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第1章

青なのか、碧なのか。

同じ“空”を見上げていても、そこに浮かぶ色は見る者の数だけ違う――柊春香は、そう言っていた。

「人はね、自分の見え方で世界を切り分けるの。そうして、切り分けた外側を怖がって、拒んで……それが戦争になる」

誰かの正しさが、別の誰かにとっての脅威になる。

理解ではなく、区別と排除が先に立つ。――その結末を、テツヤは知りすぎるほど知っていた。

柊テツヤは、静かに空を見つめていた。

彼の足元には大海原が広がり、その海を割って、戦艦アマテラスが巨体を浮かべている。波を押し退けるたびに、艦首は白い飛沫を持ち上げ、それが陽光に砕けて、微細な虹の欠片となって散った。

テツヤが立つのは艦首付近――風を最初に受け、潮の匂いを最初に嗅ぐ場所だ。

艦の装甲は冷たく硬いはずなのに、彼の靴底には微かな震えが伝わってくる。重厚な機関の鼓動。隔てられた艦内の呼吸。生き物ではないのに、生きていると錯覚してしまうほどの律動が、ここにはあった。

「……空は、何色なのか」

呟きは風にほどけ、海へ落ちる前に消えた。

問いは誰かに投げたものではない。自分の内側へ向けた、確認に近い独り言だった。

見上げれば、空は青く輝いている。

だがその青は、ただの青ではない。薄い青、深い青、透明に近い青。高度と湿度と光の角度がつくる層の中で、色は常に揺れ続ける。ひとつの言葉で括れるほど、世界は単純ではない。

――そして何より。

テツヤの目に映る青は、いつもどこか“痛み”を含んでいる。

あの夜の声。引き金の感触。母の笑い声と、母の不在。あの瞬間を境に、空の色は決して同じには戻らなかった。

ふと、海鳥が低く旋回してきた。

白い翼が日光を弾き、艦首の上をかすめる。警戒心の薄い距離だ。アマテラスを脅威と見なしていない――そう言わんばかりに、鳥は潮風に乗り、悠然と波間へ降りていく。

その直後、艦の右舷側で水面が弾けた。

イルカが跳ねる。二頭、三頭。群れになって、艦がつくる航跡の泡を遊び場に変えている。濡れた背が陽光を受けて黒く光り、次の瞬間には海へ滑り落ちる。まるでこの艦を“護衛”するみたいに、一定の距離を保ったまま並走し、時折、呼吸のために水面を破って音を立てた。

――戦艦の周りに、命が寄ってくる。

それが奇妙で、少しだけ胸が痛んだ。

テツヤは艦首の縁に手を置いた。装甲の表面は塩気を帯び、陽に温められている。指先に微細な振動が伝わる。

この艦は、戦うためにある。破壊のためにある。

それでも海鳥やイルカは、そこに“巣”を見つけてしまう。危険を忘れるのか、それとも――彼らには、見えている色が違うのか。

「...」

言葉は最後まで形にならなかった。

答えを知っている人間はもういない。自分が、その可能性を撃ち抜いた。

空は、青い。

海は、碧い。

けれどテツヤの世界は、そのどちらにも属しきれない色を帯びている。

彼は息を吸い、潮と油と金属の匂いを肺に入れた。

そして、もう一度だけ空を見上げる。自分が見ている色が、どんなに歪んでいても――ここに立っている以上、拒むわけにはいかない。

イルカが、艦首の真下で跳ねた。

海鳥が、遠くで鳴いた。

静かな海の上で、アマテラスだけが低い唸りを響かせながら、黙って前へ進んでいく。


火星の空は、色というより“粉”だった。

赤錆の微粒子が希薄な大気に漂い、太陽光を鈍く散らして、世界の輪郭を薄く擦り減らしていく。風はほとんどない。それでも砂は止まらない。止まらないものがある場所では、静寂さえも「止まれない」という形で存在する。

