行灯儚梨話(あんどんほろりばなし)
船長に、次の船まで時間があるからと逗留場所として
ここへ連れて来られた。
横浜・儚梨楼。
中に入れば、酸いような甘いような香りがしていた。
「ほれ見てみろ、よりどりみどりだ」
船長が指差す先には、数多の蝶のように
ふわりふわりとした女性たちが行き来していた。
娼館だ。
なんとなく、怖気がした。
船長の嬉々とした顔が信じられない。
「おや、じょんそんの旦那」
階上から、ちりんとした声が聞こえた。
「おお、お嬢!」
煙管くゆらせつつ、しゃなりしゃなりと音も静やかに降りてきた
女性がいた。
楼主らしい。
「まあ、若いお客さんまで連れて、気前がいいねぇ」
「いや、こいつ連れて帰るまで、ここへ逗留させて欲しいんだがネェ」
「ええ、構いやしませんよ。常連さんですし、御代さえいただければ」
「もちろん」
ぽんと一包みキレイな手内に船長が渡すと、
お嬢と呼ばれた女は微笑んだ。
「ずいぶんとたんまりですこと」
「そりゃ、こいつの祝いも入ってるからネェ」
「おや、なんのお祝いで」
「こいつ、国に帰ったら結婚するんだよ」
「めでたいこと」
そう言って、お嬢は僕のアゴ先をくいっと指であげた。
「お若い方、お名前は」
「ハンスといいます」
「よい響きの名前ですこと。あたしは、小夜って言います。よしなに」
静かに品よく頭を下げる楼主に、僕はあわてて頭を下げた。
正直落ち着かない。
なにせ、この手の場所に足を、本国でも、どこの港でも
踏み入れたことがなかったから。
確かに、本国に帰れば婚約者がいて、結婚するだけなのだが・・・
女性と、その手のことはなかった。
キスをした程度。
ともかく、絹の商いに夢中で、気付いたら“遊ぶこと”を
していなかった。
それは、それでいいのだろうけど、周りの連中に
「お堅いなぁ」
「ちっとは、”息抜き“しろよ」
とよく言われるようになった。
少しは呑むようにはなったけど、それもハメをはずすことなんて
なかった。
カタン
襖を引く音がした。
「ハイ」
すると僕より明らかに幼い少女が、お茶器を持って入ってきた。
「あの・・・」
彼女は、夢芽。
見習い奉公をしている耳の遠い娘だった。
ただ、微笑んでお茶を手際よく仕度する。
「ありがとう」
いえいえと首をふり、お茶・・・紅茶をすすめてくれた。
ほどよい濃さの紅茶、ミルクも頂いて、好みに整えて、頂く。
「おいしい」
そう言うと夢芽は微笑んだ。
可愛いな。
久しく見ることのなかった笑顔だった。
男ばかりの甲板に乗ることを決めたくせに、
やけに未練がましいところが僕にある。
陸にあれば、楽なのに、あの人に見栄張って
東洋の端まで行く船で働くことを選んだ。
カテリーナ、情熱的な絹ギルドの幹部の一人娘。
僕の父も幹部だったが、2年前亡くなった。
僕が一人前になり、同じ仕事仲間の娘を妻に娶ることばかり、
気にしていた。
少しずつかもしれないが、一人前に近づいて、
絹の商い扱いもよくなってきたと思う。
ここへ来る船に乗るときに、カテリーナも
「りりしくなったこと」と微笑んで口付けてくれた。
今度帰るときは、胸を張って帰ろう。
そう思うと、ことさらお茶が美味しくなったような気がした。
「そう、若いお方は、ほんによいお方なのね」
楼主が煙管を咥えるとふぅっと宙に安堵の煙を吐く。
物言わず夢芽がうなづく。
「お嬢様」
ごとりと音立てて背むしの婆が一人入ってきた。
「おや、留」
「お嬢様に言われて、港まで行って来ましたが、よろしくない話で」
「というと」
「あのじょんそんとか言う船長なんでも、
若い旦那を置いて行こうと画策しているようで」
「そうかい」
「それも、なんでもあのお若い方の持ち物に目がくらんだようで」
「そりゃ、気の毒」
煙管をコンと楼主が置いたのを見て、婆がにぃっと笑った。
「お嬢、なんぞすることがありますかいね」
「ああ、常滑の大き目の壷を用意しといておくれ」
「へぇ」
婆は頭を下げて、いそいそと出て行った。
