ぴちゃん。目覚めるたび、彼が笑っている
※ご注意※
本作は精神的に重い描写を含むホラー作品です。
心に余裕のあるときにお読みください。
ぴちゃん。
ぴちゃん。
何かが、落ちる音がする。
セラステアは、翠色の瞳をわずかに開いた。
天井が見える。
身体が、動かない。
記憶が、ひどく曖昧だ。
——あれ?
私、何してたっけ……。
ぼんやりしていると、
男性の声が、すぐ近くで聞こえた。
「ステア」
視界の端に、顔が滑り込んでくる。
嬉しそうに覗き込む男。
婚約者のシルフェリオだった。
薄い青の瞳だけが、
ぼんやりとこちらを映していた。
「……目が覚めたんだね。
本当に、良かった」
セラステアの手を、
彼の両手が包み込むように握った。
——温かい。
その感触に、ふっと力が抜けた瞬間、
強烈な眠気が、波のように押し寄せた。
「まだ身体も思うように動かないだろう。
ゆっくり、休みなさい」
その声を、聞いたはずなのに。
次の瞬間には、
意識は、すでに沈んでいた。
……ちゃん。ぴちゃん。
いつもの音に目が覚めると、セラステアは瞳を開いた。
ここ何度目かの目覚めだった。
何日経ったのかも分からない。
けれど、起きていられる時間だけは、
少しずつ、長くなっている気がする。
「ステア、気付いたかい?」
いつものように、シルフェリオが覗き込む。
「そろそろ、何か食べられそうかい?
だいぶ、よくなってきたと思うんだけど」
そう言って、彼はセラステアの背中をそっと支えた。
——自分では、まったく力が入らない。
彼に身体を起こされると、そのままベッドに預けられる。
座った体勢になって、はじめて視界が開けた。
けれど、まだぼんやりとしか見えない。
どこかの部屋にいるらしい。
見覚えは、なかった。
「少しだけ、食べられそうかい?」
そう言って、彼は赤い果実を細く切った。
刃が入るたび、
ぴち、
と、小さな音がする。
それを、彼はそっと、
セラステアの唇に運ぶ。
噛もうとすると、
思ったよりも、力が入らない。
果汁だけが、舌の上に広がって、
味はよく分からなかった。
「……まだ、無理はしない方がいい。
少しでも食べられたなら、よかった」
彼はほっとしたように、セラステアを見つめる。
いつもしない動きをしたせいか、
じわじわと、眠気が広がっていった。
目を閉じそうになった、そのとき。
彼が、そっとベッドへ戻してくれた、
——そんな気配がした。
…ちゃ……ん。
ぴち。
セラステアの瞳が、わずかに開く。
視線を横に向けると、
白金の髪を束ねたシルフェリオが、そこにいた。
例の赤い果実を、果物ナイフで切っている。
「ステア。気付いたかい?」
彼は嬉しそうに目を細め、
いつものように、セラステアの上体を起こした。
切られた赤い果実が、口元へ運ばれる。
噛むと、
シャク、
と、小さな音がした。
——味はまだ分からない。
けれど前よりは、少しずつ食べられるようになっていた。
二切れ食べて、首を振る。
シルフェリオは何も言わず、
果実を、ベッド脇のテーブルへ置いた。
「……りがと」
唇を動かすと、
掠れた声が初めて零れた。
シルフェリオの瞳が、見開かれる。
それから、
触れたら壊れてしまいそうなものを見るように、笑った。
胸の奥が、
じんわりと温かくなった気がした、その時——
視界の端に、
何かが映った。
ドクン。
心臓が、大きく跳ねる。
……何を見たのかは、分からない。
けれどその一瞬で、
強烈な眠気が押し寄せてきた。
記憶が曖昧なまま、
セラステアは、また夢の底へ沈んでいった。
……ぴち。
音で、目が覚めた。
セラステアはゆっくりと瞼を開く。
天井が見えた。
——静かだ。
いつもなら、
すぐ近くにあるはずの気配が……ない。
「……リオ?」
声は、思ったよりも小さかった。
返事はなかった。
……ぴち。
音だけが、聞こえる。
胸の奥が、少しだけざわついた。
彼はどこへ行ったのだろう。
身体に力を入れると、
まだ重いけれど、
指先が、わずかに動いた。
肘をつこうとして、失敗する。
——それでも。
