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ダーク恋愛短編集 ——戻れない選択をした者たちの物語

ぴちゃん。目覚めるたび、彼が笑っている

作者: *ほたる*
掲載日:2026/07/11

※ご注意※

本作は精神的に重い描写を含むホラー作品です。

心に余裕のあるときにお読みください。

 ぴちゃん。

 ぴちゃん。


 何かが、落ちる音がする。


 セラステアは、翠色の瞳をわずかに開いた。


 天井が見える。

 身体が、動かない。


 記憶が、ひどく曖昧だ。


 ——あれ?

 私、何してたっけ……。


 ぼんやりしていると、

 男性の声が、すぐ近くで聞こえた。


「ステア」


 視界の端に、顔が滑り込んでくる。

 嬉しそうに覗き込む男。


 婚約者のシルフェリオだった。

 薄い青の瞳だけが、

 ぼんやりとこちらを映していた。


「……目が覚めたんだね。

 本当に、良かった」


 セラステアの手を、

 彼の両手が包み込むように握った。


 ——温かい。


 その感触に、ふっと力が抜けた瞬間、

 強烈な眠気が、波のように押し寄せた。


「まだ身体も思うように動かないだろう。

 ゆっくり、休みなさい」


 その声を、聞いたはずなのに。

 次の瞬間には、

 意識は、すでに沈んでいた。


 ……ちゃん。ぴちゃん。


 いつもの音に目が覚めると、セラステアは瞳を開いた。


 ここ何度目かの目覚めだった。


 何日経ったのかも分からない。

 けれど、起きていられる時間だけは、

 少しずつ、長くなっている気がする。


「ステア、気付いたかい?」


 いつものように、シルフェリオが覗き込む。


「そろそろ、何か食べられそうかい?

