【9話】 英雄の自戒律
アイシスは剣を抜き、構える。
尋常ではない覚悟が、ひしひしと全身から溢れ出ている。
黒騎士も警戒したように、透明な剣を身体の正面に構えた。
相対した目線は、交わっているのか……それとも。
(アイシス……どうか、死なないで……)
祈る彼女の手は血だらけ。ぽたぽたと額から落ちる血の向こうに、彼の勇姿を刻むだろう。
─────タッ。
アイシスが踏み出すと同時に戦火は切られた。ただ愚直に、前へと進む。
それが今の策だ。
それを構えたままじっと迎え撃つ黒騎士。無気力なその態度にも、ほんの少し緊張が見て取れる。
奴も得体の知れない何かを獣の感で感じているのかも知れない。
奴の心臓、それを狙って一直線に突き進む刃。もう引き下がれず、逃げもできない。
アイシスには端から逃げる気など無く、ただ奴の命を刈り取るために走る。
「─────ッ!」
慟哭にもにた叫びと共に、アイシスは前進する。
まるで自分を鼓舞するようなその叫びは、獣に届いたのだろうか。
大きく振りかぶった刃。
(届けッ!!!)
魔力のこもった一撃。
ネルの願いも、彼の願いも乗せた一撃が。ついに。
ブシュッッッ!!
赤。
赤、赤。
赤、赤、赤。
赤、赤、赤、赤。
鮮やかな血が、空を舞う。血飛沫が、空に虹を描く。
貫いた剣からぽたぽたと零れる雫。
涙にも似たその水滴が落ちて血溜まりを作る。
生臭い匂いが辺りに充満し、鼻腔をくすぐった。
最後。ダメ押しのように刃が押し込まれ。
そして─────
アイシスの胸に突き刺さった剣が……ゆっくりと引き抜かれた。
「アイシスッ!!!!」
ネルの悲鳴に似た叫び声が部屋に反響する。
彼の刃は届かず、代わりに奴の剣が下からその胸を抉ったのだ。
無慈悲な獣の剣はやはり強く。
アイシスの剣は遠く及ばない。
そんなことは最初から分かりきっていただろうに。
ふら、ふら。
風に吹かれる枯葉のように、アイシスの身体が揺れる。
胸に空いた大きな穴からはドクドクと血が流れ続けたまま。
(身体が、冷たい)
胸からの流血だけがやけに暖かく感じる。
苦しさが、死が、底冷えする恐怖が押し寄せる。
まるで氷に身体を包まれたようだ。熱が身体から抜けていく。
不思議と痛みはなく、ただ恐ろしい程に寒かった。
視界の端で嘆く少女の声が少しづつ遠のく。彼女の泣き喚く声が小さくなる。
代わりに死神が隣に現れ微笑みかけた。死んでくれるの? と。
恐ろしい顔を綻ばせ嬉しそうに笑っている。
その冷たい笑顔を、確かな死を目前にしたアイシスは。
同じように、クスリと笑った。
「発─────」
ぽつりと呟いた瞬間。
「ッ!?」
少女と獣が、一斉にその顔を上げた。
全身を叩きつけるような衝撃が、突如二人を襲ったのだ。
その視線の先には死にかけの少年。
血溜まりの中で今だ倒れることなく、ふらふらと揺れている少年が。
今、有り得ない程強大な戦気を放っている。
「……アイ、シス?」
涙に濡れた顔を上げ、少女は問いかける。
黒く濁ったオーラを纏った、少年『だったもの』に。
あれはどうみてもアイシスではない。
少なくとも、ネルの知っている彼の戦気とはかけ離れていた。
彼の戦気はもっと小さく、慎ましやかなものだったはずだ。
こんなにも大きく、おどろおどろしいものではない。
それが何故、あの小さな身体のどこから出てきたのか。
その答えは─────
「自戒律……」
ネルはまさかと思いながらも、その技の名前を呟く。
自戒律は一朝一夕で出来るような技ではない。
自分で作ったルールと、戦気の増幅。
それが繋がるようになるまで、何度も何度も。
何度も何度も何度も練習を繰り返し、ようやく習得できる技術だ。
ネル自身も習得したのはつい最近だが、練習を始めたのは五年も前になる。
ネルが習得に五年かかった技術を、アイシスは思い付きで成功させてしまったのだ。
『瀕死状態の時、戦気を増幅させる』
そんな常軌を逸したルールは、かつて英雄ジークレインが使っていたものと同じだった。
彼は窮地に陥った時こそ真の力を発揮したと言われているが。
それは自戒律によるものだと言われている。
アイシスは本で読んだ知識を糧に、この技を成功させてしまった。
彼の命は風前の灯火。だというのに倒れることは無い。
