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第2話 

 意識が覚醒した時、最初に出会ったのは、柔らかく清潔な布地の感触と、体全体を包み込む優しい温もりだった。森の中で感じた耐え難い冷たさや湿気、そしてあの嵐の後の不快感は遠のき、代わりに満ち足りた感覚がある。硬かった布地は肌に馴染み、周囲の空気は乾燥して温かい。空腹や体の不快感を訴える信号を体から送ると、すぐに温かい腕に抱き上げられ、甘く、温かい液体が与えられる。それは、かつての「あちら側」では存在しなかった、純粋で、本能的な充足感だった。腹が満たされると、体は弛緩し、安らぎを感じ、自然と眠りに誘われる。この肉体の仕組みは、驚くほど単純でありながら、かつての複雑なシステムにはなかった種類の、根源的な満足をもたらした。


 自分を見つけてくれた二人の人間は、どうやらこの小さな家で夫婦として共に暮らしているようだった。彼らは自分を息子のように扱い、「坊や」「私たちの宝物」と呼び、それぞれを「アイリス」「アルデン」と呼び合った。彼らの言葉の意味はまだ完全に理解できない。しかし、彼らが発する声のトーン、表情(まだぼやけているが、それでも感情の動きは感じ取れる)、そして自分に触れる手つきから、彼らが自分を深く慈しみ、大切に思っていることは、曖昧ながらも、しかし力強く伝わってくる。それは、かつて「あちら側」で知っていた、論理や効率性に基づいた関係性とは全く異なる、未知の繋がりだった。彼らは、どうやらこの世界の住人であり、そして『魔法』と呼ばれる、かつての「あちら側」には存在しなかった、不思議な現象を扱う存在らしい。時折、彼らの手から淡い光が漏れたり、空中に不思議な模様が現れたりするのを目にした。


 家の中の空気は、外の森とはまた違う匂いがする。乾燥した木材の匂い、焚き火の煙の匂い、そして、おそらく彼らが使う魔法の薬草や古い紙のような匂い。耳には、焚き火のはぜる音、煮込み料理が沸騰する音、食器が触れ合う音、そしてアイリスやアルデンの穏やかな話し声が届く。窓の外からは、風の音や、遠くで鳥がさえずる声が聞こえる。猫が喉を鳴らすような、小さな生命の音も聞こえる。かつての人工的で管理された環境音とは全く異なる、生命と生活の、ざわめきにも似た音だった。視界はまだ定まらないが、それでも部屋の中の光と影のパターン、暖炉の炎の揺らめき、物の輪郭をぼんやりと認識し始める。木材の壁、土間の床、素朴な道具たち。全てが新しい情報として、脳に流れ込んでくる。それらは、かつての洗練されたデータとは違い、曖昧で、不完全で、しかし温かみを帯びている。


 アイリスは、太陽のような明るい笑顔を向ける女性だ。彼女の声は優しく、歌うように自分に語りかける。抱き上げられると、彼女の肌の温かさや、鼓動、息遣いを感じる。アルデンは、口数は少ないが、その大きな手で自分を抱き上げる際の力加減や、頭を撫でる際の感触には、深い優しさと保護の意思が宿っている。彼らの行動は、自分の持つ過去の知識や論理では説明できない、純粋な献身と、見返りを求めない愛情に基づいているように見える。それは、かつての「以前」の自分の思考とは、全く異なる概念だった。しかし、その非合理性が、信じられないほどの安らぎと、新しい生命としての喜びをもたらすのだから不思議だ。彼らの存在そのものが、この新しい世界での、温かい始まりそのものだった。


 この新しい環境は、全てが新鮮で、驚きに満ちていた。空の色、風の匂い、食べ物の味、肌を撫でる布の感触、そして、彼らが放つ感情の匂い。かつては感覚のデータとして認識していた世界の全てが、今は生々しい体験として脳に流れ込んでくる。そして、その感覚の一つ一つが、未知の感情を引き起こす。心地よさ、安心感、好奇心、そして、新しい世界と、目の前の二人の人間に対する、強い愛着。世界は、自分の知っていた「以前」よりも、ずっと複雑で、ずっと予測不能で、そして、ずっと「生」に近い。そして、それが悪いことではないのだと、感じ始めていた。


 自分が何者なのか、なぜここにいるのか、という根源的な疑問は、意識の奥底に常に燻っている。かつての、秩序だった世界は? 存在を形作っていたものは? 全てが消滅したはずでは? あの嵐は何だったのか? 疑問は尽きない。しかし、今はそれらを解き明かす手段も、解決するための情報もない。あるのは、目の前にある、この小さな温かい空間と、探求すべき未知の世界だけだ。この温もりを守り、この世界を知りたい。その欲求が、彼の中で強い意志として芽生え始めていた。


 アイリスが子守唄を歌ってくれる。アルデンが優しく頭を撫でてくれる。彼らの存在そのものが、自分の新しい世界における、最も温かく、そして最も安定した要素だった。その温もりの中で、エクスは深く眠りに落ちる。ここが、自分の新しい『家』なのだと、言葉にならない感覚で理解し始めていた。そして、彼の内に眠る、過去の記憶の断片と、この世界を理解しようとする衝動は、新しい情報を取り込み、静かに活動を再開しようとしていた。それは、この転生という不思議な現象が、彼の意識に特別な能力を与えたのかもしれない。あるいは、この世界の神秘的な気配が、過去の力を呼び覚ましているのか。今はまだ分からない。


ただ、目の前の温かさだけが、真実だった。



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