その乾いた平原に、姫蜘蛛は布陣していた。

本陣――そう呼ぶのが最も近い。

地表に刻まれた巨大な円環。幾何学的な陣列が砂と岩を縫い、黒い杭のような構造物が等間隔で突き立っている。材質は現実のどれにも似ていない。触れようとした指先が、そこに触れていないのに“拒絶”を感じる。虚数空間の縁が、火星という死の星に薄く滲み出て、現実を縫い止めていた。

その中心に――姫蜘蛛がいる。

彼女は、美しい女性の姿をしていた。

月光のように白い肌。冷たい光を宿した長い髪。整いすぎた輪郭は、見る者に安心ではなく警戒を与える。完璧は、いつだって不吉だ。

そして、彼女はひとり涙を流していた。

頬を伝う雫は確かに透明で、熱を持っているように見える。

だが、その表情は不気味なほど冷静だった。瞳の奥が揺れない。眉も唇も、悲しみに沿った角度を取らない。涙だけが、そこに“人間らしさ”の模造品として置かれている。

――泣いているのに、泣いていない。

痛んでいるのに、痛みを拒んでいる。

本陣の周囲には、夥しい数の異形の龍が伏せていた。

数えようとする思考そのものを嘲笑う規模。砂丘の稜線、クレーターの縁、裂けた谷の影。火星の地形は、鱗と翼と角で埋め尽くされている。彼らは羽ばたかない。必要がない。彼らは“飛ぶ”のではなく、“世界の座標を選び直す”ことで移動する生き物だ。法則に従っているふりをしながら、法則の外側に爪をかけている。

号令を待っている。

出撃の言葉を。許可を。

姫蜘蛛は、その群れを背にして、遠い一点を見つめた。

火星の空の向こう、薄い宇宙のさらに向こう。青い点――地球。

そこには白き黒鉄がいる。戦艦アマテラス。

そしてその艦の上に立つ、柊テツヤの気配。彼女の意識は、距離という概念を平然と踏み越えて、そこへ触れる。

(その平穏は、悠久と思うか?)

声は大気を伝わらない。

言葉として耳に届くのではなく、確信として胸に刺さる。

(柊テツヤ。戦艦アマテラス)

呼びかけは、名を与える行為ではない。

“特定”だ。無数の中から、その一点だけを選び抜く宣告。

(いや……その悠久は、かつて終焉を迎える運命にあった)

姫蜘蛛の唇が、ほんのわずかに弧を描く。

哀れみの形ではない。観察者の形だ。

(お前たちは抗ったな。防人の艦隊――)

かつて星の盾だった群れ。千年単位の秩序。祈りと計算で編まれた防衛線。

だが今は、もうない。

滅びた。散った。折れた。

(……だが今はもう、戦艦アマテラスただ一隻)

その言葉に、涙がもう一筋増えた。

増えたのに、表情は変わらない。

涙は“感情の結果”ではなく、感情に似せた“効果”として流れている。

(それでも、お前は立っている)