視線を下へ落とした、そのとき。
……ぴち。
音が、
自分の下から聞こえていることに、気づいた。
ベッドの、すぐ下。
心臓が、どくんと鳴る。
そこに何があるのかは……分からない。
けれどその音は、
ずっと前から、
ここで鳴っていた気がした。
……ぴち。
音は、変わらず鳴っている。
指先に、力を込める。
きし、と、
布がわずかに擦れる音がした。
自分の出した音に、ひどく驚く。
——動ける。
そのまま体を支えようとして、失敗した。
肩が沈む。
胸の奥で、どくん、と、心臓が鳴った。
……ぴち。
音は、
その拍子に合わせるみたいに、
すぐ下から返ってくる。
……偶然だ。
そう、思いたかった。
けれど、
指先が触れているこの場所の真下で、
何かが、落ちている。
そんな感覚が、
どうしても消えなかった。
息を整えようとする。
けれど呼吸の音が、
やけに大きく聞こえて、
それ以上動けなくなった。
——見ない方がいい。
理由は分からないのに、
それだけは、はっきりと分かった。
——ぎぃ。
小さな音がして、
部屋の奥で、扉が開いた。
足音が、
ゆっくりと近づいてくる。
「……起きてたんだね」
視界に白金の髪が入る。
シルフェリオだった。
いつものように、
何事もなかったみたいに、微笑んでいる。
ほっとする、はずだった。
けれど胸の奥が、
ひくりと、冷えた。
「無理に動いたのかい?」
そう言いながら、
彼はベッドのそばに来て、
そっと、彼女の肩に手を置く。
——温かい。
それなのに。
……ぴち。
音が、彼の足元から聞こえた気がした。
視線を動かそうとして……できなかった。
「大丈夫だよ」
彼は何も見えていないみたいに、
穏やかに言う。
「ちゃんと、順調だから」
何が、とは言わない。
でも、その言葉を聞いた瞬間、
強烈な眠気が、叩きつけるように落ちてきた。
——あ。
まただ。
そう思ったところで、
「今は、休もう」
彼の声が耳のすぐそばで、
優しく、響く。
……ぴち。
最後に聞こえたその音が、
彼女の意識を……深く、深く、
底へ沈めていった。
——
目が覚めた。
……音が、しない。
ぴち、も。
ぴちゃん、も。
何も聞こえなかった。
セラステアは、しばらくそのまま天井を見ていた。
どこか耳の奥がきんとする。
——静かだ。
胸の奥が、
ゆっくりと冷えていく。
「……リオ?」
声は、はっきり出た。
返事は……ない。
音が——ない。
代わりに聞こえるのは、
自分の呼吸だけだった。
すう、
はあ、
思っていたより、ずっと大きい。
——おかしい。
そう思う。
でも、何が、とは言えない。
指先に力を入れる。
……冷たい。
ベッドの縁に、指がかかった。
その瞬間。
——こつ。
乾いた、小さな音がした。
床の、どこかで。
心臓が、どくん、と鳴る。
ぴち、ではない。
水の音でも、
果実の音でもない。
——固いものが、何かに触れた音。
音はそれきり、
もうしなかった。
静けさが、部屋いっぱいに落ちてくる。
セラステアは、見下ろすことができなかった。
理由は分からない。
けれど、この静けさは、終わりではないと、
どこかで、分かっていた。
——
セラステアは目を開けた。
いつもの音が、
今日も、ない。
——静かすぎる。
胸の奥が、ひくりと冷えた。
「……ステア」
近くで、声がした。
視線を向けると、
白金の髪を束ねたシルフェリオが、
いつもの位置に立っている。
「目、覚めたんだね」
変わらない、穏やかな声。
彼はそっと、
果物ナイフを手に取った。
果実に刃が沈む。
その一瞬、
刃に、自分の瞳が映った。
——あれ。
こんな色だっただろうか。
「少し、食べられそう?」
彼の声で、
視線が引き戻される。
胸の奥に残った違和感は、
言葉になる前に、
静かに沈んでいった。
「……無理はしなくていいよ」
二切れで首を振ると、
彼はそれ以上、勧めなかった。
ナイフが、
静かにテーブルへ戻される。
シルフェリオは、
セラステアの額へ、
そっと手を当てた。
「……順調だね」
その言葉が落ちた途端、
体の奥から、
