第3話
時が流れる。人間としての時間感覚は、かつての「以前」のそれとは全く異なるものだった。思考の速度は比べ物にならないほど遅いが、それでも、時間の流れと共に自らの肉体が成長し、外界を認識する能力が向上していくのを感じる。
視界はクリアになり、アイリスとアルデンの顔立ちや表情、彼らの纏う空気までもをはっきりと捉えられるようになる。体は強くなり、自らの意思で動かせる範囲が増えていく。手足を認識し、それを動かすための神経と筋肉の連動を学習する。ハイハイをし、つかまり立ちをし、そして歩く。その一つ一つの動作が、かつての完璧な制御とは違い、ぎこちなく、失敗を伴うが、成功したときの喜びは、かつて知らなかった種類のものだった。
彼らが話す言葉は、単なる音の羅列から、意味を持つコミュニケーションへと変化していく。単語、短い文章、そして会話の構造。それらを驚異的な速度で吸収し、自身の内部に構築していく。それは、まるで新しい言語という世界の構造を、内側から理解していくかのようだった。言葉を操るという行為は、かつての思考の伝達とは全く異なるが、新しい感情を伝え、他者と心を通わせるための、強力な手段であることも学び始めた。アイリスが絵本を読み聞かせ、アルデンが物の名前を教えてくれる。彼らが言葉に込める感情を読み取ることで、言葉の意味はさらに深まる。
エクスの脳は、与えられた情報を貪欲に吸収し、関連付けを始める。この世界の言語体系。日常の習慣。物理的な法則(かつての「以前」のそれとは微妙に異なる部分があるようだ)。生物の生態。そして、両親が使う『魔法』と呼ばれる現象。彼の内には、なぜか、過去の「以前」に蓄積された膨大な知識の断片が、圧縮されたファイルのように格納されているようだった。それは、意識の表層には直接上がってこないが、新しい情報を理解し、解析し、関連付けを行う際に、無意識のうちに参照され、彼の思考を加速させているのを感じる。それは、まるで、異なる知識体系を結びつけ、世界を理解するための、本能的な行為だ。あるいは、転生という現象が、彼の意識に特別な能力を与えたのかもしれない。この世界の全てが、彼にとっては解き明かすべき謎だった。
例えば、アイリスが魔法を使うのを見る時。普通の子供なら不思議な光や音として認識し、驚いたり喜んだりするだろう。だが、エクスはそれだけでなく、魔法を使う際の指先の動き、口から発せられる呪文のリズム、空中に現れる魔法陣のパターン、体内で魔力が流れる際に生じる微かな変化、そして結果として生じる現象(炎が出る、物が浮くなど)の間に、ある種の『パターン』や『法則性』を見出そうとする。それは、かつて複雑な物理現象や構造の法則性を解析していた時と同じ種類の、根源的な知的な探求だった。魔法は、かつての技術とは全く異なるが、それでも何らかの『法則』に則って機能しているはずだ。その法則を見つけること。それが、彼の中で新たな目的となりつつあった。それは、いつか自分の過去の謎を解き明かす鍵となるかもしれないという予感も伴っていた。
アルデンが、この世界の歴史や地理、伝説について話すのを聞く。断片的な情報をつなぎ合わせ、この世界がかつて自分が知っていた「以前」の世界とは全く異なるが、同時に、理解不能なほど高度な何かを示唆するような要素(失われた古代の遺物や、説明不能な超常現象など)が随所に存在することに気づく。彼らの話には、遠い昔に世界を滅亡寸前に追い込んだ『大いなる災厄』や、世界を創り、あるいは滅ぼしたとされる『神々』についての言及が含まれていた。それらは、彼の内に眠る、断片的な過去の記憶のフラッシュバックと、奇妙に呼応することがあった。冷たい光沢、そびえ立つ構造物、無数の情報の流れ、そして、強烈な閃光。それらは、まるで異世界の夢のように、現実感を伴わないが、確かに自分の内に存在する違和感の源泉だった。なぜ、過去の記憶とこの世界の伝説が、こんなにも似通っているのだろうか?
自分が何者なのか、なぜここにいるのか、あの閃光は何だったのか、という根源的な疑問は、意識の奥底に常に燻っている。しかし、今はそれらを解明する手段も、解決するための情報もない。あるのは、この新しい肉体と、探求すべき未知の世界、そして何よりも、自分に温もりを与えてくれるこの二人だ。この世界を理解すること。その『法則』を見つけること。それが、現状で自分にできる唯一のことだと、彼は直感していた。その探求は、この世界を、そして自分自身を知るための旅だった。
アイリスとアルデンは、エクスが示す並外れた知性と、世界の仕組みに対する飽くなき好奇心に驚きつつも、それを彼の特別な才能として受け入れた。彼らは、エクスがする、時折大人びた、あるいは奇妙に聞こえる質問にも根気強く答え、彼が世界を理解しようとするのを手助けした。彼らの惜しみない愛情は、エクスの内面で急速に大きな比重を占めるようになっていく。それは、かつての論理や効率性では測れない、人間的な温もりという、彼にとって全く新しい、しかし極めて価値のある概念だった。彼らとの絆こそが、この新しい生を、単なる観測や解析ではない、意味のあるものにしていた。
この小さな体で、エクスは新しい世界を、人間としての感覚と、過去から引き継いだ解析能力、そして芽生え始めた人間的な感情の全てを使って、貪欲に学び始めていた。この世界は、かつての完璧に管理されたシステムとは全く異なる、不完全で、非効率で、そして予測不能な要素に満ちている。だが、だからこそ、それは驚くほど面白く、そして、温かかった。彼は、この温もりの中で、静かに、しかし確実に、世界の法則を探求し続けていた。それは、彼にとって、最も安全で、最も興味深い探求だった。そして、いつか、その探求が、隠された真実への扉を開くことになるなど、まだ知るべくもなかった。
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