【3話】 愚かな弟
帝国アースディア。
その中央に位置する街、王都ライオットでアイシスは生まれ育ってきた。
ライオットは森に囲まれた、自然豊かな街だ。
現王バルカ・アースディアの住まうアースディア城の城下という事もあり、商業などもそれなりに発展している。
この街に住民として住むなら、なかなか好条件だと言えるだろう。
そんなライオットの外れ、鬱蒼と生い茂る森の奥にアイシスの家、クロウディアの屋敷は建っていた。
豪華絢爛なその見た目は視覚的にも聴覚的にも、物静かな森の中で有り得ないほどの存在感を放っている。
「ただいま帰りました、兄さん」
入口の大扉を開くと目の前に兄がいたので、アイシスは慌てて頭を下げた。
深く、深く。
血の繋がった兄に頭を垂れるなど傍から見れば異常極まりない光景だが。
強者の序列がはっきりとしたクロウディア家ではそれが当たり前。
それを見た兄、ランスロット・クロウディアは嫌味な笑みを浮かべた。
そしていつものように、罵倒の言葉を吐くのだ。
「おお、誰かと思えば出来損ないの弟ではないか。剣の修練もせずに朝から散歩とは、いいご身分だな。まぁ、お前に俺やサロメ兄さんに近づく努力しろと言うのも無理な話だ。何せ幾ら剣を振っても上達しないのだからな、アハハハハハッ!」
「おっしゃる通りですね……アハハ……」
馬鹿にされたにも関わらず、アイシスは曖昧に笑うだけ。
染み付いているのだ、負け犬の立場が。
この家で彼が二人の兄に反抗することは許されない。
逆らおうものなら直ぐにでも家を追い出されてしまうだろう。
いや、それだけならまだいい。
彼らが本気になれば、アイシスから人間の尊厳を取り上げ、奴隷のような生活をさせることすら容易い。
クロウディア家の権力を握るというのはそういうことだ。家の中ならどんな暴君も許される。それを止めるものがいないのだから当たり前だ。
ゆえに、アイシスは兄である彼らの機嫌を何時でも気にしていなければならない。罵倒の言葉にも笑って答え、機嫌を損ねれば地べたに這いつくばって謝罪をする。
彼自身もいつの間にか、それが当たり前になっていた。
「まぁ、俺や兄さんの機嫌を損ねないよう。部屋にひきこもってママゴトでもしてるんだな。俺はギルドに行くが、くれぐれも問題を起こすなよ?サロメ兄さんの機嫌を損ねたら、とばっちりを食うのは俺だ。その辺よーくわかっとけ?」
「……はい、肝に銘じておきます」
「ふんっ」
黒羽のマントを翻し、ランスロットは家を出ていった。
緊張の糸が溶け、思わず安堵のため息が出る。
家族、なんて生ぬるい言葉はこの家には無い。あるのはただ、絶対的な上下関係だけ。
これがアイシスがこの家を嫌う理由だ。
「おかえりなさいませ、アイシス様」
アイシスが呆然と立ち尽くしていると、どこからともなく現れた従者が彼に声をかけた。
黒い仮面で鼻から上を隠しており、下は従者の礼装に身を包んでいる。
何故顔を隠すのか、その理由は至極単純。
奴隷上がりの彼らには、クロウディア家の人間と目を合わすことさえ許されない。
人として接することを固く禁じられているのだ。
「うん、ただいまエール。えっと、サロメ兄さんはいる?」
「いえ。サロメ様はダンジョンへ行くと仰って九時頃出ていかれました。何か用がおありでしたか?」
「いや、特に用があるわけじゃないんだ。それより、喉が渇いたから冷たい紅茶が欲しいんだけど。後でいいから僕の部屋に届けてくれないかな?」
「かしこまりました」
エール、そう呼ばれた女の従者は深々とお辞儀をしてキッチンのある方へ消えていった。アイシスもそれを見届けて、自室へと歩き出す。
