18 常識と事実
林原は不快だった。
「(それは、そうかも知れないけど)」
【常識】と言えば社会的共通項の様に感じるが、実際の人間の【常識】とは、人の数だけあると言える。
【常識】と言う概念をもちたがるのは人間という存在が、他人が自分と違う存在だと分かっていながら、社会という集団を形成する必要性から【共通項】があると信じたいからだ。
だが、人間同士が接触し過ぎると次第に違いが明確になる。
そして、【自分の常識】という理念や目標、知識や習慣が間違いや悪しきものと指摘されると、その評価が論理的や法的、社会常識的に見て的確と説明されても不快になるのである。
それは、それらが形作っている自分自身の否定に繋がると判断するからだ。
「納得いきませんか?確かに、過去に植え付けられた【常識】ってのは、他人から与えられた物なのに、容易く捨てられませんよね」
【体験】とは異なり、多くの【常識】は、他人から聞かされたり、自分で思い込んだものばかりだ。
例えば幼年期に幽霊やUFOの存在を否定して刷り込まされた人間は、それを目の当たりにしても『いや、何かの見間違いだ』として、容易には受け入れない。
何の刷り込みも無い者は『これが○○なのか』と素直に受け入れるのに。
「林原さん、気にしても仕方がないですよ。我々の力を見て、貴女の常識はとっくに崩壊してるでしょ?職務的にも我々のやることも否定できないんですから受け入れるしかないんですよ」
賀茂の助言は『諦めて受け入れろ』というものだった。
もとより、力関係は明白だ。放射能で死ぬ前に、事故や病気で殺されかねない。
そこまでいかなくとも、左遷で島流しだ。
「確かに、そうですね。よし!はい、わかりました。切り替えます」
抗って、どうにかなるものではない。
それに、実際にも【常識】と言われていた事が、公的に覆る事は多々あるし、ネット情報も眉唾ものである。
日本では【聖徳太子】と呼ばれて昭和初期から紙幣のデザインにもなった人物が、実は当時にはソノ様な呼び方をされていなかったとして、近年の教科書も変更になってきている。
(【聖徳太子】は没後の俗称らしい)
また、上野で銅像にもなっている西郷隆盛は本名も違うし(めんどくさいので後に改名した)、肖像画の姿形も親戚を合成したものだ。
「そう言えば、昇格するそうですね?林原さん。スーツを新調したのは、その為ですか?」
黙り込んだ林原に、賀茂は話題を変えて話しかけた。
林原も無視するわけにはいかない。
「・・・昇格は・・何かの間違いだと思うんですが、一応は連絡が来ました。まぁ、『じきに昇格させるから』と言われてはいましたが。で、このスーツは昇進とは関係ないですよ。おかげでお金も手に入りましたし、こちらの方が街中で目立たないと思いましたので」
刑事のスーツとしてはダークグレースーツが定番だが、オフィス街ではライトグレーやベージュ系が多い。
賀茂達がジーンズなどカジュアルな格好で行動しているのに、グレースーツで同行するのはどうかと考えたのだ。
さりとて、一般女性に多いとは言え、流石に捜査一課でスカートは有り得なかった。
「昇進すれば給料も上がるんでしょ?」
「まぁ、微々たるものですけどね」
その日本警察の階級は、以下の通りだ。
・巡査:交番などに勤務する末端の警官
・巡査長:巡査として働きながら、他の巡査を指導する
・巡査部長:巡査や巡査長を指導する
・警部補:【係長】にあたり、現場責任の中間管理職
・警部:【課長代理】にあたる管理職
・警視:所轄署長や【課長】にあたる管理職
・警視正:大規模警察署長や【部長】にあたる上級管理職
・警視長:警察本部の本部長や警察学校長
・警視監:警察庁の次長や本部長など幹部職
・警視総監:警察庁最上位階級で政治にも関わる
捜査一課で九班に移った時点で林原は、巡査から巡査長に昇格していた。
一般的に巡査長も【巡査】と呼ばれている。
そして、今回の辞令は巡査部長を飛び越えて、警部補に昇格するらしい。
「第九班の責任者ですから、警部補くらいの役職は必要なんでしょうね」
「班を動かす管理職と言ったって、人員は私ひとりなんですけどね?」
「そっちも、そうとうに【非常識】じゃないか?林原女史」
話を聞いていたライナスも呆れている。
実際には、賀茂達に付いていた警部が、もう一人居るのだが、その者は本隊と一緒に出張に出ているのだ。
「いったい、【常識】って何なんでしょうね?」
「それは【理想】や【神】の別称では?」
賀茂の返答は、言い得て妙だった。
実在しないが誰もが抱いていて、絶対だと思いたいもの。
「で、非常識ついでに手配した物が届きましたよ」
「手配した物って、もうですか?確かにコレも日本の警察では非常識ですよね」
賀茂が林原警部補に差し出したのは拳銃【44オートマグナム】と肩掛けホルダーだった。
「弾と予備のマガジンもありますよ」
「日本の38口径5連発じゃあ、あんな怪物じゃなくても力不足ですからね」
「確かに無いよりはマシですが、十分に練習して下さいね。44は、慣れないで肩を脱臼した人も居るそうですから」
林原は、以前に同行した時のEレベル変異体を思い出して賀茂に相談していたのだ。
携帯できて弾数が多く、破壊力もあるものとして手配されたのがコレだ。
勿論、コレでも眉唾ものだが、可能な限り手を尽くしたいと思うのは仕方がない。
「用心の為に、脱臼予防の魔法を掛けておきましょう。あくまで【確率】ですから無理はしないように」
「助かります」
賀茂が林原の肩に手を添える。
実際に魔法が無くとも、フラシーボ効果が働くかも知れないが、彼等の実力は理解していた。
「我々は明日、警視庁に行く用件が有りますから、本庁で射撃してみては?」
「そうですね。辞令次いでに撃ちますか。あそこなら問題ないですから」
業務優先で、辞令の受けとりは林原側の都合で良いといわれているが、彼女は射撃で今日のモヤモヤを一気に吹き飛ばしてしまおうと思った。




