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第1話 境界

第1話 石板(完全確定稿)


宇宙では、音がしない。

だから僕は、音より先に数字を見る。


視界の端に投影されたヘッドアップ・ディスプレイが、淡々と告げていた。

視線を動かすたび、表示はヘルメット内側に吸い付くようについてくる。


――酸素、残り三時間四十二分。

――二酸化炭素吸収、正常。

――スーツ温度、十九・六度。


「よし。予定どおり」


返事をする相手はいない。通信は生きている。だが、この距離と遅延では、いちいち許可を取っていたら仕事にならなかった。

僕は宇宙飛行士で、工学の人間だ。現場の判断は、現場でしかできない。


小惑星の表面は、砂糖菓子みたいに脆い。ドリルを当てると、思ったより簡単に削れて、粉がふわりと舞う。

落ちない。重力が弱く空気もないからだ。舞ったまま、ただそこにいる。


“世界が静かすぎる”というのは、こういうことを言うのだろう。

宇宙服の内側で、自分の呼吸音だけがやけに大きく聞こえていた。


僕は掘る。

未知に出会ったとき、物理学者はまず説明を始める。

工学者は違う。工学者は――再現から入る。


探査アームが表層の薄い層を払い、粉塵の向こうに何かが覗いた。


平らすぎる。


自然物の角じゃない。角が、意図して立っている。

黒い板だった。黒というより、光を吸い込んで、周囲の明るさまで奪うみたいな色。


僕は動きを止めた。


宇宙で「違和感」を見つけたとき、大抵それは本物だ。

嘘をつくのは、目のほうだ。


「……何だ、これ」


カメラを寄せる。

表面に、細い筋が走っている。傷じゃない。並び方に、どこか規則があるように見えた。


喉の奥が、乾く。


“誰かが置いたもの”――その可能性が頭をよぎった瞬間、背中がぞくりとした。

考えるべき手順は山ほどある。触る前に記録。周囲の撮影。サンプル採取。地上への報告。


分かっている。

分かっているのに。


僕の手は、もう動いていた。


慎重に、グローブの指先を近づける。

厚みのある素材越しに、指の動きがわずかに遅れて伝わる。


触れた。


……はずなのに、触れた感触がない。


温度も、硬さも伝わらない。

その代わり、指先が“境界”に引っかかったような感覚がした。世界そのものが、薄い膜になっているみたいだった。


「え……?」


次の瞬間。


視界が、割れた。


ガラスが砕けるというより、世界が二枚に剥がれて、ずれて、重なって――意味が追いつかない。

警告が赤く点滅した。

ヘルメットの内側で、視界が一瞬だけ歪む。


ERROR

ERROR

ERROR


文字列が、ただの光の粒に戻っていく。


声を出そうとして、出なかった。

息が、遅れてついてくる。心臓の鼓動だけが遠ざかる。


落ちる。


いや、落ちるというより、座標のほうが滑った。



背中に鈍い痛みが走って、意識が戻った。

硬い背面装甲が地面に当たった感触が、遅れて身体に響く。

反射で息を止める。宇宙では、いきなり吸い込むのは危険だから。


だが――空気が入ってきた。


湿って、冷たくて、少し甘い。

肺が膨らむ。咳が出そうになる。


ヘルメットの外から、音がした。


風。葉の擦れる音。遠くで鳥が鳴いている。


「……ありえない」


僕は周囲を見回した。


森だった。

無機質な装備に包まれたまま、有機的な匂いの中に立っている。

濃い緑が頭上を覆い、木漏れ日が細い柱になって落ちている。足元は柔らかな土。

宇宙服のブーツに、現実の泥がつく。


まず確認するべきことは決まっている。


手首の端末を叩き、簡易センサーを起動した。


大気――呼吸可能。

気圧――ほぼ地球と同じ。

放射線――許容範囲。

重力――……軽い。


「0.92G……?」


数値が、微細に揺れた。


誤差じゃない。

身体の感覚が、ほんの一瞬ふわりと浮いたのを、確かに感じた。


重力が、揺れている。


そんなこと、地球では起きない。


そのときだった。


何もないはずの空気が、淡く光った。


炎じゃない。稲妻でもない。

透明な川が、そこだけ流れているような、光の筋。


僕は息を止め、ゆっくり手を伸ばした。


押し返しが来た。


風圧ではない。

もっと静的で、もっと強い。


理由は分からない。

ただ、本能的に「長く触れてはいけない」と感じた。


僕は反射的に手を引いた。


視界が、ちらりと歪んだ。


テレビの映像が乱れたときみたいな、ほんの一瞬のノイズ。

次の瞬間には消えたが、森がどこか“平面的”に見える。


立体感が、少しだけ狂っている。


「……何だ、今の」


独り言が、やけに大きく聞こえた。


そのときになって、ようやく気づいた。


――最初から、そこにあった。


森の奥。

木々の隙間の向こうに、直線で構成された“形”がある。


今、現れたわけじゃない。

見えていなかったわけでもない。


ただ、認識できていなかった。


自然の景色として処理しきれない情報を、脳が後回しにしていただけだ。


それは、枝でも岩でもない。

曲線の多い森の中で、異様なほどまっすぐな線だけで成り立っている。


地面から、垂直に立ち上がる巨大な壁。


苔も、蔦もない。

周囲の色と、まるで噛み合っていない。


――人工物だ。


喉が、ひくりと鳴った。


「あれは..何だ?」

本作では、異世界を「理解する対象」として描いていきます。

次話より、この世界の“異常さ”を少しずつ明らかにしていく予定です。

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