ロビーの大階段を登り、長い廊下を歩き続ける。豪華絢爛な装飾に、数十人はいるであろう従者。
それらはクロウディア家の権力を象徴するものといえるだろう。
三百年の歴史を持つクロウディアは、何人ものA級ダンジョン制覇者を生み出す剣の名家だ。
この地に残る幾つもの英雄譚に度々クロウディアの名前が出てくる。
長い歴史の中で生まれたクロウディアの剣士達が作り上げた地位と名誉。
アイシスがそれを誇りに思ったことなど一度もない。
それどころか、彼はいつも悔いていた。こんな家に生まれてしまった自分の運命を呪っていた。
実際、長いクロウディアの歴史の中でアイシスは最も不幸な少年だ。それは何故か。
彼は生まれた家も悪ければ、生まれた時期も最悪だった。
クロウディア現当主であり、アイシスの実の兄であるサロメ・クロウディア。
彼の剣才を言葉で現すとしたら、まさに化け物。
魔力の才も剣の才も、爆発的なスピードで伸びるスキルは留まることを知らない。
彼は十五歳の時に父を完膚なきまでに叩きのめしたのだ。
二度と当主などと名乗れぬよう、容赦なく徹底的に潰した。
この出来事をきっかけにサロメは自分の剣の才能に溺れた。
自分の揺るぎない強さに、絶対的な自信をつけてしまった。
奢り高ぶり、止められなくなった暴君。
それが今のサロメ・クロウディアだ。
そして、不幸にもアイシスはその暴君の標的になってしまう。
弱者のレッテルを貼られ、愚者として吊るされた。牙をもがれ、観賞用のペットとして飼い慣らされた。
その事実は今更どうしようもなく、アイシスを縛り続けている。
変わりたいとさえ思えぬまま、この牢獄のような家に留まり続けるしか無いのだ。
「失礼致します。アイシス様、紅茶をお持ちしました」
コンコン、扉がノックされて、エールの声が聞こえた。窓の外を眺めていたアイシスは扉に向かい返事をする。
「はーい、開いてるからどうぞ」
「はい、失礼します……」
木戸を開け、エールがお盆を手に入ってくる。カランカランと涼し気な音を立て氷が揺れた。
テーブルに置かれるのを見計らって、アイシスはエールに声をかける。
「エール、ありがとね。あ、そうだ。折角兄さんたちもいないんだから、そこに座ってよ」
そう言って横にあるもうひとつの椅子を引く。
明るいアイシスの声に、これまで表情を崩すことの無かったエールの口元がわずかに緩んだ。
「……は、はい、それでは。その、お言葉に甘えさせて頂きます」
「うん、遠慮しないでいいからね」
アイシスが従者達に優しいのはいつもの事だ。
兄たちがいないのを見計らっては紅茶を理由に部屋に招き入れ、憩いの時間を作る。彼は働き詰めの従者達に少しでも安らげる場を与えてあげたかった。
奴隷上がりの従者達は皆、クロウディアに金で買われている。立派な衣服を着せられ、ある程度の教養を与えられてはいるが、人間の尊厳があるかどうかは怪しいところだ。
少しでも兄たちの機嫌を損ねれば、徹底的した教育という名の暴力を受けることになってしまう。
彼等の衣服に飲み物を零せば全身が火傷するほどの熱湯を頭から被せられ、彼等の前で欠伸をすれば二度と欠伸が出来ぬよう唇の皮を剥がされた。
クロウディア家の従者はいつも彼等の報復に怯え、決して失敗しないよう慎重に行動しなくてはならないのだ。
故に従者たちに心休まる場所など無い。
あまりの過酷さに根を詰めて発狂してしまうものもいる。
そんな彼等の負担を減らすために、アイシスはできる限りのことをしてあげたかった。
そのうちの一つがこの茶会だ。
「えーっと、ごめん。何か飲むものがいるよね。二人分持ってきてって言うの忘れてたから……そうだ、僕がついでくるよ!」
