【38話】 撃滅の剣
アースディア帝国があるゴストリア大陸。
その最南端に位置するデボン荒野に、凄まじい勢いで走る少女が一人。
背中に少年を乗せたその少女は、汗一つかかずにひた走っている。
スピカが王都を出ておよそ一時間半が立っていた。
デボン荒野はかなり広大なため、手紙に記されていた神殿まではまだ少し距離がある。
現在の時刻は夕方の6時。
黄昏時とも、逢魔時とも呼ばれる時間帯である。
沈む夕日に染められた荒野は広大で、ひたすら同じ景色が続いていた。
「師匠、彼らの目的は何なのでしょうか……」
スピカの背中にも、その速度にも慣れてきたアイシスが、無表情で走り続ける彼女に質問を投げかけた。アイシスの言う彼らとは、言うまでもなく戦律の簒奪者のことである。
「……奴らの目的は、逢魔の姫の復活だ」
スピカの口から出たのは、アイシスもよく知る魔神の名前だった。
「逢魔の姫!? それって、おとぎ話に出てくるあの魔神の事ですよね! まさか、実在するんですか!?」
「……ああ。鴉の騎士の英雄譚は、おとぎ話なんかじゃない。現実とは少し違うが、あれはれっきとした史実だぞ」
鴉の騎士の英雄譚。
それはアイシスが幼い頃に絵本で何度も呼んだ、鴉の騎士ジークレインの物語である。
世界を壊そうとする魔神・逢魔の姫を、【黒の戦神】の騎士であるジークレインが倒すというシンプルなストーリーだ。
絵本では逢魔の姫は改心し、世界に再び平和が訪れたとされているが……
「ジークレインは奴に致命傷こそ与えたものの、とどめを刺す前に力尽きてしまった。生き残った魔神は最後の力を振り絞り、時空を超える魔法でこの時代に逃げてきた……というわけだ」
スピカは淡々と、まるで昔話をするようにそう語った。
嘘のような話だが、その真剣な瞳はとても嘘を言っているようには見えない。
「時空を超える……そんな魔法が存在するんですね」
「ああ。だが、時空を超えるのに体へとかかる負担は絶大だ。奴は未来へ飛ぶために、自らを殻に閉じ込め、体を液体に変化させる必要があった。今の奴は人の形をしておらず、人の身体に戻るためには器となる人間が必要になる」
「まさか、ジークはその器に?」
「恐らくな。だが奴らがジークをさらったのは、それだけが理由じゃない」
「……戦律の核、ですか」
アイシスの答えに、スピカが「そうだ」と頷いた。
彼女の胸に刻まれた真っ白な六芒星。
それが彼ら【戦律の簒奪者】の狙いであることを、アイシスは事前にジークから聞かされていた。
もっとも、戦律の核が何なのかは教えてはくれなかったが。
「白の核と黒の核───対を成すそれらは、もとは『戦律』という一つのシンボルだった。戦律は世界平和を願った二人の戦神が、それぞれの戦気を集めて作ったものだ」
二人の戦神とは、【黒の戦神】イヴと【白の戦神】アダムの事だろう。
スピカの話によると、二人の戦神は争いの絶えない時代を終わらせるために、平和のシンボルとして戦律を作ったようだ。
彼らの戦気を凝縮して作られた戦律は、世界の理を変えてしまうほどの力を持つ。
二人はその力を使い、戦争をしてはいけないという律で世界を縛った。
戦律は戦神たちの願いの通り、世界に恒久の平和をもたらした。
その平和は永遠に続くものだと思われていたが、平和を守る戦律に魔の手が忍び寄る。
混沌を願うその魔神は、戦律の守護者である【調律の女神・ラディカルータ】を手に掛け、戦律を我がものとした。
魔神は手にした戦律の力を使い、争いに満ちた世界になるように理を書き換えてしまう。
結果、恒久と思われた平和は打ち砕かれ、世界は再び戦火に包まれた。
そしてその混沌を願う魔神こそ、戦律の簒奪者たちが復活させようとしている逢魔の姫だったというわけだ。
「最終的に、ジークレインの手によって破壊された戦律は、『ふたつの核』と『欠片』となってこの世界に飛び散った。お前の胸に刻まれたそれも、はるか昔は戦律の一部だったものだ」
アイシスはそう言われて、自分の胸に刻まれた六芒星を触る。
スピカの口から明かされた、『戦律の欠片』という名前の真意。
はるか神話の時代から受け継がれてきた力が、自分の中にある。
とても不思議な感じがした。
「分離したふたつの核。白の核はジークが持っているが、黒の核は未だ奴の手中にある。分かれているふたつの核が再び一つになった時、戦律の理を変える力によって、世界は今度こそ奴の魔の手に落ちるだろう」
「……師匠は、それを阻止したいんですよね?」
「当たり前だ。俺はその為に……いや、なんでもない。少しお喋りが過ぎたな。ジークが危ない。少しスピードをあげるぞ」
ぐんっと、スピカが走る速度をあげ、アイシスは黙るしかなくなってしまう。
アイシスはもう一つ、彼女に尋ねたいことがあった。
それは他でもない、スピカ自身のことである。
黒の戦神イヴのパートナーとして、鴉の騎士ジークレインがいるように。
白の戦神アダムにもまた、同じようにパートナーとなる騎士がいた。
その騎士の名は、【天使の騎士】スピカ。
戦神の右腕として猛威を振るった騎士の髪は、それはそれは美しい金色であったという。
今、目の前で風に吹かれている彼女の髪と同じ色だ。
鴉の騎士の英雄譚は、今から千年も前の話である。
それをまるで体験談のように語る彼女は、一体何者なのか。