アイシスは今、ネルを守るという執念のみで立っている。
黒騎士はその膨大な戦気を恐れてか、アイシスから急いで離れようと下がる。
脱兎のごとく去っていくその背中を、彼は鋭く睨みつけた。
(……逃がすかよ)
血に染まる視界の中でもアイシスが奴から目線を外すことは無い。
ボロボロの身体に鞭を打って、頭上へとその剣を掲げた。
そして。
「夜斬り」
静かな宣告と共に、ふわりと振り下ろされる刃。
音もなく放たれた絶命の一撃は、たしかに奴の身体を捉えて。
剣の軌跡、刃が触れた空に、振り返った奴の身体に。
白い裂け目が現れた。
「─────ッ!!」
裂け目は大きく広がり、奴の身体を、壁を、地面を……触れたもの全てを呑み込んでいく。
まるで時空を割いているかのような戦気の光が全てを壊す。
やがて、辺りを食い散らかした戦気の光は、その役目を終えたかのように消え去った。
「凄い……」
その凄まじくも静かな刃に、ネルの口から感嘆の声が漏れた。
夜すらも斬る。
それが『夜斬り』だ。
これは父が使っていた技だったが、その威力は申し分無い。
黒騎士の身体は真っ二つに分断され、身動きひとつしなくなっていた。
アイシスは勝った。
ネルを守り、見事彼の目的を達成したのだ。
だがそれを見て、安堵した瞬間。
ぷつりと、アイシスの命の糸が切れた。
ぐしゃ。
汚い音を立てて、自身の血溜まりへと倒れ込むアイシス。
先程までの戦気は消え去り、ただの少年へと戻っていた。
……そんな彼の身体も、もう動かない。
ずり、ずり、ずり。
虫の息の彼の元へと、血だらけの少女が這って近づく。
唇がちぎれるほど噛み、全身を襲う痛みに耐えながら。
ゆっくりと近づいていく。
やっとのこと辿り着いたネルの顔を、うっすらと細い目を開けたアイシスが見つめる。
「アイシス……よく、頑張ったわね……」
血の気の引いた頬を、ネルは優しく撫でた。
アイシスもそれに薄く笑って返す。
声を出す気力はもう無い。
そして、二人はほぼ同時に目を瞑る。
……もう眠ってもいいだろう。熾烈な戦いは、彼の勝利で幕を閉じたのだから。
*
暗い廊下を一人、騎士が歩いている。
背丈は小さく、真っ白な鎧に身を包んだそいつは、ただ悠々と歩いていた。
カルドリザードや、ダンジョンラットはそいつを見るなり逃げ出していく。
流石にここまで大きな戦力差があると、魔物でも気づくらしい。
空気が震えるほど大きな戦気が、騎士の身体から放たれているのだから、それも当たり前か。
白の鎧に身を包んだ騎士がダンジョンの奥地に辿り着いた時、最初に目にしたのは血溜まりの中で眠る二人だった。
二人とも幸せそうな顔で眠っている。きっと、いい夢でも見ているのだろう。
「こんなところで眠るなんて。まったく、呑気な奴もいたもんだ」
ぼそっと独り言を呟いて、騎士は薄く笑った。
二人をしゃがみこんで見つめ、血に濡れた顔をじっくりと観察する。
しばらくして「よし」と呟いた騎士は、ポケットの中から大きな魔石を二つ取り出した。
形が綺麗に整ったそれは、中心から微かな光を放っている。
その見た目だけで、記録された魔法の高度さが伺える。
魔石同士を合わせて力を入れるとパキンと音を立てて割れ、白色の大きな二つの魔法陣が二人を包み込んだ。
すると次の瞬間、驚くべきことが起きる。
ボロボロに刻まれ、死に行くはずの二人の身体が。
魔法の力によって瞬く間に癒えていったのだ。
切り刻まれた身体も、胸に空いた穴も、血だらけの掌も。全てが一瞬の内に治っていく。死にかけていたアイシスは息を吹き返し、すぅすぅと安らかな寝息をたて始めた。
「念の為に買っておいて正解だったな」
騎士が発動した魔法は『リレイズ』という回復魔法。
売れば一生遊んで暮らせるほどの金が手に入る、最高純度の魔石でしか発動できない超高位魔法だ。
絶命寸前の命すら救うと言われるその魔法が込められた魔石を、騎士は惜しげも無く使った。
一体、こいつは何者なのか。そんな疑問を抱くものはこの部屋にはいない。
「さて、と。それじゃ街まで運んでやるか。風邪を引いたら大変だ」
二人の身体を軽々と持ち上げた小さな騎士は、機能が回復したゲートに手をかざす。
そして、ゲートの向こう……ダンジョンの入口へと、二人を連れ去っていったのだった