「い、いえっ、そんな! 私が行きますから! アイシス様はそこに座ってお待ちください!」
「あ、そう?じゃあお願いしようかな」
大慌ててアイシスを制し、エールは高速で紅茶をつぎに行く。
キッチンに向かう途中、他の従者たちに事情を説明すると皆一様に笑顔で許してくれた。
彼の部屋に招き入れられるということは、従者達にとって一大イベントなのだ。(アイシスは従者達に影で「女神様」と呼ばれ慕われているのだが、本人がそれを知る由はない)
急いで紅茶をついできたエールをおかえりと笑顔で労うアイシス。
その笑顔に思わずエールの顔が赤くなった。
「ふぅ。エールが入れてくれた紅茶は美味しいね。何か入れ方にコツとかあるの?今度機会があったら教えて欲しいなー」
「わ、私ごときが教えるのは難しいと思いますので……言っていただければ何時でもお作りします……」
「ホントに? いつもありがとね、エール!」
「は、はい……」
お礼を言われるなんて、何時ぶりだろうか。ありがとう、その言葉に目頭が熱くなる。
話慣れていないエールを気遣って、他愛のない話題をアイシスはほぼ一方的に語った。時々エールの顔色を伺いながら、少しでも負担を減らすよう、優しい口調で語り掛ける。
蒼の旅団のことや、ギルドのこと。外の世界に出ることの無い彼女らの為に、色んな話をしてあげた。
これほどの優しさを向けられて落ちない乙女などいるものか。
こうして天然の女たらしはまた一人、新たなファンを獲得することになる。最も従者のほぼ全員を茶会に招待しているので、既に従者の九割は彼のファンになっているのだが。
気づけば時計の短針はひとつ進み、昼時を迎えていた。楽しいひと時は終わり、飲み干した二つのグラスを持ってエールは立ち上がる。
「すみません、アイシス様。私、そろそろ仕事に戻らないと……」
「あー、そっか。ごめんねエール、僕のつまらない話に付き合わせちゃって……」
「い、いえ。その、なんと言うか。凄く、楽しかったです」
「なら良かった。また兄さんがいない時に誘うよ。次からは紅茶、ふたつ持ってきていいから」
「あ、ありがとうございます……それでは、失礼します」
「うん、またね!」
笑顔で手を振ってエールを見送る。
息抜きをさせるという名目で始めたこの茶会だが、アイシス自身にとっても癒しの時間になっていた。
口角はあがったまま窓の外に目をやる。
いつもこんなに楽しい時間を過ごせるなら家も悪くないのに、そう思いながら。
さて、サロメもランスロットもいないと分かった以上アイシスがこの家にいる必要は無い。
どこへ行こうと自分の自由だ。
こういう時いつもならダリスを誘って街へ買い物に出るのだが、今日は予定があると言っていた。
他に誘える友達もいないので、街に行くという選択肢は消える。
残った選択肢は、剣の修練をしに森へ行くというものだ。
彼には師と呼ぶべき人物がいないので、独自に剣を学ぶしか方法がない。
森に湧いた雑魚を倒し、少しでも実践経験を積むのだ。
とても効率が良いとは言えないが、兄に剣を教わるよりは幾分かマシだった。
運のいいことに今日の天気は快晴。となれば、行かない理由はない。
アイシスは早速剣を持ち、一応従者のひとりに森へ行くとだけ伝えて屋敷を出た。
クロウディアの屋敷は森の中にあるが、ここで言う森は別の場所を指す。
街を抜け、さらに西側へ歩いたところにある『アドの森』と呼ばれる場所だ。
比較的弱いモンスターが生息しているため、初心者が狩りを行うのに適しており、最寄りのギルド「彗星の使者」でも入団試験に使われたりする。
アイシスの腕なら、さして苦戦することは無い。