「夢芽」
幼く小さく座っている娘に楼主は声をかけた。
「おまえさん、万里の道は平気かい?」
そう言うと娘はうなづいて立った。
「キャスさんとこへ、よろしくお伝えしておくれ」
頭一つぺこりと下げて、夢芽はその場を去った。
「さて、あたしはどうしよう」
煙管に一つタバコ草詰めて、楼主は外空を見上げた。
それは、もう寝床に着こうとした頃合だった。
「はんすの旦那」
お小夜さんの声だ。
ほろりとこぼれる夜半の鈴。
その声をこの時間に聞くとは。
「一体どうかしたんですか」
「へえ、じょんそんの旦那が、病で山の手の病院に運ばれましてね」
「なんだって!それはすぐにでも」
「いえいえ、なんでもうつる病らしくて、当人も来ないで
欲しいと言っていましたよ」
「そうですか・・・」
僕は急になにか落ち着かない心地になった。
「はんすの旦那、ご心配ありませんよ。
お帰りの船のことは、じょんそんの旦那から聞いておりますから」
「そ、そうですか」
足元を行灯の灯りに照らされたようで、気落ちもすぐに直った。
「ところで旦那、ちょいと襖を開けてくださいませんか」
「え」
昼日中見ても、艶やかでありながら、どこか愛らしく
見とれてしまう相手と面と向かうのは、覚束ない心地。
それは困ると言うか言わずかの間に、するりと
お小夜さんは入ってきた。
「旦那、ちょいと話しておきたいことがございます」
少し気崩した襟元が妖しい。
そこへ目を落とさぬように苦心する。
知ってか知らずか、お小夜さんが微笑む。
「はんすの旦那、あたしは、そんな初心な旦那が
惜しくてたまりません」
すっと白く整った指で手を握られる。
「でも、僕には婚約者が」
「わかってます。でもそれをおいても、惜しいのです」
振りほどこうとした手が、やわらかく固く離さずにいる。
「ハンスの旦那、後生です。
どうか、あたしと添い遂げてくれませんか?」
必死の願い、でも・・・
と思ったとき、僕は首筋に焼きごてでも当てられたような
スパッと入り、じわじわと痛み始めた。
「う、うぅわああ」
「ハンス・・・あなたは初心でまったき魂の持ち主。
そんな人を汚く腐った人の手に渡したくありません。
あの船長、あなたの婚約者もグル。できてたんですよ。
あなたを異国の地で迷わせ、その隙にあなたのお父上が
大事にしてきたものをすべてね。
あたしは、そんなのを黙ってみていられませんでした」
僕は唇をかみ締めて、お小夜さんの言葉を聞いた。
「あなたは、あたしが見てきた人間の中でも、一等キレイだ。
どうか、どうか受けてくださいな。わたしを」
首に走る痛みはいつのまにやらほぐれてきて、
ただ目の前のお小夜さんをうつろに見る目がぼやけてきた。
お小夜さんの美しく整った唇が血にまみれていた。
それよりも、寂しげな目の方が、僕の目の底から心に
痛みになって伝った。
僕は魔に魅入られたのか、天使に魅入られたのか。
その夜から、この日の午睡までとんと何をしていたのか・・・
ただ甘くて柔らかくて、忘れていたぬくもりを掻き抱いていたらしい。
乱れた姿で寝そべっていた。
日がまぶしい。
でも、前よりも輝かしい。
「ハンス」
そう言って白い胸元に抱き寄せる腕から、甘い香りがこぼれる。
「好きにしていいんですよ」
そう言われて、はっきりとしないぼやけた心地で僕は胸元に
強烈な口付けをした。
それは、一筋の鮮血を走らせる。
「嗚呼」
お小夜さんの声が高く鈴音として響く。
僕は約束してしまった。
今までを忘れ、お小夜さん、あなたと一緒にいることを。
「こいつはずいぶんな腐れ物だねぇ」
横浜倉庫の裏の裏筋、日中でも行灯を灯している
珍品扱いの三池屋に壷を一つ持ち込んでみた。
「ええ、そりゃもう“強欲一点”の代物だからね」
白い大腿をさらけ出すかのように、裾を裁く女の向こうで、
三池屋の旦那はそろばんを弾いた。
「そうさなぁ、サンジェルマンの旦那なら買ってくれそうだね」
