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【短編小説】フェア労coffee働トレード

掲載日:2025/12/16

 紙コップの中にうずくまっているコーヒーは厭に酸味が立っていた。

 豆を焙煎してから長く置いたコーヒーを飲んで体調を崩したと言う人間の噂を聞いた事があるが、今なら少しだけ気持ちがわかる。

 繊細な舌を自認している気はないがあまりおいしくない。

 それは単純に自分に向いているコーヒーでは無いと言う話だ。

 これが好きだと言う人間もいる。

 そろそろ自動販売機には氷の有無や砂糖とクリームの選択ボタンに加えて、酸味と苦味を選べるものを追加して欲しいと思う。

 それが無いと分かっているのなら、いっそ砂糖と生クリームで味の分からないコーヒーを選ぶべきだったかも知らない。



 そもそもの話をすれば、何も好き好んで自動販売機で淹れるコーヒーを飲みたいと思った訳じゃあない。

 昼の休憩でいつも飲んでいる缶コーヒーが買えなかったから、仕方なしに自動販売機のカップコーヒーを買って飲んでいるのだ。

 別に缶コーヒーが美味しいと思って飲んでいる訳じゃあないのだ。あれだって麦茶みたいな味がする。

 すっかり涼しくなった季節では、缶コーヒーも冷たいものは売れない。ホットとして発売されている。

 冷たいから飲める味の缶コーヒーを温められてしまっては飲めたものじゃあない。


 缶コーヒーだって不味い。美味しいと思ったことは無い。

 ただ不味くて目が覚めるとか言う訳でもなく、単に労働に対するわずかな抵抗とでも言ったところだ。

 自分が労働者である事を自覚して薄いコーヒーを飲む、と言う儀式的で様式的な自己暗示的行為でしかない。

 それはかつて大人に対する憧憬であったこともある気がするけれど、それも遠い昔の話だ。

 あの頃の自分がいまの姿を見たら死んでしまうかも知れない。

 それもまた悪くない。



 別に美味しくもない缶コーヒーだが、それを飲むにあたって好きなシチュエーションと言うものはある。

 例えば寒い冬の日にバイクや自転車で長距離を走った後、休憩で飲む甘い缶コーヒーはとても良い。

 コーヒーを愉しんでいると言うよりは砂糖の甘さを悦んでいる気もする。

 じゃあコーヒーが良い訳ではないからダメだ。いまの話は無かったことにしよう、忘れて欲しい。


 しかしバイクや自転車に乗った後に飲むような甘い缶コーヒーは、労働の休憩に飲むものでは無い。

 砂糖などと言う甘さは労働には不必要なのだ。

 何故なら労働とは辛酸であり辛苦なのだから。

 自分が生産者階級であるとは言わないけれど、結局は単なる労働者でしかない。

 資本主義の走狗だ。

 三回まわって鳴くと口座に給与が振り込まれる。その従順さを学校で叩き込まれて社会と言う荒野に放たれたのだ。


 従順さを売りにした犬は安く買い叩かれ、反骨を失わなかった犬は闘争領域で牙を奮う。

 俺は従順な犬である事を選び、柵だとか檻の端で真ん中に暮らす犬たちに恨めしそうな視線を投げる。

 檻や柵の真ん中に行く努力を惜しんだ自分を棚に上げている。

 上げる棚があるのだからどうにでもなりそうだが、そういうものでもないのは今になってわかった。


 そうやって立ち回っておめおめと生き延びてきた。檻の外にいる犬たちの視線を背に受けながら、狡賢く労働者としての生産性を最大限に上げる。

 つまりいかに働かずして給与を得るか、と言う話になる。

 資本家の言う生産性とはいかに安く俺たちを過剰労働させるかと言う話なのだがら、そのヴァニシングポイントに辿り着く努力をするのが俺たちの役目だ。

 資本家と労働者に手打ちは無い。


 そうやって俺たちは労働を引き延ばす。

 まるで麦茶の様に薄くなったコーヒーみたいなものだ。あまり薄めすぎると売れないし、香料で誤魔化しても良くはならない。

 仕事も同じだ。

 サボり過ぎてはクビになるし、表面的な生真面目さでは生き残れない。

 誤魔化しの応酬だ。

 ボーナスに喜ぶふりをしているし、ポイントカードと言う先払いシステムには目を瞑る。



 労働。生活。生産。消費。

 それら全部が嘘だ。

 真実に他ならないから嘘になる。

 オフィスの真ん中で紙コップのコーヒーを飲む。酸味が立っている。俺はトウがたったルーキーだと呟いて笑う。

 俺には社会的に通用するスキルもへったくれもない。

 仕方がない。

 労働とは人間が汎用性を失う事に他ならない。そして先鋭化した労働は他所で通用しない。

 業界未経験、新人、素人。

 風俗の広告と変わらない転職のパッチワークだ。

 目を隠した風俗嬢。

 目を隠された労働者。


 俺は酸味の立った臭いがするスーツを脱いでオフィスの真ん中にうずくまった。

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