【31話】 貴方の騎士
「気をつけろ、アイシス。この鴉、相当手強いぞ」
「はい。こうして対峙するだけで、かなりの戦気を感じますね……」
鴉の仮面をした男の放つ、膨大ともいえる戦気。
スピカともシリウスとも違う薄暗い戦気は、底知れぬ恐怖を感じさせる。
強大な敵を前に剣を構えたアイシスの腕は、微かに震えていた。
「……大丈夫。私と君、二人の力を合わせれば、適わない敵ではないさ」
アイシスの僅かな震えに気付いたジークは、強張っている彼の背中を軽く叩き、肩を引っ付けるように並び立つ。
肩を通して伝わる、暖かな体温。
僅かに触れた肩から、勇気が流れ込むような気がした。
(そうだ。ジークさんと一緒なら、どんな敵が来たって……)
アイシスの中に満ち溢れた希望。
しかし─────
彼の胸中に渦巻いた幸福な感情は、思いもよらぬ形で断ち切られることになった。
「アイシスと聞いてまさかと思ったが。ランスロットの言う通り、運命とは数奇なものだな」
「……え?」
驚いたような声で呟いた鴉の言葉に。
懐かしさと恐怖が入り混じったような、気持ちの悪い感情がアイシスを襲う。
「実の兄に刃を向けるとは。まったく、どこまでも愚かな弟だ」
それは聞き覚えのある、冷たい声だった。
底の見えない深淵からせり上がってくるような、おぞましさを孕んだ鴉の声に。
アイシスの心に満ちていた希望が、一気に絶望へと変わる。
「その声……う、嘘だ……」
がちがちと合わない歯の根を鳴らして、アイシスは体を震わせた。
異常なまでに上がった心拍数。
心配したジークが「どうした?」と声をかけるが、彼の耳には届かない。
鴉は仮面に手をかけ、ゆっくりとそれを引きはがす。
ついに、ずっと隠していた彼の素顔が露わになった。
奇妙な仮面の下から現れたのは。
アイシスと同じ、血のように赤い瞳と女のように整った美しい顔。
忘れたくても忘れられない、アイシスにとって恐怖そのものでもあるその男の正体は。
「サロメ、兄様……?」
アイシスの呼びかけに、サロメは狂気的な笑みで応える。
鴉の仮面を被った謎の男。
その正体は死んだはずのアイシスの兄、サロメクロウディアであった。
「なぜ貴方が……し、死んだはずじゃあ!」
「ああ……あの死体なら別人だぞ。ちなみに、ランスロットを殺したのも俺だ。
あれしきの偽装も見破れんとは。相変わらず、愚鈍なようで安心したよ」
「そ、そんな……」
兄の口から告げられた真実に、アイシスの震えが大きくなった。
がくがくと膝が笑い、立っているのもやっとの状況。
長年の奴隷生活で彼の心に染みついた兄への畏怖が、アイシスから正気を奪う。
「さぁ愚弟よ。その剣を今すぐに下ろし、地面に膝をつけ。
嫌というなら別に構わないが、それ相応の罰を受けてもらうぞ。
俺の命令に逆らえばどうなるのか、まさか忘れたわけではあるまいな?」
「は、はい……」
アイシスは兄の言葉に素直に従い、構えた剣を下ろし、膝を地につけた。
真っ白になった頭の中で、どうすれば兄を怒らせずに済むかを考えてしまっている。
自分の言葉に従ったアイシスを見下ろして。
サロメは心底楽しそうに笑った。
「クハハッ!……そうだ、それでいい。
貴様はそうやって、馬鹿みたいに俺の言葉に従っていればいいんだ。
それが才能のかけらもない、貴様にできる唯一の……ッ!?」
突如飛んできた斬撃に、サロメの言葉が中断される。
斬撃を放ったのは他でもない。
隣で一部始終を聞いていたジークだ。
「さっきから聞いていれば、愚鈍だの愚かだの……愚かなのは貴様の方だ、サロメ・クロウディア。
私の騎士をこれ以上侮辱するというのなら、私がそのよく喋る舌を引きちぎってやる!」
剣先をサロメに向けたジークの瞳に、先ほどまでの冷静さは無い。
うっすらと涙が浮かぶ彼女の瞳には、悔しさがにじみ出ている。
自分の騎士を侮辱され、黙っていられる彼女ではなかった。
彼女はうずくまる少年の代わりに激昂する。
「アイシス! こんな奴の言う事を聞くな! 怖くてもいい、私がいる!
君が望むなら、私が君を守る盾にもなろう! だから、立ち上がって私と共に戦え!」
闇を照らす太陽のような彼女の言葉に。
アイシスの恐怖心が、僅かに薄れた。
アイシスは立ち上がり、震える手でもう一度剣を構える。
そのへっぴり腰の構えは無様もいいところだったが、ジークは満足そうに頷いた。
「それでいい。君はもうかつての臆病者のアイシスじゃない!