「いいと思うよ。これに、なんならパリのモンパルナスの丘の
女の焼け焦げをつけてもいいよ」
「そりゃ、結構なことだ。こんだけの材料揃えば、
サンジェルマンの旦那のめがねにかなう品物ができるだろうね」
「そうさね」
女は一声高く笑い、三池屋の旦那から少し重めの金子を頂いた。
「ところで、例の若い旦那は?」
「元気にしておりますよ。前より血色よくてね。
上手くして、あたしに合うお人だったよ」
「そいつはよかった。今度は番うといいねぇ」
「それは、大丈夫、もう少しでいい塩梅さ。やっと落ち着く心地だよ」
「ほほぅ」
三池屋は、女が腹をさするのを目を細め、にやりとした。
それから、この国は年月を重ねる中で、花を咲かせも、腐らせもした。
しかし、儚梨楼はどこともなくあり、どこともなく消えつつ、
その主と伴侶、
そして幼く愛らしい子らと共にあったそうな。
【終幕】
【萌えカスと書いてあとがき】
日ごろのご愛顧に答えてのお礼小説でございました。
そもそも書き連ねるつもりだったネタの番外編的に書いてみました。
おわかりかと思いますが、お小夜さんは人外の人、吸血鬼でございます。
吸血鬼、モンスターといわれる部類では、一等好きでございます。
なぜかといえば、大概美男美女、その上かなり色っぽい、まあエロい生き物だったりします。
なにしろ、血を頂くのに色気がなくちゃダメ。
相手が近づいてくれませんもんね。
しかも、結構繁殖力が強くて、頑張っちゃうと(笑)わんさか子供を
作っちゃう。(大半が眷属のコウモリになるんですが)
そういう、案外俗っぽいところが魅力だったりします。
本編も吸血鬼の夫婦?の話だったりします。
こっちの方が、結構大変夫婦だったりしますけどね(苦笑)
ひとまず、稚筆なものですが、ほくそ笑んで頂ければ、幸いです。
【おまけ】
「やだー、かわいい」
そう言ってきゃっきゃと小夜が産んだ赤ん坊を抱いて喜ぶキャスパードと
目を細める小夜に、一人は苦笑し、一人は呆れて見ている。
「本当に、女ってやつは」
「まあ、可愛いもんじゃないですか」
「と言っても、吸血鬼じゃなあ」
ふぅっとため息をつくキャスの夫・ペトラルカは、
手元にじゃれ付く娘をなだめつつ妻を見ていた。
「しかも、あれは半分男だし」
そう言ってまたため息。
「でも、人間より情が深いと思いますよ。うんと大事に思っていてくれる」
「それは、エサだからじゃないか?」
そう言われたハンスはきょとんとした。
「そうなんですか?」
今度は言ったペトラルカがきょとんとした。
「君のところは、わからんが、
ウチはそりゃもう“吸えるものは、吸えるったけ”吸うんだ!」
少々我慢が切れたように声音を強めた。
「そりゃ、大変ですね・・・ぼくのところは、無理はしないですよ」
「そうなのか。いいな」
娘がきょとんとするのもよそに、ペトラルカはむくれた。
「いいなぁ、お小夜さんとこの旦那さん、やさしそうで」
抱っこしていた赤ん坊を返しながらキャスパードは言った。
「あら、キャスだってイイ旦那さんをもらったじゃない」
「えー」
女はむすっとした。
「どうして?キレイで澄んだ魂しているじゃない」
「それだけだったらいいけどね・・・ドケチなの」
「そりゃ、育ちのせいでしょ。元が聖職者じゃ、質素が旨ですもの」
「それにしたって、ちょっとドレス新調しただけで、
めいいっぱいすることされて、動けなくされちゃうんだよ」
小夜は、ちょっと困った顔をした。
「可愛いじゃない、そういう怒り方」
「お小夜さんもされてごらんよ~ほんと、動けなくなるんだからっ」
「あら、あたしはその方がうれしいわ。そばにいてよーって思いっきり
抱いてもらえるんだから」
「そういうもの?」
「そういうものよ」
「そうなの~」ってキャスパードがいうと
「なんのことだ」とペトラルカが渋い顔をし、
「そうよね」って小夜がいうと、
「そうかもね」ってハンスが照れた。
吸血鬼と夫婦でいることって、ちょっと面白くて大変なようです。