もやもやと逡巡するアイシスをのせたまま、スピカはジークのもとへ急ぐ。
だが、神殿まであと少しというところで、スピカが唐突にその足を止めた。
「師匠……?」
アイシスが急に動きを止めたスピカに声をかけるが、彼女は驚いたような顔をしたまま動かない。
不思議に思ったアイシスが彼女の視線をたどると、何もない荒野に一人で立ち尽くす男の影があった。
黄昏時とは、よく言ったものだ。
─────誰そ彼。
背景に映る、真っ赤に染まった沈みかけの夕日が、そこに立つ青年の顔をうまく隠していた。
夜が訪れるにつれ、その人物の顔はあらわになる。
「え……?」
アイシスは目を疑った。
立ちはだかる彼の顔が、知っている人によく似ていたからだ。
死霊戦気に身を包まれたその青年は。
腹部に大きな風穴を開け、アースディア騎士団の制服に身を包んだその男は。
「嘘だ……」
ぽつりと。
スピカが掠れた声で呟いた。
アイシスを支えていた手が離れ、だらんと垂れ下がる。
血のように赤い夕陽に染まる彼女の顔。
少なくともアイシスにとっては、初めて見る表情だった。
「師匠、あれは……」
「下がってろ」
スピカは冷たい声でそう言うと、力強くアイシスを突き飛ばした。
怒っているようにも、悲しんでいるようにも見える表情で、彼女は剣を抜く。
「戦律、解放……」
縋るような思いで彼女は呟いた。
あれは何かの間違いだ。
頼むから、何かの間違いであってくれと。
そんな彼女の願いをあざ笑うように、
青年の口が「ハツ」と動いた。
─────ぼふっ
彼の両腕が煙に消え、戦気が爆発的に上昇する。
強さの為に腕を犠牲にするその自戒律は、弟のものによく似ていた。
「お前は……誰だ?」
スピカは静かに問いかけた。
青年はそれには答えず、ググッと腰を落とした。
「質問に答えろ……答えろよッ!」
怒りの篭った声とともに、スピカの戦気が大きく膨れ上がる。
刹那、青年の放った蹴りと、スピカの剣が激しくぶつかり合った。
─────ドッ!
強大な力がぶつかり合い、衝撃波が生まれる。
それが開戦の合図となった。
死霊戦気の性質上、死体が新鮮であればあるほど、その死体本来の力が発揮しやすい。
それは死体にまだ生きていた時の戦気が残留しているからだ。
死体に染み込んだ戦気を、死霊戦気によって呼び起こすイメージといえばわかりやすいだろうか。
つまり、この死体の戦気には、嫌というほどシリウスの香りが染みついていた。
「クソッ……なぜだ、なぜ……!」
苦虫を嚙み潰したような、苦悶の表情で剣を振るうスピカ。
シリウスの猛攻は、彼女の体に掠りもしない。
それほどの実力差が、二人の間にはある。
彼女が殺そうと思えば、すぐにでも彼を殺せるだろう。
けれど彼女がそれをしなかったのは、確かめたかったからだ。
彼女はまだ、一縷の望みを捨てきれずにいた。
この死体は偽物で、本当のシリウスは生きているのではないか。
だが、戦うほどにその希望は薄れていく。
戦えば戦うほど、この死体がシリウス本人のものであることが、疑いようのない事実へと変わっていくのだ。
彼女の中でそれが決定的になったのは、彼が自戒律を解いた後のことだった。
ぼふっと音がして、彼の腕が元に戻る。
彼は戻った腕で居合の構えをとった。
それは、スピカ自身が彼に教えた必殺の構え。
『姉弟子のように強い人でありたいんです』
無邪気な笑顔でそう言った彼の顔が、スピカの脳裏に浮かび、重なった。
「……っもういい」
諦めの言葉と共に、スピカは剣を納める。
だがそれは戦うことを止めたわけではなく、
彼女は腰を落とし、彼と同じ居合の構えをとった。
アイシスがその技を目にするのはこれで二度目だ。
相変わらず、彼女の手元に収束する戦気は誰よりも強かで美しい。
短い溜め。自戒律を伴わないシリウスが相手なら、この程度で十分だろう。
スピカはシリウスの溜めが終わる瞬間に合わせ、その技を放つ。
凄まじい威力を秘めた彼女の剣は、驚くほど静かに。
愛する弟に向けて、力強く放たれた。
「「撃滅の剣」」
重なる姉と弟の声。
涼やかな金属音と共に、ふたつの撃滅の剣が交錯する。
─────ドドォン!
ぶつかり合った姉弟の剣が、地形を破壊するほどの衝撃を生んだ。
アイシスの目に映る彼女の一撃は、あまりにも強大で。
どちらが勝ったのか、もはや語るまでもあるまい。
打ち砕かれたシリウスの剣。
彼の身体につけられた大きな傷跡から血が噴き出し、彼の身体が地に伏す。
最初で最後の姉弟喧嘩は、完膚なきまでに姉の勝利で幕を閉じた。
「……シリウスさん!」
敗者である彼のもとにアイシスが急いで駆け寄るが、もはや彼の身体に息はなく。
悲しいほどに冷たい彼の体温が、戦いの終わりを告げていた。
ざっ……土を踏む音がして、アイシスが顔を上げる。
荒涼の風に揺らぐ、ふたつの金色。
月明かりに照らされたスピカが、無表情でこちらを見下ろしていた。
感情を殺した顔。それでも震えた。震えるほどに、恐ろしかった。
「行くぞ……仇討ちだ」
まるで氷のように冷たい声で、スピカはそう言った。
愛する弟を殺された彼女の怒りは、この世の何よりも恐ろしく。
アイシスは耐えがたい不安とともに、彼女が味方であることに対する強烈な安堵を感じるのだった。