強くなった今の君を、愚かな兄に見せつけてやろうじゃないか!」
「は、はい……!」
なんとも歯切れの悪い返事だったが、ジークは彼に笑顔を向けた。
「……くだらん茶番だ。まぁいい。弱者が一人増えたところで、俺のすべきことは変わらない」
サロメは傲岸不遜な態度で、二人を迎え撃つ。
彼は一歩一歩、覇道を進む様に前へ出ると、剣先をアイシスに向けて宣戦布告する。
「まずは貴様からだ、愚かな弟よ。この兄に逆らった事、一生かけて後悔させてやる」
「アイシス、来るぞッ!」
この時、ジークの忠告すら聞こえないほどに、アイシスはサロメの言葉に脅えていた。
サロメの何が、そこまで彼を恐れさせるのか。
彼に恐怖を与えるように、ゆっくりと近づいたサロメは。
戦気を込めた足で、アイシスの腹を力強く蹴り飛ばした。
「ぐぅっ!」
腹を蹴られたアイシスは勢いよく飛ばされ、コロシアムの壁に身体を打ち付けてしまう。
背中に衝撃が走り、ずるずるとその場にへたり込んでしまった。
(やはり、呪いはまだ消えていないようだな……)
無抵抗で蹴られたアイシスを見て、サロメは確信した。
頭にかぶった黒い兜の下。
アイシスの額には、サロメだけに見える真っ赤な印が付いている。
それは『服従の呪紋』と呼ばれる、呪いの紋章。
まだ幼かった頃にサロメがアイシスに刻んだ、恐怖を植え付ける呪いである。
アイシスが異常にサロメを恐れるのは、この紋章が彼の感情を支配するからだ。
「貴様はそこで大人しくしていろ。用があるのは、お姫様だけだ」
「アイシ……ッ!?」
サロメの攻撃で、今度はジークの言葉が遮られる。
力強く押し込まれる刃。
ジークもそれを押し返そうと奮闘するが、力及ばずじりじりと追い込まれていく。
やはり一人では適わない。
そう判断したジークは倒れているアイシスに向けて、言葉を投げかける。
「立ち上がれ私の騎士! 君はッ、君はまだ戦えるはずだ!」
「……無駄だ。貴様の騎士はもう立ち上がれない。
貴様も知っての通り、奴は根からの臆病者だからなぁ」
「うるさい黙れッ! アイシス、聞こえているんだろう! 私一人じゃダメなんだ!
君が、君の力が必要なんだよ! お願いだ、私と共に戦ってくれ!」
ジークの必死の呼びかけも虚しく、アイシスは俯いたままピクリとも動かない。
「クハハッ、滑稽だな。信じた騎士に裏切られる気分はどうだ、お姫さまッ!」
「まだ言うか貴様……ッ!!」
激昂し、力任せで押し返した剣。
それに合わせるように、冷静なサロメがすっと剣を引いた。
支えを失ったジークの身体が、前のめりで倒れる。
(しまっ……!)
サロメの膝蹴りが、ジークの下あごを打ち抜いた。
攻撃がクリーンヒットして、脳みそが揺れる。
平行感覚を失った彼女の身体を、サロメの剣が追撃した。
「ぐぁああああっ!」
鞭のようにしなる剣が、彼女の体に傷をつける。
そこから先は、無残なものだった。
ジークがふらふらと立ち上がる度、ねっとりと痛ぶるようなサロメの斬撃が彼女を襲う。
女を相手にしているとは思えない、えげつない戦い方でサロメは彼女の心を折りにかかった。
「クハハハハハッ! ほらほら、もっと逃げ惑え。貴様が無様に逃げ回るほど、俺の心は満たされる。もっと醜く、抗って見せろ!」
生粋のサディストであるサロメの高笑いが、コロシアムに響く。
サロメは逃げまどう彼女の背中を剣で切り付け、傷口のできた場所を蹴り飛ばした。
血を流す彼女の身体が、アイシスの前に転がる。
「あ、アイシス……」
ジークは助けを求めるように、俯いたままのアイシスに向けて手を伸ばした。
それでもなお、アイシスは動かない。
呪いと恐怖に蝕まれた彼の目はもう、ジークの姿は映っていなかった。
「無駄だというのがわからん奴だな」
ドカッと、ジークの腹をサロメが蹴り上げる。
ゴロゴロと転がった身体。
満身創痍の彼女の前に、一人の男が立ちはだかった。
「騎士団長バルド。市民全員の避難を終え、遅ればせながらはせ参じました」
サロメの前に現れたのは、アースディア騎士団の制服に身を包んだ大柄の男であった。
男の名はバルド。
会場にいた全員の避難を終えた彼は、ジークが戦闘しているのを見て駆け付けたのだ。
アースディア騎士団の彼らは、ジークを守るための壁を作る。
彼らは『戦律の欠片』を有していない。
バリアで防御を固めてはいるが、サロメの足止めすら満足にできないだろう。
「お前らわかっているな。ジーク様のため、死ぬ気でそいつを足止めしろ!」
ジークの満身創痍の身体に、バルドが『レイズ』の魔石を使う。
緑色の光が彼女を包み、瀕死状態であった彼女の意識が戻った。
「ジーク様、大丈夫ですか!?」
