27 健康診断2
賀茂達が受ける健康診断の目的は、常世に行った事による肉体的変異の検査だ。
「あれっ?早かったじゃないですか先輩」
「私もさっき終わったところです。君とは違って私のデータは、こちらに有りますからね」
林原を解放して、レストラン階のエレベーターホールでライナスを待っていた賀茂は、嘘の言い訳をした。
ライナスと違って賀茂の検査は簡易的なものにとどめられていたのだ。
「林原女史は、もう終わってるんでしょ?」
「我々と行き違いで、彼女は食事を終えて映画を見に行くと言っていましたよ。運良く入院の件の謝罪もできました」
「彼女にとっては、まさに『寝耳に水』だったでしょうね」
賀茂とライナスが苦笑いを向け合う。
「そんな訳で、一人で食べるのも何なので、ライナス君を待っていたのです」
「そうですか?ありがとうございます。能力を抑えてると、一人では心細いですからねぇ」
今の彼等は、大袈裟に例えるなら健常者が目隠しをした状態に近い。
全ての情報が遮断された訳ではないが、いつもより情報量が激減する。
視覚障害者からすれば【普通】の状態ではあるが、それ以上の情報量に慣れ親しんだ者には不安で仕方がない。
そんな時に、誰か知っている人と手を繋げれば、少しでも安心になれるというものだ。
「ここのレストランは種類別に色々ある様ですよ。高級フレンチから本格的中華、ファミレスからファストフードまで。ただ、有名チェーン店は入れないので、あくまで【再現】レベルらしいですけどね」
「軍人なんで、早く気兼ね無く食べられるのが慣れてて好きなので、ファストフードが良いですね。日本では何故か【ファーストフード】って呼ばれてますよね?理由は有るんですか?」
「特に無いですよ。多分ですけど、【ファスト】より先に入ってきた【ファースト】って言葉と混同して広まったんじゃ無いですかね?」
日本で使われている外来語には、本来の意味と違って使われている物が幾つかある。
日本では、複数の薄い木板を張り合わせた合板を【ベニヤ】と呼ぶが、【ベニヤ】とは本来、張り合わせていない薄い単板を指すので真逆な意味となっている。
「精密検査で異常が無ければ良いんですがねぇ」
「顕著な異常が有ったら【再調整】か、最悪は【処分】ですからね」
「ここまで出世したのに、処分は嫌ですよね」
「上の方では『いいサンプルが手に入った』と喜んでるらしいですよ」
元より彼等は、現世でも常世でも活動できる様に改造されてはいるが、常世での勢力問題もあり、頻繁に転移をする訳にはいかないので、その影響は未確認だったのだ。
「でも最悪なら、既存の使徒を全て処分でしょ?怨みをかいそうですね」
「それは、私達個人の失態ではないし、いずれは誰かが試す必要性があったのですから御門違いなんですけどね」
たまたま不慮の事故で転移をしたのだから、責任云々を言われても仕方がない。
「グループとしては、かなり重要案件なので明日の昼までには結果を出してくれるらしいですけど」
「それは有りがたいですね。どうも病院は嫌いでしてね」
「おや?『注射恐い』が抜けてない大人ですか?」
「からかわないで下さいよ。使徒になる前に、いろいろ実験体にされた思い出があるんですよ」
賀茂は体験が無いが、使徒を作る為に多くの人間が実験に使われている。
ライナスの場合は、実験体から成功した希少な例なのだろう。
賀茂と同様に、ライナスも見た目や戸籍通りの年齢ではないと言う事だ。
「話は変わりますが、林原女史のワクチン接種は大丈夫なんですかね?」
「彼女は、できるだけ此方に引き込みたいので、レベル落ちしない様に処置させます。勿論、夕方に注射するのはダミーで本物は就寝中に行います」
ワクチンの接種は、場合によって接種者の肉体をDレベルやEレベルに【変異】させる。
ワクチンの本来の目的は、接種者の肉体を変異させる事ではなく、その生殖細胞に遺伝子操作を行う事なのだ。
本人ではなく、次世代を【進化】させる為に、この方法が使われている。
その為、隠しカメラのある【特別室】に入院。就寝後に麻酔ガスを部屋に流して眠らせ、卵巣に直接ワクチンを注入する。
「これは政治的協力者の御子息などに処置する方法です」
「気付かれませんかね?」