 だいぶ、よくなってきたと思うんだけど」


 そう言って、彼はセラステアの背中をそっと支えた。


 ——自分では、まったく力が入らない。


 彼に身体を起こされると、そのままベッドに預けられる。

 座った体勢になって、はじめて視界が開けた。


 けれど、まだぼんやりとしか見えない。

 どこかの部屋にいるらしい。

 見覚えは、なかった。


「少しだけ、食べられそうかい?」


 そう言って、彼は赤い果実を細く切った。


 刃が入るたび、

 ぴち、

 と、小さな音がする。


 それを、彼はそっと、

 セラステアの唇に運ぶ。


 噛もうとすると、

 思ったよりも、力が入らない。


 果汁だけが、舌の上に広がって、

 味はよく分からなかった。


「……まだ、無理はしない方がいい。

 少しでも食べられたなら、よかった」


 彼はほっとしたように、セラステアを見つめる。


 いつもしない動きをしたせいか、

 じわじわと、眠気が広がっていった。


 目を閉じそうになった、そのとき。


 彼が、そっとベッドへ戻してくれた、

 ——そんな気配がした。


 …ちゃ……ん。

 ぴち。


 セラステアの瞳が、わずかに開く。


 視線を横に向けると、

 白金の髪を束ねたシルフェリオが、そこにいた。


 例の赤い果実を、果物ナイフで切っている。


「ステア。気付いたかい?」


 彼は嬉しそうに目を細め、

 いつものように、セラステアの上体を起こした。


 切られた赤い果実が、口元へ運ばれる。


 噛むと、

 シャク、

 と、小さな音がした。


 ——味はまだ分からない。

 けれど前よりは、少しずつ食べられるようになっていた。


 二切れ食べて、首を振る。


 シルフェリオは何も言わず、

 果実を、ベッド脇のテーブルへ置いた。


「……りがと」


 唇を動かすと、

 掠れた声が初めて零れた。


 シルフェリオの瞳が、見開かれる。

 それから、

 触れたら壊れてしまいそうなものを見るように、笑った。


 胸の奥が、

 じんわりと温かくなった気がした、その時——


 視界の端に、

 何かが映った。


 ドクン。


 心臓が、大きく跳ねる。


 ……何を見たのかは、分からない。

 けれどその一瞬で、

 強烈な眠気が押し寄せてきた。


 記憶が曖昧なまま、

 セラステアは、また夢の底へ沈んでいった。


 ……ぴち。


 音で、目が覚めた。

 セラステアはゆっくりと瞼を開く。


 天井が見えた。

 ——静かだ。


 いつもなら、

 すぐ近くにあるはずの気配が……ない。


「……リオ?」


 声は、思ったよりも小さかった。

 返事はなかった。


 ……ぴち。


 音だけが、聞こえる。

 胸の奥が、少しだけざわついた。

 彼はどこへ行ったのだろう。


 身体に力を入れると、

 まだ重いけれど、

 指先が、わずかに動いた。

 肘をつこうとして、失敗する。


 ——それでも。

 視線を下へ落とした、そのとき。


 ……ぴち。


 音が、

 自分の下から聞こえていることに、気づいた。


 ベッドの、すぐ下。

 心臓が、どくんと鳴る。

 そこに何があるのかは……分からない。


 けれどその音は、

 ずっと前から、

 ここで鳴っていた気がした。


 ……ぴち。


 音は、変わらず鳴っている。

 指先に、力を込める。


 きし、と、

 布がわずかに擦れる音がした。

 自分の出した音に、ひどく驚く。


 ——動ける。


 そのまま体を支えようとして、失敗した。

 肩が沈む。

 胸の奥で、どくん、と、心臓が鳴った。


 ……ぴち。


 音は、

 その拍子に合わせるみたいに、

 すぐ下から返ってくる。


 ……偶然だ。

 そう、思いたかった。


 けれど、

 指先が触れているこの場所の真下で、

 何かが、落ちている。


 そんな感覚が、

 どうしても消えなかった。


 息を整えようとする。


 けれど呼吸の音が、

 やけに大きく聞こえて、

 それ以上動けなくなった。


 ——見ない方がいい。


 理由は分からないのに、

 それだけは、はっきりと分かった。


 ——ぎぃ。


 小さな音がして、

 部屋の奥で、扉が開いた。


 足音が、

 ゆっくりと近づいてくる。


「……起きてたんだね」


 視界に白金の髪が入る。

 シルフェリオだった。


 いつものように、

 何事もなかったみたいに、微笑んでいる。

 ほっとする、はずだった。


 けれど胸の奥が、

 ひくりと、冷えた。


「無理に動いたのかい?」


 そう言いながら、

 彼はベッドのそばに来て、

 そっと、彼女の肩に手を置く。


 ——温かい。

 それなのに。


 ……ぴち。


 音が、彼の足元から聞こえた気がした。

 視線を動かそうとして……できなかった。


「大丈夫だよ」


 彼は何も見えていないみたいに、

 穏やかに言う。


「ちゃんと、順調だから」


 何が、とは言わない。


 でも、その言葉を聞いた瞬間、

 強烈な眠気が、叩きつけるように落ちてきた。


 ——あ。


 まただ。

 そう思ったところで、


「今は、休もう」


 彼の声が耳のすぐそばで、

 優しく、響く。


 ……ぴち。


 最後に聞こえたその音が、

 彼女の意識を……深く、深く、

 底へ沈めていった。


 ——


 目が覚めた。


 ……音が、しない。


 ぴち、も。

 ぴちゃん、も。


 何も聞こえなかった。

 セラステアは、しばらくそのまま天井を見ていた。


 どこか耳の奥がきんとする。


 ——静かだ。


 胸の奥が、

 ゆっくりと冷えていく。


「……リオ?」


 声は、はっきり出た。

 返事は……ない。

 音が——ない。


 代わりに聞こえるのは、

 自分の呼吸だけだった。


 すう、

 はあ、


 思っていたより、ずっと大きい。


 ——おかしい。


 そう思う。

 でも、何が、とは言えない。

 指先に力を入れる。


 ……冷たい。


 ベッドの縁に、指がかかった。

 その瞬間。


 ——こつ。


 乾いた、小さな音がした。


 床の、どこかで。

 心臓が、どくん、と鳴る。