いつものように街を抜け、アドの森へ辿り着いたアイシスは、早速今日のターゲットを探して森の中を練り歩く。
今日一番目の獲物は、デモンラビッツと呼ばれる大型の獣だった。長い耳に一角を持つ害獣で、田畑を食い荒らすため狩りの対象としては申し分ないだろう。
「よし、こいつにするか……」
腰に携えた細身の長剣を抜き、まだこちらに気づいていないデモンラビッツに向かって構えた。
アイシスは狙いを定めて静かに深く呼吸をする。すると彼の放つ空気が明らかに変わった。
──────『戦気』
この技術は剣士の間でそう呼ばれている。
身体能力の向上、防御力の上昇、怪我の治癒、等。
戦気は修練すれば様々な用途に使える万能の技術だ。
人の内に眠る異能の力。それをどれだけ呼び起せるかが、剣士としての評価に直結する。
アイシスが狙う先はデモンラビッツの首。
無防備なその体に、一閃。目にも止まらぬ速さで近づき剣を振るった。
「ハァッ!」
短く発した気合と共に兎型の魔物の頭部が宙に舞う。
赤い血が飛び散り、獣は土に伏した。
獲物が死んだことを確認したアイシスはポケットから小さな赤い石を取り出した。
「灯火よ、焼け」
短い詠唱に応じて、赤い石は光を放った。
するとデモンラビッツの死体からめらめらと火が燃え上がる。
──────『魔法』
これまた様々な用途に使える万能の力だが、戦気とは決定的に違うことがある。
それは魔法は資源だという事。
ダンジョンで取れる『魔石』という魔力の篭った石に魔法陣を彫ることでのみ発動することができる。
魔石が無ければ使えないうえ、一つの魔石に込められた魔力はさほど多くない。
魔力量の多い魔石ほど希少価値が高く、高値で取引されるのだ。
魔法によって燃やされたデモンラビッツの死体はものの5分で黒焦げになった。
ギルドの取り決めで魔物の死体は狩った本人が始末することになっている。
理由は魔物の死臭が新たな魔物を引き寄せてしまうからだ。
「よし、まずは一匹。次は……」
アイシスはそのまま森の中を駆けまわり、目に付く獲物を片っ端から切り伏せた。
とはいえ森の中にいる魔物は比較的おとなしいものが多いため、戦闘の訓練になるかどうかは怪しいところ。
「……よし、ある程度は狩り尽くしたかな」
そう言って、血だらけになってしまった剣を鞘に納める。狩りの最中は楽しくて気づかなかったが、身体は随分と疲弊してしまっていた。
日も暮れてきたのでそろそろ切り上げて帰ろうと家の方に向かって歩き出したその時。
「おっ、誰かと思えばアイシスじゃねぇか。こんなことで何してんだ?」
森の奥から現れた人影がアイシスに声をかけた。
その声に振り返ったアイシスの顔がぱーっと輝く。
「ザインさん!」
「オッス。ギルド長コールザイン、約三ヶ月のダンジョン巡り旅からただいま戻ったぜ」
人影の正体は『彗星の使者』ギルド長にして、ギルド内唯一のS級制覇者。
コールザイン・シュケールその人であった。
鍛え抜かれ引き締まった身体と、ど派手な蒼色の長髪。
まるで肉食獣のような鋭利な歯をギラつかせニヤリと笑うその様は煩いガキを一瞬で黙らせるくらいには恐ろしい。
だがそんな見た目とは裏腹に、優しく面倒見のいい彼は子供たちの憧れの的だ。
アイシスのような英雄譚に憧れる少年なら尚更。その顔を見るなりアイシスは血塗れなことも忘れて彼に駆け寄った。
「お久しぶりです。ザインさん!」
「おう。元気してたか、しばらく見ねぇうちにまた大きくなったなー」
「そうですか?僕自身はあんまり、変わった自覚ないんですけど・・・・・・」
