治癒の力で人助け! ― 神の真実と少女の戦い④
視界が歪む。
色が抜け、音が遠ざかる。
自分の名前すら曖昧になるような、深い霧が脳を覆う。
「……あ……れ……?」
進は頭を押さえ、膝をついた。
静と美月が慌てて駆け寄る。
「進君!? どうしたの、しっかりして!」
「進氏、目が……焦点が合ってない……!」
進は震える声で言った。
「……なんか……自分が……誰なのか……わからなく……なってきた……」
精神が崩れていく。
記憶が剥がれ落ちる。
心が砕ける音が聞こえるようだった。
悪魔が満足げに言った。
「人間が神の魂の傷を肩代わりするとは、愚かな……。あなたの精神は今、崩壊の淵にありますよ。これで娘の体は治せなくなりましたね。本当に愚かだ」
進の体がぐらりと傾き、床に倒れ込んだ。
静と美月が両脇から支える。
「進君!!」
「進氏、意識が……!」
進の瞳は虚ろで、焦点がどこにも合っていなかった。
美月は震える手でバッグを探った。
「……あった……!」
静が叫ぶ。
「美月!? 何を――」
美月は小さな金属ケースを取り出し、蓋を開けた。
あの喫茶店で三人で食べた、強烈なミントタブレット。
「進氏……お願い、これを……!」
美月は進の口元にタブレットを押し当て、そっと口に入れた。
次の瞬間――
進の体がびくりと震えた。
強烈なミントの刺激が、味覚と嗅覚を一気に貫く。
霧の中に沈んでいた意識が、鋭い冷気に引き戻される。
「……つ……め……たい……ミント……? あ……安全……第一……!」
進の瞳に、わずかに光が戻った。
美月は涙をこぼしながら言った。
「進氏、私たちとの約束を忘れないで! 私たちを忘れないで!」
静も涙を流し、進の手を握りしめる。
「進君、戻ってきて……! あなたは進君よ!」
進はかすれた声で呟いた。
「……静さん……美月さん……俺……カッコよかったか?」
「進君……! カッコよすぎて、惚れなおすわよ!!」
「今のは本当カッコよかった。胸キュンだった……!」
その瞬間――力の抜けていた指が、静の手を握り返した。
「……本当か? 二人とも、俺が能力を失くして、将来の稼ぎがあてにならなくても……結婚してイチャイチャしたいって……思ってくれるか……?」
静は涙を拭いながら叫んだ。
「当たり前でしょう! お金なんて、生きていける分、二人で稼げばいいんだから! 大好きよ、進君!」
美月も頬を赤くしながら言った。
「進氏が無事でいてくれるのが、一番嬉しい。進氏がいる限り長生きしようって思える。静が許してくれるなら、私もベタベタする」
進は震える足で立ち上がった。
「元気出た! 二人のおかげで、心が癒されたぞ!!」
悪魔は呆然と進を見つめた。
「馬鹿な! 魂の傷を肩代わりした人間が、言葉だけで持ち直すなど……!」
「肉体で守られた人間には効果が小さい……自分で言ってただろ。それに、俺みたいに何も持っていなかった人間は、可愛い女の子から少し褒められただけでとんでもなく幸せな気持ちになって、心の傷も一気に癒されるもんだ」
笑う進に、悪魔は肩を落とした。
「……調子に乗ってしゃべり過ぎたようですね。わかりました。今日は私の負けです」
影が揺れ、悪魔は消えた。
静まり返った病室で、進は祈の胸元に手をかざした。
「福の神様、あんたがこうやって無事でいるってことは、多喜さんを治癒しても大丈夫なんだな? 悪魔の言っていたように、心が壊れてるってことはないんだな?」
「うむ、大丈夫じゃ。進よ、貴様にはいくら感謝してもしきれん。これまですまなかった。人間として目覚めれば、神だった時の記憶は失われてしまうじゃろう。じゃが、このままではわしの気持ちが収まらん。どうにか貴様にお礼を……」