姫蜘蛛は、静かに笑った。

不気味に穏やかな笑み。慈愛にも嘲笑にも見える、曖昧な曲線。

その瞬間――龍たちが動いた。

一斉に頭が上がる。数億の意識が同時に一点へ収束し、火星の地表がわずかに震える。

そして、咆哮。

成層圏を裂くための音ではない。

宇宙に宣言するための音だ。

“地球へ向かう”という概念そのものに牙を立てる咆哮が、虚数の陣列を震わせ、円環の光を青白く脈動させる。

出撃は終焉の合図。

この群れが動けば、青い点は擦り潰される。

――誰もがそう理解するほどの圧力が、火星の静寂を押し潰した。

だが姫蜘蛛は、ゆっくりと首を振った。

「……まだ、だ」

囁きは優しい。けれど優しさではない。

それは、“保留”という名の支配だった。

龍たちの咆哮が、ひとつ、ふたつと低く沈む。

命令系統が一枚の膜のように統制され、暴力が、いったん鞘に収まる。

その従順さが、逆に恐ろしい。

姫蜘蛛は、泣きながら笑った。

涙は頬を濡らし、火星の乾いた風に触れてすぐに冷たくなる。

それでも彼女の瞳は凪いだまま――底が見えないほど静かだ。

「終わりは、いつだって“すぐ”にできる」

微笑みが深くなる。

その平穏は悠久ではない。悠久の仮面だ。

悠久を装うことで、相手の心を削るための、残酷な静けさ。

「……抗っただろう? 柊テツヤ。戦艦アマテラス」

遠い地球へ向けて、彼女は優雅に手を伸ばす。

指先は、青い点を撫でるように見えた。

「だから、もっと――見せて」

火星の陣列が、淡く光る。

扉は開かない。まだ開かない。

だが、開く準備だけは完璧に整っている。

姫蜘蛛は涙を流したまま、冷静に笑い続ける。

終焉の合図を、あえて遅らせることで――

その瞬間までの“時間”すら、武器に変えるために。


艦橋は薄暗かった。

非常灯が床面のラインを赤く縁取り、天井の配線を走る冷却液の脈動だけが、かろうじて「ここが生きている」ことを証明している。外板のどこかが焼けた匂いが残り、微細な金属粉とオゾンが空気に混じっていた。白と青の流線型――その美しさの裏側で、艦は確実に疲弊している。

柊テツヤは艦長席に座らず、少し前に立ったまま中央投影盤を見下ろしていた。

白髪に落ちる光が硬い。刻印の走る手袋越しに指先を組み、呼吸は浅く、しかし乱れない。感情を抑え込んでいるというより、もはや感情の波に「乗る」ことをやめた人間の静けさだった。

「偵察機の映像を再生してくれ」

彼の声は低く、必要な音だけで構成されていた。

『了解。火星偵察機《KAGAMI-03》、最終通信ログを投影します』

艦内に響いたのは、機械音に寄りすぎない落ち着いた声だった。戦艦アマテラスの統合AI。

その声は、どこか“人間の輪郭”を模している。――母・柊春香が艦長だった頃の、癖のようなものが残っているのだろうか。テツヤはそれを考えることを避け、視線だけを前へ固定した。

投影盤の上に、赤い砂塵の粒子が立ち上がる。

最初は黒いノイズ。次に、緩やかな回転を伴う星図。航法表示、機体姿勢、推進残量、受信強度。情報が整列し、そして――火星が映った。

薄い橙、赤錆、乾いた影。

地平線の曲率が、偵察機が十分に近づいたことを示している。大気は薄いはずなのに、砂塵が光を散らして、世界の輪郭を曖昧にしていた。映像は不鮮明だ。だが「不鮮明」という事実自体が、異常の証拠だった。火星のはずの画面に、あり得ない干渉が混じっている。

テツヤは瞬きを一度だけした。

画面の端に、幾何学的な光のリングが見えた。

地表に刻まれた円環。等間隔に突き立つ黒い杭のような構造物。材質は判別不能。光学センサーが「色」として認識しきれない“黒”が、火星の赤を侵食している。

――本陣。

その直後、フレームが跳ねた。

ノイズが走り、映像の解像度が一瞬だけ上がる。まるで偵察機が「見せられた」かのように、画面の中心に何かが映り込んだ。

美しい女性の姿。

火星の死の色の中で、そこだけが異物のように整っている。長い髪、白い肌、均整の取れた輪郭。だが、整いすぎている。人間が「美」と呼ぶ型を、意図してなぞった形だった。

頬を伝う涙が一本。

それなのに、表情は凪いでいる。不気味なほど冷静で、まばたきすら無駄だと言わんばかりの静けさ。

次の瞬間――

画面が白く焼けた。

閃光。音声ログが潰れ、警告表示が赤に染まる。

【SIGNAL LOST】

【KAGAMI-03: TELEMETRY DISCONNECT】

【CAUSE: UNKNOWN / HIGH-ENERGY INTERFERENCE】

そして映像は、そこで途切れた。

艦橋に戻ってきた静寂は、さっきまでより重かった。

テツヤは無意識に息を止めていた。吐き出すまで、数秒。喉の奥がわずかに熱い。情報が足りない苛立ちより先に、「十分すぎる」確信が胸に沈む。あれは偶然の撃墜ではない。こちらの視線が届いた瞬間に、向こうは“切った”。