「キシシッ、でかくなったのは自分じゃ気づかねぇからなぁ。大丈夫、心配しなくてもお前ならすぐ俺みたいに立派な剣士になれるさ」
ガシガシと乱暴に頭を撫でられ、嬉しそうなアイシス。
コールザインは表裏なくアイシスを肯定してくれる、数少ない人物だ。
もっとも、彼が人を否定することなど滅多に無いが。
コールザインはアイシスを特別に可愛がっている部分がある。彼の人柄、そして才能に目をつけてくれている。
「ダンジョン巡り旅、どうでした?」
「あー、今回は微妙だったなー。B級ダンジョンばっかで、大したことなかったわ」
「B級でも一人で攻略しちゃうなんて、相変わらず化け物じみてますね……」
「そうか? まぁ、俺が化け物なのは認めるがな。B級くらい朝飯前よ」
「いいなー、僕も早く冒険者になってダンジョンを攻略したいです」
「ダンジョンならD級に行けばいいだろ?」
「うーん、だってD級は開拓されたダンジョンしかないから、お宝も無いし。モンスターもここら辺とあんまり変わんないじゃないですか」
「確かになー。ま、あと三年我慢すればお前も冒険者になれるさ。それまでは修行を積んどくんだな」
三年後、すなわちアイシスが成人する年。冒険者の試験を受けれられるようになるのは成人になってからなので、いくら実力があっても今のアイシスがギルドに入ることは出来ない。
いつか冒険者になってコールザインと共にダンジョンを攻略するのが、今の彼の目標だ。
「ところで、ここら一帯に焼けたモンスターが転がってたんだが、ありゃお前がやったのか?」
コールザインは辺りを見渡し、黒焦げになったモンスターたちを指さす。もちろん、全てアイシスの狩ったモンスターたちだ。数はここから見えるだけでも十、二十。
魔法によって焦がされた体が、ぷすぷすと黒い煙をあげている。
「はい、そうですけど。何か、まずかったですか?」
「いや、一人であれだけの量を狩ったんなら大したもんだと思ってな。うちのへっぽこ新人どもに見習わせたいもんだぜ。アイシス、お前は間違いなく将来優秀な冒険者になる。ギルド長を務めるこの俺が保証しよう」
「……あ、ありがとうございます」
コールザインから送られた本心からの賛辞の言葉に、アイシスはどこか居心地の悪そうな、曖昧な笑みを浮かべた。
思っていたのと違う反応に、コールザインは何かまずいことを言ったかと思い少し慌てている。
「ん、どした? 俺に褒められても嬉しくないか?」
「い、いえ。褒めてもらえるのは、とっても嬉しいです! でも、兄さんたちは僕よりもっと優秀だし。僕はどんなに努力しても兄さんたちの足元にも及ばないので。僕なんかにはもったいない言葉ですよ……」
自分を卑下し、暗い顔で俯くアイシス。
確かに、サロメやランスロットが今の彼の歳なら、こんな雑魚は狩っていない。森の奥地へ行き、もっと強い魔物をものともせず狩っていただろう。
だが、それはあくまで彼らが特別なだけであって、アイシスの年でこの量の魔物を狩るのはかなり難しい。
体力的にもすぐに限界がきて、三匹ほどしか狩ることが出来ないのが普通だ。
特別の中で育ってきた彼にはそれが分からない。
自分には才能がないと、兄達に言い聞かされてきたから。
己が弱いという固定観念を、植え付けられているから。
コールザインは考える。彼が自信を持つための、道標となるような言葉を。自分の経験から出せる、今精一杯のアドバイスを。
そして、熟考の末ゆっくりと口を開いた。
「……アイシス、俺はお前のこと好きだぜ」
「え……?」
瞬間、二人の間に変な空気が流れた。
ひとつ、明らかにアイシスは勘違いをしている。
コールザインが出した精一杯のアドバイスを、単純かつ明快な好意の言葉を。
