境界が一瞬だけ“裂けた”。

空が裂けたのではない。テツヤの視界の方が裂けた。

次の瞬間、黒い影が――いや、影よりも濃い“異物”が、成層圏の上から滑り落ちてくる。

『接近! 迎撃可能距離――』

「撃て」

テツヤの声は低い。

だが、その低さは恐怖の低さではない。必然の低さだ。

「ここを通すな」

操舵輪を握る手に力が入る。

艦体が応える。白き黒鉄が、空気を裂いて姿勢を変えた。重力と揚力と推力を同時に蹴り、巨体が“戦う角度”へと滑り込む。

警報は鳴り続ける。

だがその音の中心に、テツヤの命令が一本の芯として通る。

「戦闘開始だ」

そしてアマテラスは、再び吠えた。

月へ向かう航路の上で。

宇宙の入口で。

終焉を、まだ先へ追いやるために。


空が、数で埋まっていく。

それは「群れ」ではなかった。

大気圏の上澄みに、黒い粒が増えていく。最初は点。次に線。次に面。

成層圏の薄い青が、侵食されるように暗くなる。――そして投影盤の数値が、現実の残酷さを淡々と告げた。

敵性反応:二万超。

二万。

数として捉えた瞬間に思考が逃げたくなる桁。

しかも一体一体が“兵器”ではない。“災厄”だ。破滅的な破壊力を持つ怪物。単独で大陸の文明を消し飛ばすほどの力。都市ではない。国家でもない。文明そのものを終わらせる規模。

それが、二万を超えて襲いかかってくる。

艦橋の大窓の向こう、空の高みから“落ちて”くるものが見えた。

羽ばたきはない。落下でもない。空間の折れ目を滑り降りるように、影が影のまま速度を得る。鱗の黒は光を拒み、輪郭が定まる前に既にこちらの射程へ入っている。

一体が近づくたび、空気が軋む。電離が走り、薄いオーロラが裂け目の縁を縁取る。

柊テツヤは操舵輪を握ったまま、視線を一点に固定した。

情報の奔流が頭蓋の内側を叩く。距離、角度、速度、衝突確率、迎撃可能数、弾薬残量、熱量限界。

吐き気が喉元まで上がる。だが飲み込む。目を逸らせば終わる。

「――撃て」

命令は短い。短くなければ、この数には追いつけない。

戦艦アマテラスが吠えた。

主砲が一斉に火を噴く。

艦体の両舷、艦首、艦腹――各砲塔が同時に咆哮し、白熱の砲光が成層圏を切り裂く。衝撃波が薄い空気を押し広げ、窓の外の景色が一瞬だけ“歪む”。

砲撃は一発ではない。連なった光の刃だ。命中した龍は断面を残さず蒸発し、黒い鱗が粉のように散って、次の瞬間には虚数の裂け目に吸われる。

続いて、ミサイルが放たれた。

艦体側面のベイが開き、白い尾を引く数十、数百の光が空へ躍り出る。推進炎が薄い空気を裂き、尾が蜘蛛の巣のように絡み合う。誘導はAIが握る。軌道は人間の目には追えないほど複雑だ。

ミサイルは“突っ込む”のではない。敵の位相変動を読み、変動の「次」に先回りするように、爆心を置きに行く。

高角砲がそれに続く。

乾いた連続音が艦橋の床を震わせ、無数の曳光が上空へ突き刺さる。薄い青に白い筋が幾千も生まれ、空そのものが針山になる。

龍の群れが面で迫るなら、こちらは面で叩き返す。火力の壁。迎撃の天蓋。突破を許さないための“天井”。

そして、最終近接――CIWS。

艦体各所のCIWSが回り始めると、その音はもはや音ではなく、連続した唸りになる。

金属が金属を叩く狂気のテンポ。弾丸が弾丸を追い越し、弾幕が空間を編む。近づく龍の頭部、翼の付け根、胸郭――脆い点だけを狙って、無慈悲に削り取っていく。

一体が墜ちる。だが後ろには百。千。万。

落ちた影の隙間を、次が埋める。

「…まだだ」

テツヤの声は、吐き捨てるように小さい。

恐怖で震えていない。むしろ静かすぎる。

彼は数字を“見ない”。見たら心が折れる。だから、目の前の数十、数百を“処理”し続ける。

アマテラスの艦体が震える。

反動。熱。空気摩擦。

戦艦は巨大な機械だ。だが今は、巨大な“意思”として空に踏みとどまっている。裂け目から溢れる闇に対して、白い黒鉄が牙を剥いている。

二万を超える災厄。

一体で文明を滅ぼす怪物が二万。

その数に対して、アマテラスは答える。

主砲。ミサイル。高角砲。CIWS。

持ち得る全てを、惜しみなく吐き出す。

たとえ艦体が焼け、装甲が裂け、黒煙を吐いても――ここを通せば地球は終わる。

空が、さらに暗くなる。

だがアマテラスの砲光は、暗さの中でなお眩しく、執拗に瞬き続けた。

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