「謝罪もお礼も一切不要だ。言ったろ、悪魔と戦い抜いた、あんたの知恵と勇気に、心から敬意を表するって。これまでありがとうな!」
完全治癒の光が祈の体を包むと、福の神の姿も光に包まれ、祈の体に吸い込まれるように消える。
モニターの音が変わり、祈のまぶたがゆっくりと開いた。
焦点の合わない瞳が天井を彷徨い、やがて進の姿を捉えた。
「ずっと……待ってました。信じてました。あなたなら、たどり着いて、助けてくれるって」
進は優しく微笑んだ。
「多喜祈さん、よく頑張った。これは夢だから、ゆっくり休んで、嫌なことは全部忘れてくれ」
「夢か現実かわからないけど……忘れたくありません。誰からも必要とされなくて、死んでほしいって言われていて……あなたのことも利用したのに、助けていただいて……」
「君は俺のことを利用なんてしていないさ。悪魔の誘惑に負けずに、悪魔の力を利用できるよう、俺たちは共闘してたんだ。それにしても、こうやって話すと普通の話し方だな。どうして福の神の時はあんな口調だったんだ?」
「そ、それは……あの口調の方がそれっぽくて、カッコいいと思ったからですが……。思い返すと恥ずかしくて、悶絶してしまいます」
祈は弱々しく首を振り、顔を真っ赤にして布団に潜り込んだ。
「黒歴史ってやつだな。誰にでも一つや二つ、そういうことはあるもんだ。やっぱり全部忘れた方がいい」
笑う進の裾を、祈の細い指がつまんだ。
「恥ずかしくても、忘れたくないです。目を覚ました時に忘れていたら、会いに来てください。必ず思い出しますから。できる限りのお礼をしますから」
進は祈の手をそっと握った。
「わかった。今は、眠っていい」
祈は安心したように目を閉じ、静かな寝息を立て始めた。
祈が目を覚ましてから数日後。
遠瀬病院のリハビリ室には、冬の柔らかな陽が差し込んでいた。
白いパーカーを羽織った祈は、理学療法士に支えられながらゆっくりと歩いていた。
頬には健康的な赤みが戻り、瞳は生き生きとしている。
「多喜さん、今日はここまでにしましょう。ずいぶん歩けるようになりましたね」
「はい……ありがとうございます」
祈は小さく頭を下げ、窓の外を見た。
その視線の先――病院の敷地の外、歩道の影に、進と静と美月の三人の姿があった。
祈は気づかない。
ただ、冬空を見上げて微笑んだ。
歩道の影に立つ進は、手すりに寄りかかりながら祈の姿を見つめていた。
静と美月が両脇に立ち、そっと寄り添いながら、問いかける。
「……進氏、会いに行かなくていいの?」
多喜祈は、意識不明だった間の、福の神として過ごした時間を覚えていなかった。
一人の高校生として、社会復帰のためのリハビリと勉強に励む毎日だった。
そして進は、あの悪魔の言っていたように、これまで与えられた力を全て失ってしまっていた。
「進君のことを思い出せば、お嫁さんになってくれるかもしれないし、お金を稼ぐ能力なんて無くても一生困らないだけのお金が、お礼にもらえるかもしれないわよ?」
進は首を横に振った。
「いや、会わずに帰ろう」
「驚いたわね。病院に行こうなんて言い出すから、絶対に多喜さんと会ってお礼を貰うつもりでいるんだと思っていたわ」
「信用が無いな、俺……」
「実際のところ進氏、お礼目当てじゃないなら、どうして来たの? 祈ちゃんが可愛いから見に来たの?」
「それもあるけど、二人だって多喜さんが元気でいるか気になるだろ? あの子は、福の神として悪魔と戦ってきた、戦友なんだから」
静と美月は頷く。
「そうね。戦友だものね」
「ちなみに軍隊では、死線を共にくぐった戦友をファミリーと呼ぶ」
便利な力を失ったはずなのに、不思議と進の心は軽かった。