アイシスは愛の告白として受け取ってしまったのだ。
彼の盛大な勘違いに気づかず、大真面目な顔をしてアイシスの両目を見つめるザイン。
『俺がお前を肯定してやるから、もっと自分に自信を持て』
そんな意味が込められたメッセージは届かず、雲散霧消。もっともストレートな愛の告白に変わって、アイシスの元へ届いてしまった。
「い、いや。急にそんな事言われても! ほら、僕もザインさんも男ですし! 僕は、その。僕はちゃんと女の子が好きですから!」
テンプレ通りに真っ赤な顔でテンパるアイシス。またもや予想とは違う反応を示すアイシスに首を傾げるザイン。
「はぁ?お前は何を言って……ハッ!」
アイシスの反応、そして思い返した自分の言葉。
ザインはここでようやく、彼が盛大な勘違いをしていることに気づく。
同時に自分が何歳も年下の男の子に告白してしまったという事実に気づいてしまった。
「あ、いや違うぞ! 別に俺は告白した訳じゃねぇ! ほらあれだ。俺はお前のことを好きで認めてるから、お前ももっと自分に自信を持てみたいな深い深い意味が込められて……って何を説明させんだよ!」
「……あ、ああ! なんだ、そう言う意味だったんですか。あぁ、びっくりした……」
「びっくりしたのはこっちだ! お前そこら辺の下手な女より可愛い顔してっからシャレにならねぇんだよ!」
馬鹿げた誤解が解けて、胸をなでおろす両者。
一連の笑いが、アイシスの固い表情を緩める。偶然の産物だが、さっきより二人の心が緩んだ。
「まぁなんだ。俺が言いたいのは、お前はお前が思ってるより優秀だってことだ。自分の価値ってのは自分では気づけない。だから、それを教えてくれる仲間が要る。お前の周りにもいるはずだ。お前のことを認めて、支えてくれる仲間が。だから、自分の価値がわからなくなったらそいつらに聞け。そしたら、自ずと自信もついてくる」
「……聞くって、自分自身に価値があるかを聞くんですか?」
「いや、違う。聞くのは自分のことを好きかどうかだ」
「僕のことを好きかどうか……」
「そう。好きってことは、つまり認めてるってことだ。お前に少なからず好意を抱いてるやつを探してみろ。そうやって人は自分の価値を知るんだ。な、簡単だろ?」
幾つもの苦境を乗り越えてきたコールザインの言葉には重みがある。
星の数ほどの人と通じあってきた彼だからいえることだ。
その言葉は、確かにアイシスの胸を動かした。分厚く張った氷の壁の表面をわずかに溶かした。
思えば兄から押し付けられた価値観しかアイシスは持っていなかった。ザインからも、ダリスやネルからも貰っていたはずのものを、無意識のうちに捨ててしまっていたのだろう。
無論、言葉ひとつで変わるほどアイシスに着いた枷は軽くない。長年積み重ねられてきた呪いの言葉は、しっかりと彼の心を捉えて離さない。それでも、ほんの少しだけ。
「……ザインさんは、僕のこと好きですか?」
「ああ、好きだ。お前の素直で頑張り屋なところが。大好きだ」
ザインは真っ直ぐにアイシスの目を見て答える。笑うことなく、真剣に。
アイシスはそれが何より嬉しかった。
「ふふっ、ありがとうございます。でも、そう臆面なく言われると流石に照れますね」
「キシシッ、大事なことは照れながら言うもんだ。俺もけっこう恥ずかしいから。お相子だな」
そう言って笑い合う二人。アドの森を夕日が照らす。
いつもなら憂鬱な気分になる夕日も、どこか清々しい。
今日はいい気分で家に帰れそうだとアイシスは思った。
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