うっすらを目を開けたジークに、バルドが心配そうに声をかける。
ジークは痛みに顔歪めながら起き上がると、バルドに向かってこう言った。
「……バルド、1分でいい。私がアイシスと話す時間を作ってくれないか?」
「……承知しました。この騎士団長バルド、死に物狂いで時間を稼ぎましょう。行くぞお前ら!」
彼の一声に、騎士団が「おぅっ!」と声を上げる。
実力不足だと知っていながら、彼らは主の為にサロメへと立ち向かっていく。
彼らに向けて「すまない」と呟いたジークは、痛む身体を引きずりながら、コロシアムの壁に寄りかかるアイシスのもとへと急いだ。
「ジーク様のためなら、たとえ地獄の底でも喜んで飛び込もう!」
「無駄なあがきを……!」
王女としてのジークは、皆から愛されているらしい。
彼らはやられることをものともせず、ただひたすらサロメに向かって突っ込んでいく。
サロメの攻撃により、騎士団の猛者たちが次々とやられていく中。
ジークは片膝をつき、動かないアイシスに語り掛ける。
「アイシス、そのままでいい。どうか私の話を聞いてくれ」
彼女は彼を責めるでもなく、愛しさすら感じる手つきで彼の顔を隠す兜を取った。
虚ろな瞳をした、アイシスの素顔が露わになる。
ぼろぼろになった血まみれの手で、ジークは脅えるアイシスの頬に触れた。
「エールからすべて聞いたよ。君の父上のこと、サロメのこと。
君がずっと兄に脅えて暮らしてきたことも。
彼女の話を聞くに、本当の君は案外臆病なのかもしれないな……」
そうだ。
あの日から何も変わらない、臆病者の僕。
父が兄に負けた時と同じ。
主であるジークが目の前でやられていても、この足はピクリとも動かない。
臆病で情けない、自分が嫌になる。
深い自己嫌悪に陥るアイシスに、優しい声音でジークはこう続けた。
「……でも、私は知っているんだ。
君がシリウスに勝つために、あの恐ろしいスピカに必死で食らいついていたことを。神童を前にして、一歩も引かずに戦った君の勇気を」
……そんなものは詭弁だ。
ジークの騎士になるために装った、偽りの僕。
一時の幻想にすぎない。
本当の僕は臆病で、何もできない、愚かな弟なんだ。
「確かに、臆病者の君がいるのも本当だけど。
困難に勇気をもって立ち向かえる君もまた、本当の君なのだと私は思う。
あまり自分を責めるな。誰しも、心の中に弱い自分を持っているものだよ」
……。
「大丈夫。今の君なら、きっと兄への恐れに打ち勝ち、もう一度立ちあがれるはずだ。スピカに教えを乞い、シリウスに立ち向かった、今の強い君ならね」
……。
……どうして。
「どうして貴方は、そこまで僕を……」
「信じるさ。それが、主の務めというものだ」
アイシスの言葉を遮って、ジークは毅然と言った。
一切の迷いがない肯定の言葉に、アイシスはようやくその暗い顔を上げる。
あの夜と同じ、青色の瞳がまっすぐにアイシスを見つめた。
「そういえば、まだあの問いの答えを聞いていなかったな。もう一度だけ聞くよ。
アイシス、君は……君は何者だ?」
最後に問いかけを残して。
何者でもなかった少年に、生きる意味を与えた少女は立ち上がった。
後ろで、騎士団を率いる長として最後まで戦ったバルドが倒される。
どさっ……と大男が地に伏し、サロメが欄々とした目で標的を見た。
「終わりだ、ジークレイン・アースディア。これを最後の一撃としよう」
サロメの剣に、戦気が集中する。
(信じてるぞ、私の騎士……)
彼女は剣を納め、戦気を完全に消した。
無防備になった身体で、彼女は凛然と腕を組んだ。
それがジークの、彼に対する最大限の信頼の示し方であった。
そして、そんな彼女の信頼に応えるように。
一羽の鴉が、空を舞う。
─────キンッ
涼やかな音が響き、サロメの剣が弾かれた。
上空から舞い降りたアイシスが、サロメの攻撃を捌いたのだ。
「……馬鹿な。呪いの紋章が、消えただと!?」
サロメが、ジークの前に降り立った少年の額を見てそう呟く。
少年は迷いのない目で兄を睨みつけると、力強く剣を薙ぎ払った。
「ジーク、ありがとう。おかげで目が覚めたよ」
「……答えは見つかったようだな」
アイシスはジークの問いに、頷いて答える。
鴉の騎士は、精悍な顔つきで彼女の前に立ち。
ずっと自分を虐げてきた兄に向けて、こう言い放った。
「僕の名はアイシス・クロウディア。
他でもない、ジークレイン。
世界でただ一人の、貴方の騎士だ!」
決意の灯った赤い瞳が、敵となった兄を見据える。
額に会った忌々しい紋章と共に、兄に対する恐れは消えていた。
何者でもなかった少年が、生きる意味を見つけた時。
少年はきっと、何者にも負けない剣士になる。




