第9話 合図を決めよう
谷を回り込んでから、しばらく無言で歩いた。
森の空気が、少し重い。
さっきの出来事が、尾を引いている。
僕は、歩きながら考えていた。
言葉が通じないわけじゃない。
むしろ、通じすぎている。
意味は届く。
感情も、状況も。
問題は、その先――
行動に落とし込む段階だ。
「なあ、リラ」
前を歩く彼女に声をかける。
「なに?」
「さっきの件だけど」
彼女は足を止めず、耳だけこちらに向けた。
「言葉、使わない方がいい場面がある」
「……あるね」
即答だった。
「遺跡の中とか、崩れやすい場所とか。
考える時間がないところ」
やっぱり、同じ感覚だ。
「だからさ」
僕は続ける。
「合図、決めよう」
「合図?」
「うん。
言葉じゃなくて、動きで」
彼女は少し考え、歩みを止めた。
「例えば?」
「危ない時」
僕は自分の肘を軽く叩く。
「肘を掴んで引く。
理由はいらない。引かれたら、黙って下がる」
「……うん。分かりやすい」
リラが頷く。
「止まれ、じゃなくて」
足元を指さす。
「その場でしゃがむ。
頭を下げる。視界を低くする」
彼女は、実際にやってみせた。
素早く、重心を落とす。
「こんな感じ?」
「それでいい」
イメージが、ぴたりと合った。
「あと、進んでいい時」
僕は、肩のあたりを示す。
「肩を軽く叩く。
一回なら注意、二回なら安全」
「三回は?」
「……全力で走る」
一瞬、彼女が目を丸くして――
次の瞬間、吹き出した。
「ふふ……分かりやすい」
久しぶりに、場の空気が緩む。
「じゃあ、私からも一つ」
リラは言った。
「私が立ち止まって、地面を見る時」
「うん」
「その間は、絶対に前に出ない」
なるほど。
「理由は聞かない?」
「聞かない」
即答すると、彼女は満足そうに頷いた。
「助かる」
短い会話だったが、
それだけで、随分と安心感が違う。
即席のルール。
でも、現場ではそれが一番強い。
「……変な感じだな」
思わず、口に出る。
「何が?」
「会って、まだそんなに経ってないのに」
命を預け合う前提で、話をしている。
リラは少し考え、空を見上げた。
「遺跡を一緒に抜けたからでしょ」
「それだけ?」
「それだけ」
当たり前のことのように言う。
確かに、そういうものかもしれない。
僕は、歩き出しながら息を整えた。
言葉が完全じゃないなら、
補えばいい。
翻訳が荒いなら、
別の手段を足せばいい。
工学は、
失敗を前提に組み直す学問だ。
この世界でも、それは変わらない。
「……行けそうだな」
「うん」
リラが、前を見たまま答える。
その背中を見ながら、僕は思う。
少なくとも今は、
独りじゃない。