じわりと眠気が広がっていく。
——あ。
また、だ。
目を閉じる直前、
彼の薄い青の瞳が、
じっとセラステアを見つめていた。
その視線から、
なぜか逃げられなかった。
次の瞬間、
意識は音もなく、
闇の底へ……
落ちていった。
目を開けたとき、
セラステアは椅子に座っていた。
寝台ではない。
けれど部屋自体は、
見覚えのあるままだった。
背もたれの感触が、はっきりと分かる。
視界は、もう曇っていなかった。
部屋がくっきりと見える。
そして、
その向こうに――
動かないものが、重なっていた。
ひとつ、ふたつ、
という数え方は、できなかった。
それが、
生きていたものだったと理解するのに、
時間はかからなかった。
……ああ。
そうか。
自分の、ためだ。
ここにあるものすべてが、
自分を、ここまで連れてくるための――
その瞬間、胸の奥がきゅっと潰れた。
涙が、勝手に溢れてくる。
拭おうとは、思わなかった。
けれど……
もう、
——戻せない。
「……ステア」
すぐ近くで、声がした。
涙に滲んだ視界の向こうに、
白金の髪が映る。
シルフェリオだった。
彼は、椅子の前に膝をつき、
そっとセラステアの頬に触れる。
涙の跡を指でなぞり、
そのまま、そっと口づけた。
「大丈夫」
優しい声。
何も疑っていない声。
「もう少しだから」
彼女は何も言わなかった。
彼は彼女の涙の理由を、
見ようとしなかった。
「君を、
完全に生き返らせてあげる」
それが、彼の世界の答えだった。
セラステアは、
ただ涙を流したまま、
彼を見つめ返す。
その瞳から、
何かが静かに抜け落ちていくのを、
自分でも、はっきりと感じていた。
それでも彼は、
微笑んでいる。
「安心して。
あとは、僕に任せて」
その言葉を、最後に。
世界はまた、
音もなく、
再び、静かに閉ざされた。
目を開けたとき、
セラステアは、椅子に座っていた。
背もたれに、
体重を預けている感覚がある。
足は、きちんと床についていた。
——動く。
そう思って、指先に力を込める。
思ったよりもすんなりと、力が入った。
次に、足に力を入れる。
——立てる。
そう理解した瞬間、
セラステアの体は、
迷いなく、椅子から離れていた。
きちんと床の上に、立っている。
その瞬間。
「……っ!」
息を呑む音が、
すぐ近くで、した。
「立てた……!」
弾んだ声。
抑えきれない喜びを含んだ声。
「ステア、
立てたんだね……!」
振り向くと、
シルフェリオが目を見開いたまま、
こちらを見ていた。
「すごい……!本当に……!」
その声は、喜びで震えていた。
セラステアは、小さく息を吸う。
ふらつきはなかった。
体は、完全に自分のものだった。
彼女はゆっくりと微笑んだ。
視線を逸らすと、
すぐそばに、いつものテーブルがある。
その上に置かれていたものを、
彼女は見た。
果物ナイフ。
何度も、赤い果実を切るのに使われた、見慣れた刃。
彼はそれに、何の意味も見ていない。
セラステアは、その手を伸ばした。
迷いはなかった。
指が、柄を掴む。
冷たい感触。
それが自分の意思であることを、
はっきりと、感じた。
刃に、一瞬だけ、
自分の瞳が映る。
そこにあった色は、
灰色だった。
シルフェリオは、
薄い青の瞳を見開いた。
状況が理解できないのだろう。
だから、逃げなかった。
刃が彼の胸に、
深く、沈む。
愕然とした表情のまま、
彼の身体が傾いた。
倒れる身体を、
セラステアはただ、
見つめていた。
赤いものが、
自分の頬に飛ぶ。
それでも、
彼女は微笑んでいた。
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉かは、
自分でも、分からなかった。
次の瞬間、
彼女は迷いなく、
刃を、自分に向ける。
痛みは思ったよりも、
静かだった。
膝が、崩れる。
床に、座り込む。
セラステアは、
ゆっくりと、息を吐く。
ようやく、終わる。
そう、思った。
そのまま、
彼女の意識は、
二度と目覚めることなく、
闇へと……沈んだ。