テツヤは投影盤から視線を外さずに言った。

「……姫蜘蛛だな」

『確率は高い。映像内の対象は、過去に観測した虚数干渉パターンと一致します』

淡々とした返答。その淡々さが、かえって現実味を増幅する。

テツヤは歯を噛みしめない。拳も握らない。ただ、視線だけが硬くなる。

「EARTHの残影はどれほどの効力を有する?」

問いは、祈りではなく確認だった。

EARTH――かつて地球防衛の全てを統べたスーパーコンピューター。その本体は破壊され、防人の艦隊も散った。だがアマテラスの中枢には、断片だけが残っている。残骸ではない。残影。再現できないが、完全に消えもしない、かつての巨人の影。

『残影モジュールの稼働率は低下しています。老朽化が著しい。演算資源のピークは全盛期比で――推定六%未満』

六%。

数字だけなら希望はない。だが、テツヤは眉ひとつ動かさなかった。希望の有無を顔に出すのは、もうやめている。

AIの声が続く。

『しかし、残影の広域索敵・遺構探索機能は、なお有効です。解析の結果……使用可能と思しき乾ドックを発見しました』

投影盤に、新たな星図が重なる。

地球圏外縁。月軌道のさらに向こう、かつて防人の艦隊が「存在を隠す」ために選んだ場所。そこに、点ではなく“空白”があった。センサーが何も拾えない不自然な穴。隠蔽シールド。古い方式だが、まだ息をしている。

『防人艦隊が運用していた、秘匿ドライドックの残存施設です。外殻は損傷。電力系統も不安定。しかし――最低限の加工設備、燃料・弾薬の備蓄、交換部品のコンテナ群が残存している可能性があります』

テツヤの胸の奥で、何かがわずかに動いた。

それは昂りではない。戦術上の“重心”が決まる感覚だ。地球を守るのに必要なのは、理想ではなく現実的な補給線。今のアマテラスは傷だらけで、しかも敵は数で押し潰してくる。こちらの兵装がいくら強くても、弾が尽きれば終わる。

AIが結論を置く。

『それが……我々に残された最後の補給及び改装拠点です』

「最後」

テツヤは、その単語を反芻しなかった。

言葉の重さに溺れない。必要なのは、次の行動だけだ。

「到達可能性は?」

『現状推力なら到達可能。ただし航路上の被探知リスクは高い。姫蜘蛛が火星に布陣している以上、地球圏周辺の監視網が強化されていると推定されます。偵察機の断絶パターンから見て、こちらの“視線”すら検知される』

――見られている。

こちらが見るより先に、向こうが気づく。

それでも、行くしかない。

テツヤは投影盤に映る“空白”を見つめた。

空白の向こうに、わずかな可能性がある。補給、修復、改装。アマテラスがもう一度“白い黒鉄”として吠えるための最後の骨格。

「なら、急ぐ。敵に気づかれる前に、艦を立て直す」

『了解。乾ドックへの航路を再計算。残影モジュールを優先的に割り当てます』

AIの声には、感情はない。

だがテツヤには分かる。感情がなくても、意思はある。アマテラスは“守る”という命令を、今も継続している。春香が、そして防人の艦隊が、その命令を艦に刻んだ。

テツヤはゆっくりと目を閉じ、火星の最後のフレームを頭の裏で再生した。

泣きながら冷静に笑う女。

美しさの仮面。悠久を装う静けさ。

そして、その背後で息を潜める夥しい龍。

――出撃の号令が下れば、地球は終わる。

だから、号令が下る前にこちらが牙を研ぐしかない。

目を開けたテツヤは、いつもの静かな声で言った。

「アマテラス。……まだ、終わらせない」

『――承認。艦長、柊テツヤ。戦闘準備および航行準備を開始します』

艦橋の床が、低く鳴った。

機関が息を吸い直す音。艦が、もう一度前へ進むために体内の血流を整える音。

その律動の中で、テツヤはただ立ち尽くし、青い地球を想像した。青か碧かはどうでもいい。守るべき“点”が、そこにある。それだけが、彼の世界の基準だった。

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