「傷跡も残りませんし、衣服の乱れなども戻しますので、麻酔の影響で目覚めが悪いくらいですよ。気分が悪くなっても『軽い副反応』と説明します」
まだ事情を知らせる訳にはいかない政治家などの子供に、生殖器への処置などを了承させるのは難しい為、この方法をとるが、それを林原に適用させている。
特に女性は、体内の奥にある卵巣に注射する為に、麻酔をかけて造影剤を静脈注射しながらのCT越しの処置となる。
「林原さんが警視庁で予防接種をすると言いはじめたら、現場で入院するくらいの怪我をしてもらうくらいのつもりでした」
「同行してもらえて助かりましたね」
なるだけ負担をかけないで済むなら、自他共にソレに越した事はない。
「分かってると思いますが、この件は林原さんには内密に頼みますよライナス君。あとの説明も厄介になりますから」
世の中には知らない方が良い事もたくさんあるのだった。
「承知してますよ先輩。もし、普通の汎用ワクチンを射って林原女史が変異したら、流石に処置する時に心が痛みますから」
今回の処置なら絶対に【変異】しないとは限らないが、確率は段違いになる。
彼等にとって人間は、猿の様な存在でしかない。
だから、同族意識や恋愛感情はわかないが、一緒に行動していれば、ある程度の【情】がわいてくるものだ。
「漫画やアニメみたいに直ぐに【進化】できれば、こんな苦労は無いんでしょうけどねぇ」
「一部のアニメなんかは、蝶など昆虫の遺伝子に組み込まれている身体変化【変態】を【進化】とか言ってるだけですよ。子供達が『僕も変態するんだ』とか叫んだら、社会問題になりかねませんからね」
「確かに、そうですね」
日本語には、同音異義語の様に同じ発音でも違う意味の言葉が幾つかある。
逆に同じ文字を使っても違う発音と意味の言葉もある。
『大人気がない(おとなげがない)/大人らしい行動ができていない』
『大人気がない(おとなっけがない)/大人が居ないで子供ばかりだ』
更には『変態』の様に同じ発音と文字を使っても違う意味の言葉も存在するのだ。
「実際、進化には長い時間と世代交代、犠牲と死が必要です。人工的にも、そう簡単にできるものではないことは、我々も身に染みて知ってますからね」
「人工進化の成功までも、千人以上の失敗例があっただけでなく、我々自身も死ぬ思いをしましたからね」
特に受精卵以外の完成した個体が単体で進化するのは、完全に『死んだ』のと同じだ。
【変態】の様に変化するには、変化先の遺伝子情報を一個体の全ての細胞が持っていない限り、同時に身体変化する事は有り得ない。
【進化】と言う遺伝子情報の変化は、癌細胞の様に最初は一つの細胞に発現する。
放射線などで遺伝子異常が起きやすい状態でも、複数の細胞に同じ遺伝子変化が起きる訳がない。違う遺伝子異常が起きた別種の細胞となる。
普通、既存の生物細胞には【免疫機能】がある為に、遺伝子変化【進化】した細胞とは共存できずに許否反応を起こし、御互いに殺し合う。
臓器移植などは免疫抑制剤などを使って、細胞が異物を受け入れる状態を作るが、それは管理された状態でなければ、外部からの感染症を引き起こして個体の死を招くのだ。
現実の自然単体進化が成功した場合、遺伝子変化した細胞は既存の細胞を駆逐し、食い潰しながら己の遺伝子に従った肉体を構成していく。
この移行途中のが、賀茂達が処置している【Eレベル】と呼ばれている者だ。
例え、既存の肉体の知識や記憶を引き継いでいても、あくまでコピーでしかなく、オリジナルが死んだのには変わりない。
ファンタジー的に言うなれば成体の単体進化は、『呪われた物に存在を乗っ取られた』という形になる。
当然、自然界の進化と同様で進化先は千差万別となり、同じ種なら進化しても、同じ物は存在しない。
進化した生物は、既存種や近似種との交配ができなければ一代限りで滅ぶし、交配で産まれた子孫は、既存種でも単体進化したものでもない種族となる。
この様に、単一の生物や種の中でも多くの犠牲を生む【進化】だが、それは単一種だけにとどまるとは限らない事もある。
地球考古学上、酸素を生み出す様に進化した植物の先祖は、過去に当時の自分以外の地球生物の九割を死滅させたとされているのだから。