 ぴち、ではない。

 水の音でも、

 果実の音でもない。


 ——固いものが、何かに触れた音。


 音はそれきり、

 もうしなかった。


 静けさが、部屋いっぱいに落ちてくる。

 セラステアは、見下ろすことができなかった。

 理由は分からない。


 けれど、この静けさは、終わりではないと、

 どこかで、分かっていた。


 ——


 セラステアは目を開けた。


 いつもの音が、

 今日も、ない。


 ——静かすぎる。


 胸の奥が、ひくりと冷えた。


「……ステア」


 近くで、声がした。


 視線を向けると、

 白金の髪を束ねたシルフェリオが、

 いつもの位置に立っている。


「目、覚めたんだね」


 変わらない、穏やかな声。


 彼はそっと、

 果物ナイフを手に取った。


 果実に刃が沈む。


 その一瞬、

 刃に、自分の瞳が映った。


 ——あれ。


 こんな色だっただろうか。


「少し、食べられそう?」


 彼の声で、

 視線が引き戻される。


 胸の奥に残った違和感は、

 言葉になる前に、

 静かに沈んでいった。


「……無理はしなくていいよ」


 二切れで首を振ると、

 彼はそれ以上、勧めなかった。


 ナイフが、

 静かにテーブルへ戻される。


 シルフェリオは、

 セラステアの額へ、

 そっと手を当てた。


「……順調だね」


 その言葉が落ちた途端、

 体の奥から、

 じわりと眠気が広がっていく。


 ——あ。


 また、だ。


 目を閉じる直前、

 彼の薄い青の瞳が、

 じっとセラステアを見つめていた。


 その視線から、

 なぜか逃げられなかった。


 次の瞬間、

 意識は音もなく、

 闇の底へ……

 落ちていった。


 目を開けたとき、

 セラステアは椅子に座っていた。


 寝台ではない。

 けれど部屋自体は、

 見覚えのあるままだった。


 背もたれの感触が、はっきりと分かる。

 視界は、もう曇っていなかった。


 部屋がくっきりと見える。

 そして、

 その向こうに――


 動かないものが、重なっていた。

 ひとつ、ふたつ、

 という数え方は、できなかった。


 それが、

 生きていたものだったと理解するのに、

 時間はかからなかった。


 ……ああ。


 そうか。

 自分の、ためだ。


 ここにあるものすべてが、

 自分を、ここまで連れてくるための――


 その瞬間、胸の奥がきゅっと潰れた。

 涙が、勝手に溢れてくる。

 拭おうとは、思わなかった。


 けれど……


 もう、

 ——戻せない。


「……ステア」


 すぐ近くで、声がした。

 涙に滲んだ視界の向こうに、

 白金の髪が映る。

 シルフェリオだった。


 彼は、椅子の前に膝をつき、

 そっとセラステアの頬に触れる。


 涙の跡を指でなぞり、

 そのまま、そっと口づけた。


「大丈夫」


 優しい声。

 何も疑っていない声。


「もう少しだから」


 彼女は何も言わなかった。

 彼は彼女の涙の理由を、

 見ようとしなかった。


「君を、

 完全に生き返らせてあげる」


 それが、彼の世界の答えだった。


 セラステアは、

 ただ涙を流したまま、

 彼を見つめ返す。


 その瞳から、

 何かが静かに抜け落ちていくのを、

 自分でも、はっきりと感じていた。


 それでも彼は、

 微笑んでいる。


「安心して。

 あとは、僕に任せて」


 その言葉を、最後に。


 世界はまた、

 音もなく、

 再び、静かに閉ざされた。


 目を開けたとき、

 セラステアは、椅子に座っていた。


 背もたれに、

 体重を預けている感覚がある。

 足は、きちんと床についていた。


 ——動く。


 そう思って、指先に力を込める。

 思ったよりもすんなりと、力が入った。

 次に、足に力を入れる。


 ——立てる。


 そう理解した瞬間、

 セラステアの体は、

 迷いなく、椅子から離れていた。


 きちんと床の上に、立っている。

 その瞬間。


「……っ!」


 息を呑む音が、

 すぐ近くで、した。


「立てた……!」


 弾んだ声。

 抑えきれない喜びを含んだ声。


「ステア、

 立てたんだね……!」


 振り向くと、

 シルフェリオが目を見開いたまま、

 こちらを見ていた。


「すごい……!本当に……!」


 その声は、喜びで震えていた。

 セラステアは、小さく息を吸う。


 ふらつきはなかった。

 体は、完全に自分のものだった。


 彼女はゆっくりと微笑んだ。

 視線を逸らすと、

 すぐそばに、いつものテーブルがある。


 その上に置かれていたものを、

 彼女は見た。


 果物ナイフ。


 何度も、赤い果実を切るのに使われた、見慣れた刃。


 彼はそれに、何の意味も見ていない。


 セラステアは、その手を伸ばした。

 迷いはなかった。


 指が、柄を掴む。

 冷たい感触。


 それが自分の意思であることを、

 はっきりと、感じた。


 刃に、一瞬だけ、

 自分の瞳が映る。


 そこにあった色は、

 灰色だった。


 シルフェリオは、

 薄い青の瞳を見開いた。


 状況が理解できないのだろう。

 だから、逃げなかった。


 刃が彼の胸に、

 深く、沈む。


 愕然とした表情のまま、

 彼の身体が傾いた。


 倒れる身体を、

 セラステアはただ、

 見つめていた。


 赤いものが、

 自分の頬に飛ぶ。


 それでも、

 彼女は微笑んでいた。


「……ごめんなさい」


 誰に向けた言葉かは、

 自分でも、分からなかった。


 次の瞬間、

 彼女は迷いなく、

 刃を、自分に向ける。


 痛みは思ったよりも、

 静かだった。


 膝が、崩れる。

 床に、座り込む。


 セラステアは、

 ゆっくりと、息を吐く。


 ようやく、終わる。


 そう、思った。


 そのまま、


 彼女の意識は、


 二度と目覚めることなく、


 闇へと……沈んだ。




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